エボラ出血熱とForbes400の対比・人の生き死には極めて個人的な出来事なのか


児童の殺傷事件や御岳の噴火災害など心が痛むニュースが多い中、この記事には胸がうずいてしまった。

エボラ出血熱で数千人の孤児 親族に拒否され路上生活を送っている子供の約2割は2歳未満(画像)【huffingtonpost】


(September 23, 2014. ZOOM DOSSO/AFP/Getty Images – huffingtonpostより)

両親を亡くし、親族にも受け入れを拒否され、一人で路上に佇む子供たち。明日を夢見て眠ることを許されない子供がいるという悲惨な状況がまさに今この世界で起こっているという現実。子供達の表情を見て、この記事を読むんじゃなかったという後悔すら感じずにはいられない程、胸にうずく何かを生んでしまった。

しかし実際、この記事を読んでひどく悲しんでいる僕に、彼らが救えるのだろうか。エボラの感染拡大は悲惨な現実を生んでいるけれど、今この瞬間にも、最愛の子どもや、愛する親や、仲間を亡くしている世界中の人々の悲しみ、何らかの理由で殺されようとしている人々や、不条理に苦しむ人々の絶望と、アフリカの子供達との悲しみには、何かの違いがあるのだろうか。

ちょうど毎年好例の Forbes 400 がリリースされた。

Forbes400 – The Richest People In America 2014

毎年、大体同じ顔ぶれが並ぶ。ゲイツの8兆円に続き、バフェット、ラリー・エリソン、そして悪名高いコーク兄弟が4位、5位を締め、ウォルマートファミリーが10位以内を独占という変わらぬランキング。若干30歳、ラフなTシャツを着たザッカーバーグが3.4兆円で11位に入っているのが話題という。トップ400人の個人資産の合計と、人口2億人のブラジルのGDPが同じ額という、にわかに想像し難い富の偏りも、この世の現実として存在する。

とは言え、裕福な彼らが死の淵に立たされた時の絶望、あるいは愛する人を亡くした時の深い悲しみの気持ちと、アフリカの子どもたちの気持ちに何か違いがあるのだろうか。

人の生き死にや絶望や悲しみというのは、極めて個人的体験なのではないかと考えるのは、どこかで「人間は公平であるべきだ」「命の価値は同じだ」、あるいは「現実を見たくない」という自己納得と自己防衛本能が入り混じった考え方なのかもしれない。

香港の抗議デモのように、目に見えない力で人々の自由や平等や尊厳が奪われることもある。

世の中は不公平と不条理で満ちているかもしれない。それでも、病気であれ、地震であれ、戦争であれ、人の生き死には悠久の歴史で繰り返されてきた「いとなみ」であるし、その場その場の体験は、ごく個人的なものなのだということを受け入れることで救われることもあるのかもしれない。

それでも、何か出来ないか、何とか良くする方法はあるのか、せめて何かしたい・・・
こういう人々の気持ちがこの脆い世界を支えているのも、また事実として存在するのだろう。

自らのアイデンティティをモザイクで表現することに、Give me a reason


オタクという言葉に定義がないのをご存知でしたか?
自分はオタクと自覚している人、大きな間違いです。

だって、そう思っている皆様はオタクだからです。自己を胸を張って肯定することにしましょう。

ここからは是非ともwikipediaを参照いただきたいのですが、何かに対してこだわりや強い興味がある人はオタクらしいです。そういう僕も、完全に、いや、完全無欠、真性のオタクです。テクニカルなこと、概念的なこと、空港、音楽、飛行機、デバイス・・・数え出したらキリがない程、いろんなことに対して深堀り(実は浅堀りである)していると思っています。

ライフワークとして、ありとあらゆるもの(時にキワモノ)に対する造詣を深めていくことをテーマにしていることに加え、更にタチの悪いことに、10年近くもブログをやっているものだから、どうしてもその深めた何かを小出しに披露してしまうこともある。これぞ、オタクの押し付けです。そして、オタクはあくまで自己満足の世界であり、横の繋がりを求めない極めてネクラで孤独な人種でもあります。そこに悲哀と、何とも言えないノスタルジーを感じずにはいれません。


他の人から見た時の自分の印象は、自分で知っている自分像と大きく乖離していることがあります。ある人がおっしゃっていた事によると、僕は、とても真面目、かつ山の手育ちのボンボンのように見えているようですが、それは大きな間違いです。

そして、その間違いを示すべく、モザイクを入れた画像をFacebookに投稿することによって、その違いを示唆するようにしています。つまり、モザイクは自己アピールの手段の一つであり、アイデンティティなんですね。ってどんなアイデンティティなんですか。


今夜はその理由を知りたくて、「Mondo Grosso – Give Me A Reason」をローテーションしています。

Mondo Grosso – Give Me A Reason

今日のキーワード(どうでもいい話)


器用と貧乏は、紙一重

欲張りと貧乏も、紙一重

マルチタスクほど深堀りできないものはない。
つまり、何をどうしても浅くて薄いのだ。

人間に与えられた時間は24時間。
何かをしようとすると、何かが犠牲になるというトレードオフ。

深堀りしようとする人は、アンビバレンスに身を投じようとする性質があり、
そういう人は大抵がアル中だ。


海と空が繋がりそうな曇天。

空がどんどん地表との距離を縮めると、大気の天井は低くなり、空気も薄くなり、地上で生きる生物は屈むことを余儀なくされ、四つん這いになり、腹ばいになり、最終的には海に帰って生活するようになる。それが、実は人類にとっては良いことなのかもしれない。空が高いから、殺し合ったり、権力を誇示し合ったり、宇宙に出ようとしたりするのだよ。

テクノロジーオリエンテッドな仕事をしているけど、目の前で起きている事象を評価する時と、選択を迫られた時は、僕は常にアナログ目線で行きます。つまり、生と死、生存に必要かどうか、です。

【極論注意】InnovationとVisionが会社員から生まれない理由は、給料という制度に縛られているからである


財布の中に入っている千円、二千円を数えながら日々を生活しているサラリーマン(自分を含む)がInnovationを生み出そうと思っても、それは現実的に難しいという理由の一つとして、「人生、受託仕事」という一言に尽きると思います。お金をゲット出来る手段が、唯一、給料であるからですね。つまり、ニーズあっての仕事だからです。ニーズが顕在化している前提の上で仕事をしても、それはマーケットに対しての「工夫」であって、Innovationでも、Visionでもない。

サラリーマン(=社員)というのは、給料を経営者から得る人達のことです。そして給料とは、自分の労働の対価として会社(経営者)から受け取る物です。つまり、サラリーマンは会社がオーダーする仕事を受託しているのです。会社のオーダーに対して満足の行く仕事をすると、気持ち良く給料を受け取ることができる(オーダー以上のことをした場合は、色が付くかもしれない)。しかし、及第点に至らない場合や、客(経営者)が満足しない場合は、叱責と共に給料も減る。それが、会社と社員の関係です。ちなみに、ここでは経営者が従業員のモチベーションを上げるために取る工夫については言及しません。

しかし面白いことに、ほとんどのすべての会社は、やはり同じように取引先から仕事を「受託」しています。客にサービスや製品を提供し、その対価としてお金を得る。つまり、ニーズが顕在化しているという大前提があって初めて、金をゲットすることが出来るのです。サラリーマンも会社も、マクロ視点では、全く同じ土台の上に成り立っている訳ですね。もちろん、世界のごく一部の企業は「ビジョナリーカンパニー」です。それは、マーケットの期待値やニーズを勘案するのではなく、社会は、未来は、人類はこうあるべき、という概念先行・理念駆動でマーケットを牽引する力を持っている企業です。概念駆動型の企業はリスクを恐れない。だって、マーケットがないから儲かるんでしょ!?という子供のような心を持っていて、実際、そこに全力で進むからですね。最近では、Uberや、Squareがその典型です。

さて、InnovationとVisionに話を戻しましょう。よく「100年続く会社を作りたい」という経営者に出会います。しかし、そんな経営者に限って、「副業禁止」などといった極めてレベルの低いレギュレーションを設けていたり、管理やマネジメントに血眼を注いでいたりするのですが、そんな会社は一代であっという間に終息します。100年続く企業にしたいのなら、Innovationを生む土壌を作るのが先決です。その土壌は何かと言うと、それは「金の心配をしなくても良い」または「金は自分で自由にどんどん稼げ」ということを制度として容認するかどうかなのですね。

前者の場合は、大企業がそれに当たります。大企業というのは、とても素晴らしいオプションを保有しています。家賃補助制度、福利厚生、残業代、社員持ち株制度、ランチ手当、家族手当など、額面に現れない手当で、従業員が千円、二千円を数えながら生活しなくて良いように、ゆとりのある制度と給料体型を数十年に渡って計画的に提供しています。しかし、中小零細企業は、当たり前ですが、そこまで充実した制度を整備する体力がない。よく言われる、「金なし、人なし、時間なし」という典型です(一部、めちゃくちゃ儲かっている中小零細もありますが)。だからこそ、逆に従業員を自由にすべきなのですね。会社としてはこれだけしか出せないけれど、足らない分は、自分で稼いでね。というスタンスでしょうか。


少し話が逸れましたが、Innovationを生み出すために中小零細のサラリーマンが出来ることとしては、常に、自分主体で物事を考えることと、これからの時代はこうあるべきという、概念先行で物事を考えれるかどうかです。身近な人間を決して見てはいけない。身近な人間を見ていると、その範囲でしか大きくはならない。ましてや、上司や経営者を見ていてはいけない。そこから先に大きくなる余地はない。企業が経営者の器でしか大きくならないというのは、プランターで育てた野菜が、大きく成長しないのと同じ意味です。だから、自分が大きく成長したいのであれば、会社を見ないようにすべきなのです。

逆に言うと、そういう人間ばかりが集まった集団組織というのは、リミッターが外れた「成長力が青天井な」企業ということが出来ます。そこまで行くと、強い組織ですね。そんな素敵なチームを作ってみたいと思うのが、人の心というものでしょう。

僕は、概念先行、理念駆動という言葉が大好きです。
過去記事でも、色々とその観点から書いています。

理念(理想的概念)とハードウエア、ソフトウエアの関係(2014/3/18)

ソーシャルシティと概念先行型(2013/10/12)

自分の価値、集団として、チームとしての価値を上げるためには、見えないものを見ているかのように果敢に挑戦し続ける力と、リスクを取らない器、100年先に何を残したいのかという、理念とビジョンがあるべきだと思う、今日この頃なのでした。

※この記事は1000%、自省を込めて書いています。

次回は、スクラップ アンド ビルドという資本主義経済の根本について持論を展開したいと思います。(←酔っぱらい)

サステイナブルな事業(企業)とマインドセットの関係


ある事業がサステイナブルであるかどうかを判断する一つの基準は、やはり「理念」にあると思います。なぜ、この事業をしなければならないのか。どういう意義があるのか。

マネジメント層だけでなく、働く人すべてが自問自答すべき課題です。だって、それぞれの人生があり、時間は限られているのですから。そこまで死ぬ気で考えてやっているかどうかです。そこまで、自社の製品やサービスについて理解しているかどうか、です。

でも現実はどうでしょうか。「食うために働いている」という人のなんと多いことか。これってとても寂しい現実であると同時に、経営者からすれば「都合の良い真実」と言うことも出来ます。少し過激な意見ですけれど、そういう人々がいなければ、会社組織は成り立ちませんよね。給料を与える人と、給料をいただく人。自分の時間を切り売りして給料をいただく人がいなければ、会社組織は成り立たないしリスクを負っている経営者の給料も出ないし、自由もない。少なくとも、皆が「有限の人生の中で、明日死ぬとわかっていて何を行うか」と考え始めると、資本主義経済は成り立たなくなるのです。

人生は有限ですから、自分の限られた時間(=命)を賭してまでそれをやる意義があるのかどうかということを日々自問自答しなければなりません。その理念が大義名分であって大いに結構なのです。更にディティールに落として考えると、迷った時、困った時に帰ることが出来る絶対的な真理=コンセプトが必要で、そこに共感できる人間集団が一番強いということになります。


ですから危険なのは、「稼げる」「儲かる」という事だけにコミットしないことですね、稼げる、マネーをゲット出来るということに重点を置くと、稼ぐことが出来なくなった時(あるいは稼げないと分かった時)に、人は離れてしまいます。稼ぐ、儲かるということはとても大切ですが、そこにコミットすることの基盤のいかに脆弱なことか、ということです。

もちろん、人それぞれ価値観はあると思います。リスクヘッジを掛けながら安定を望む人もいるでしょう。飛び出さなくったって、給料いただきながら、責任を回避できるポジションを希望する人もいるでしょう。そこはインディヴィヂュアルな観点であるため、良し悪しの判断はできません。

しかし、企業がサステイナブルであるためには、コンセプトとマインドセットがとても大切であるということを、ほろ酔いの頭で考えていました。

書き続けて9年が過ぎ、10年目に入りました


2005年の6月10日に最初の記事を投稿してから、丸9年が経過しました。そしてこの慌ただしい日々の中、いつの間にやら10年目に入っていることに今日気付きました。「十年ひと昔」と言いますが、何か一つの区切りに感じますよね。されど、まだ10年目。

始めた当時はまだ20代だったと考えると、随分と昔のようにも感じますが、そもそも精神年齢は成長してないにも関わらず、逆に、良い意味でも悪い意味でも大人になってしまった感、変に “こなれた感” があり、あの頃の「勢い」や、エッジや、若さと勘違いゆえの「俺がんばってるやん!」などの尖った気持ちは全く衰えてしまっているような気がします。たまに昔のエントリーを読み返すこともありますが、なかなか良い事を書いていたりするのを見ると、ああ、もっと頑張らないとな、と思うこともしばしばです。

それでも、「時間に流される」こと、「目先のコトに追われて、ただ日々を過ごす」ということだけは避けたくて、一日一日を丁寧に塗りつぶす(そうできないことも多々ありますが)ということだけは意識して来たように思います。この「塗りつぶす」という言葉は、もう何年も前にスペイン在住の読者の方がコメント欄で「毎日を丁寧に塗りつぶされていますね」と書き込んで下さって以来、とても気に入って使わせてもらっています。

書く目的は、備忘録であったり、反省であったり、ニュース記事であったり、日記であったり。その日に何を感じ、何を考えたのか。それを記録として残すこと、そして書くことによって考えを整理すること。聞いたことや学んだことをアウトプットすることで、インプットした情報がメモリーされるので、書いたことは良く覚えています。そう考えると、少なくとも、書くことによる悪い影響はなかったのではないでしょうか。唯一あるとすれば、社員が面白がって僕のブログを音読する、ということくらい。あれは、相当ダメージがありますね。そういう時、彼らのタイムラインの投稿を逆に音読して仕返しをしたりしています。(←小学生レベル)

出来る限り毎日書くことを自分にコミットすると、否応なしにその日を振り返ったり、ネタを探したりする作業が必要になりますよね。頭の中で整理して、書く。この作業が習慣化しているので、伝える、書くということに抵抗がなくなったのは大きな収穫でした。この部分は、まさに仕事に直結するからです。

「習慣化」というのは、自分の中で大きなキーワードです。特別なスキルも才能も持たない人間にとっては「コツコツと積み上げること」が唯一成長するための手段だと思いますし、そのためには習慣化することが必要です。でも実際「言うは易し、行うは難し」で、習慣化するのって結構大変だったりします。まず面倒くさい。仕事や学校ならまだしも、人から「やれ」とも言われていないことを、自分で勝手に決めて行うことに何の意味があるのか。しかも、ほぼ独り言。面倒くさいなー思うことも多々ありました。

そのハードルを乗り越えるためには「その事を好きになる」ことが一番早いですよね。好きになれば勝手にやる。これは仕事も同じで、やっていることを好きになる(ジョブズは「好きなことを仕事にしなさい」と言っていますが)と、人間って勝手に動くものです。義務命令ではなく、能動的にPassiveに動く。そういうものだと思って、今まで続いています。

自分が始めた当初は、ちょうどブログが流行り始めた頃で、みんながFC2やアメブロやライブドアブログなどで書き始めていた頃です。今はその中の何割の人が残っているのか分かりませんし、無料ブログ=アフィリエイトという要素が強いので、拙ブログのような何の利益も生まない(むしろドメインやサーバ代などで赤字)、本当の意味でのプライベートブログは段々と数が減ってきて、SNSのタイムラインに移行している訳ですが、これから益々「個の時代」が加速すると、特定の企業が提供するSNSプラットフォームではなく、独立したプライベートサイトやプライベートブログが、逆にどんどん増えてくるような気もしています。
 
 
そのように時代が変わったり、流行り廃れがあるかもしれませんが、いずれにしても、僕はここで何かを書いていくつもりです。
 
 
さて、長くなってしまいましたが、10年目に入った「analog-web」。
これからも、ゆるくお付き合いいただければ嬉しいです。 
 
 

自分は何者なのかを確認する = 進んでは立ち止まるという行動の必然性


先週末にホームセンターに行き、トマトの苗を二つ(ミニトマトとアイコ)とキュウリの苗を一つ買って来ました。それから一週間、トマトには小さな実が月初め、キュウリのつるも伸び始めました。

植物や野菜を育てるというのは、マラソンやダイエットに似ていますよね。毎日同じことの繰り返し。毎朝、水をやって観察する。追肥したり、日陰を作ったり。決められたことを習慣的に繰り返していけば、彼らは実りを与えてくれます。人間が出来ることなど、決められたことを行うことだけで、実りは彼らの生命力あってのもの。人間は、ただ、水を運び、過ごしやすいように環境を調え、食事を運ぶ「給仕」のようなものですね。
がんばってお世話をさせていただくので、実りを与えてくださいね。


「自分は何者である」と自信を持ってはっきり言えるというのは、自分にとっても、周りの人間にとっても気持ちの良いことです。気持ちが良いということは、違和感がないということ。でも、どれだけの人間が「違和感のない生き方」を出来ているのか。本当に心から「したいことをし、結果として稼ぐ」ことが出来ているのか。

この世の中で成功する(=地位・名声・富をゲットする)ということは、今の世の中で形作られている仕組み、例えば、経済の仕組み、政治の仕組み、資本主義の仕組みを十分に理解し、そのシステムの上を上手に渡り歩くことができる人のことを言います。基本的に、定量化された結果は「得るお金の量」によって評価される。その量によって、生活の質が左右される。「幸福度」という定量化できないものは、内面の満足から得られるものであると思うけれど、それは相対的な評価ではなく、あくまでインディビデュアルな評価ですよね。どちらに重きを置くかはその人次第です。

前者について考える時、定量化された結果を得るための手段は「仕事」にしか過ぎない訳ですから、大人になれば誰でも「仕事」という生業から離れることはできません。向き不向き関係なく、誰もが働かなくてはならない。有能な人、才能があるとされる人は、その仕事を上手に行うことができます。それは、この世の中を形作るシステムを良く理解しているということですね。

僕自身は、人間なんて、いくら偉そうにしたりイケてるように見せたりしても、所詮アミノ酸の固まりであると思っています。(過去記事「人間は、ただのアミノ酸である」を参照)その中で、誰とか、何かとか、と比べたり、競ったり、喧嘩したりすることは無意味なことだと思っています。それよりも、自分がいかに納得できるか、いかに自然でいれるか、正直に認めることができる方が気持ちの良い生き方ができる気がします。

しかし普段は「仕組みの中に組み込まれている」ので、めちゃくちゃ忙しい。時間がない。進むしかない。でも、そこに違和感があるから、立ち止まる。その立ち止まる時間を確保するために、毎朝5時に起きているようなものだな・・・と思い始めました。この時間だけは、仕事に直結しないことを自由に取り入れることが出来るからです。それは、人間としての必然性です。

今朝に限っては、山積した仕事のタスクを消化するために5時に起床したのですが、結果的に、仕事とは無関係(つまり金に直結しない)本を読んだり、物思いに耽ったりしているんですから、そもそもビジネスには向いてません。はい、あっさりと認めます。

最近、向いていないことを素直に受け入れようと思っています。こういう考え方、こういう人間もどこかで何かの役に立つかもしれない。決められたことをちゃんと行う有能なイエスマンとしての素質は全く持ち合わせていないし、そこで満足を感じることができる素養もないので、組織の一員としてはやっていけない人材ではありますが、どこかで何かにはなるかも。

そんなことを考えていると、タイミング良く内田樹先生のこの記事に出会いました。先週、読もう読もうと思ってリーディングリストに入れたまま忘れていたのです。

半分あきらめて生きる ー 内田樹の研究室

賛否両論あると思いますし、「身も蓋もないことを説得力ある仕方で書く人」という評価もありますが、僕は10年以上前から内田先生の考え方やテクストは好きで読んでいます。違和感なく、スッーっと入ってくる数少ないオーサーですね。

それでは、今日はこの辺で。
皆様も良い日曜日を。

複数の時間軸を自在に行き来できる、という説について


本当に集中している時は、一時間が5分のように、ニ時間が10分のように感じられるものです。今日の夜がまさにそんな感じ。切羽詰まって駅前のカフェに駆け込んだのが21時過ぎ。そこから鬼のようにタイピングをして時計を見たのが23時。その間、約二時間でしたが、まさに「え!?まだ10分くらいしか経ってないんじゃ・・・」という感覚に陥りました。

時間の速度というのは面白いものですね。


その件についてですが、先日、友人と話をしているとこんなことを言っていました。

時間の流れが速い時、遅い時ってあるよね。
あれ、物理的に時間の流れそのものが、本当に速かったり遅かったりするんやと思うねん。実は、人の人生の中で時間軸は何本も走っているんじゃないかな。速く感じる時は、速い流れに身を置いていて、遅く感じる時は、遅い流れの上にいる。そういった、速度が違う何本もの時間軸を、人は無意識の内に自在に渡り歩くことができていて、その繰り返しが人生なのんじゃないかな。そう考えると、今の自分が本当の自分かどうかも分からないし、客観的に自分を見ることが出来て面白いねん。

細かい部分は違うかもしれないけれど、その話を、僕は概ねこのように解釈しました。

「概ね解釈した」というのは、このロジックが自分にとってはあまりに衝撃的な考え方だったからです。複数の時間軸がパラレルで走っていて、自分が自在にその軸を飛び回っているとすると、どれが本当の「軸」なのか分からなくなりますよね。

今、この瞬間の自分だけが、自分である。

過去の記憶は?
未来は?
このまま、一つの時間軸がずっと繋がっていくのではないの?
確かに時間の流れに速度(体感)の変化はあるものの、
個体としての自分は老化していくし、歳も取って行くよね。
それってどう考えるの?
え?

こんな感じでポカンとその話を聞いていました。
深いことは分からないけれど、事実として「速い流れと遅い流れ」という時間軸が存在するのは事実かもしれませんね。少なくとも、日々の生活でそう実感することが多々あるのですから。

いずれにしても、視点を変えた捉え方というのはとても面白いものです。

次の時代が見えてくるネタ二つ


少し前のニュースになってしまいましたが、こんな記事が話題になりました。ブログで書こう書こうと思っていて時間が過ぎてしまったニュースです。

自治体、2040年に半数消滅の恐れ 人口減で存続厳しく
各種推計、政策見直し迫る

全国1800市区町村の内、896が2040年に消滅する可能性があるとのこと。市区町村は半分に減ってしまうとのデータです。ネットの片隅で細々とこのブログを営んでいる僕でも、以前から「シュリンクする日本」「人口減による住宅供給問題」などを取り上げては身も蓋もない持論を展開している訳ですが、この「市区町村消滅」という記事は大局的な人口減少問題の一つの側面ですね。

人口減でインフラを維持できなくなった自治体から、今後ますます都市部へ人々が移動するでしょう。そうなると置き去りにされた地方はどうなるのでしょうか。この辺りがポイントとなってきそうです。農地として他国移民に解放するか、それとも、手付かずの自然に戻すか。一方、都市部を超ハイテク都市にして、人間が住む環境と自然とを切り離してしまうか。ちょっと色々と考えると次の時代が見えてきそうな気がしますね。


こちらはハイテク分野。
テックはウェアラブルデバイスへと向かっていますが、これはルパンが持っていそうなリングですね。

指輪で様々な家電やゲームをリモコン代わりに操作できます。
てか、ここまで来ると人間って本当に動かない生き物として退化して行きそうです。SF小説に出てくるような、脳ばかりが大きくて、体がクラゲみたいな火星人のようにはならないようにしましょう。エクササイズ、エクササイズ!(笑

それでは今日はこの辺で。

人間は、ただのアミノ酸である


人間は、鉱物資源の上を歩くただのアミノ酸である。

こう考えると、なかなか面白い視点で事象を見ることができます。
遺伝子の配列は、グアニン、シトシン、チミン、アデニンなんですよね。そのようなアミノ酸の配列(DNA)が何をしているかというとタンパク質を生み出すんです。その遺伝情報によって人間の体は形作られているだけ、つまり人間とはアミノ酸です。

愛情をこめて言うと、そのようなアミノ酸の塊である人間の考えることは所詮、DNAレベルでの生理的欲求です。つまり、寝て、食べて、子孫を残すことです。人間が動物と違うところは、知性があるところです。知性というのは、承認欲求です。認められたい、評価されたい、アミノ酸の中でも優れたアミノ酸でいたい。そういうことです。


DNAレベルでは、その人を形作る情報が生まれながらにあります。アクシデントがない限り、寿命もそうです。ここからは摩訶不思議な世界に入りますが、そのDNA、もっというと60兆個の細胞によって、その人は形作られているのであれば、刹那的な意味ではなくて「もっと優れたアミノ酸になろうよ」ということです。

歩きやすくするために鉱物資源を利用して道路を固めた、生理的欲求を満たすために効率的な農業の仕方を考えた、ワガママな「楽をしたい」という欲求を叶えるためにテクノロジーを発展させた、承認欲求を満たすために、偉くなろうとした。自己実現を目指した。ただそれだけのことです。

なので、今日の結論は、

もっと正直になろうよ
もっと欲求を満たそうよ

それだけです。