自分は何者なのかを確認する = 進んでは立ち止まるという行動の必然性


先週末にホームセンターに行き、トマトの苗を二つ(ミニトマトとアイコ)とキュウリの苗を一つ買って来ました。それから一週間、トマトには小さな実が月初め、キュウリのつるも伸び始めました。

植物や野菜を育てるというのは、マラソンやダイエットに似ていますよね。毎日同じことの繰り返し。毎朝、水をやって観察する。追肥したり、日陰を作ったり。決められたことを習慣的に繰り返していけば、彼らは実りを与えてくれます。人間が出来ることなど、決められたことを行うことだけで、実りは彼らの生命力あってのもの。人間は、ただ、水を運び、過ごしやすいように環境を調え、食事を運ぶ「給仕」のようなものですね。
がんばってお世話をさせていただくので、実りを与えてくださいね。


「自分は何者である」と自信を持ってはっきり言えるというのは、自分にとっても、周りの人間にとっても気持ちの良いことです。気持ちが良いということは、違和感がないということ。でも、どれだけの人間が「違和感のない生き方」を出来ているのか。本当に心から「したいことをし、結果として稼ぐ」ことが出来ているのか。

この世の中で成功する(=地位・名声・富をゲットする)ということは、今の世の中で形作られている仕組み、例えば、経済の仕組み、政治の仕組み、資本主義の仕組みを十分に理解し、そのシステムの上を上手に渡り歩くことができる人のことを言います。基本的に、定量化された結果は「得るお金の量」によって評価される。その量によって、生活の質が左右される。「幸福度」という定量化できないものは、内面の満足から得られるものであると思うけれど、それは相対的な評価ではなく、あくまでインディビデュアルな評価ですよね。どちらに重きを置くかはその人次第です。

前者について考える時、定量化された結果を得るための手段は「仕事」にしか過ぎない訳ですから、大人になれば誰でも「仕事」という生業から離れることはできません。向き不向き関係なく、誰もが働かなくてはならない。有能な人、才能があるとされる人は、その仕事を上手に行うことができます。それは、この世の中を形作るシステムを良く理解しているということですね。

僕自身は、人間なんて、いくら偉そうにしたりイケてるように見せたりしても、所詮アミノ酸の固まりであると思っています。(過去記事「人間は、ただのアミノ酸である」を参照)その中で、誰とか、何かとか、と比べたり、競ったり、喧嘩したりすることは無意味なことだと思っています。それよりも、自分がいかに納得できるか、いかに自然でいれるか、正直に認めることができる方が気持ちの良い生き方ができる気がします。

しかし普段は「仕組みの中に組み込まれている」ので、めちゃくちゃ忙しい。時間がない。進むしかない。でも、そこに違和感があるから、立ち止まる。その立ち止まる時間を確保するために、毎朝5時に起きているようなものだな・・・と思い始めました。この時間だけは、仕事に直結しないことを自由に取り入れることが出来るからです。それは、人間としての必然性です。

今朝に限っては、山積した仕事のタスクを消化するために5時に起床したのですが、結果的に、仕事とは無関係(つまり金に直結しない)本を読んだり、物思いに耽ったりしているんですから、そもそもビジネスには向いてません。はい、あっさりと認めます。

最近、向いていないことを素直に受け入れようと思っています。こういう考え方、こういう人間もどこかで何かの役に立つかもしれない。決められたことをちゃんと行う有能なイエスマンとしての素質は全く持ち合わせていないし、そこで満足を感じることができる素養もないので、組織の一員としてはやっていけない人材ではありますが、どこかで何かにはなるかも。

そんなことを考えていると、タイミング良く内田樹先生のこの記事に出会いました。先週、読もう読もうと思ってリーディングリストに入れたまま忘れていたのです。

半分あきらめて生きる ー 内田樹の研究室

賛否両論あると思いますし、「身も蓋もないことを説得力ある仕方で書く人」という評価もありますが、僕は10年以上前から内田先生の考え方やテクストは好きで読んでいます。違和感なく、スッーっと入ってくる数少ないオーサーですね。

それでは、今日はこの辺で。
皆様も良い日曜日を。

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