余白と間

先日、ある方との会話で「余白」という言葉が出てきました。
日々の暮らしの中で余白を作ることの大切さを実感しておられるとのことでした。

時間の余白、気持ちの余白。

余白があると、道端の草花に目を向け季節の移ろいを感じ、散歩の途中で神社に手を合わせ、目を閉じて呼吸をし、今この瞬間に生きていることに感謝できます。畑や庭の土を触り、植物に触れ、森の中を散歩していると、いかに人間という生き物が自然の中で生かされているかを実感し、目の前に当たり前のようにある山や木々、変わりゆく空の色の美しさに感動します。手仕事の中にも、自然と調和しながら生きてきた先人の知恵を感じることができます。味噌、醤油、納豆、糠・・・時間とともに変化する発酵の過程に生命を感じます。

先日の白秋ホワイトクラブで参加者の方と話していた時に、素敵な言葉に出会いました。その方は、最近、御夫婦でトワイライト・エクスプレス瑞風に乗って山陰本線の旅に行かれたそうですが、車窓から見える田園風景があまりに美しく、豪華な料理や個室の内装もさることながら、車窓からの景色に見惚れていたといいます。なんてことのない日本の田園風景に改めて感動したと。

「年を重ねれば重ねるほど、日本人になっていくんですよね」

と、その方はおっしゃいました。
「日本人になる」・・・なるほど。

日本人と「間」についても考えさせられました。
白黒をはっきりさせず、新旧、異物を積層的に融合し、和合する。言葉の向こう側にある意味を感じとり、曖昧を良しとし、矛盾をそのまま受け入れる。不完全すら美とし、完成を目指さない無常の先に永遠を感じる。

恐らくこういう感覚は西洋にはないのでしょう。それをすることに意味があるかないか、儲かるか儲からないか、敵か味方か、勝つか負けるか、効率的か非効率か。受容か排除か。

間の文化は、そういう価値観とは無縁の世界。
ただ在ることを良しとし、調和し、時間の流れの中にある変化と移ろいに身を任せる。目に見えるものより、見えないものに価値を置き、静かに生と死を見つめる。

最近ようやく梅仕事が一段落しました。

大して世話もしていない庭の梅の木ですが、たくさんの実をつけてくれました。実りを収穫する時間、黙々と梅仕事をする時間に考えていたことは、グローバルという均質化された価値観がいかに浅はかで、格差を生み、文化を破壊してきたかということです。

区別する、分類する、名付ける、仕組化する、理論化する。

それらが生んできたものは、争いであり、優劣の区別であり、進歩という名の退化であり、効率化という奴隷制度であり、理論という名の押し付けであったのかもしれません。

自分の生活の中に、余白と間を意識的に作ることで、本当に大切なことは何なのか、生きるということはどういうことなのかを考えさせられます。それと同時に、こういう話が出来る仲間たちが周りに増えてきていることもうれしいことです。

猛暑日が続きます。
どうぞ皆様お身体ご自愛くださいませ。

土用干しの梅

宿題の提出と答え合わせ〜愛媛県の樽滝観音にて

後から振り返ると、あの時の出来事がここに繋がるのか、という体験をすることがあります。その時は分からなかったけれど、後になって答え合わせが出来る。スティーブ・ジョブズの「点と点が線になる」、まさにそんな感じでしょうか。

先週、愛媛の西予市に行きました。
目的は「宿題の提出と答え合わせ」です。

昨年の春、大洲市の少彦名神社に御礼参りに行った際(その時の記事はこちら→「後になって分かることがある(旅先での出会いから)」(2025年4月30日))、境内で出会った男性に言われた「今度来られた時は、西予の樽滝に行くといいですよ」という言葉。
これがずっと耳に残っていて、何か新しい宿題をいただいた気分になり、今年のどこかで行かなければと思っていたのです。

伊丹から松山まで飛行機で飛び、市内の定宿にチェックインした後、松山城の城山中腹にある東雲神社を参拝し、「坂の上の雲」で有名な秋山好古、真之兄弟生誕地へご挨拶。このルーティンは何年も続けています。

翌日、レンタカーを借りて大洲方面へ。
樽滝へは麓の集落から山道を30分ほど登って行かなければなりません。事前にグーグルマップで確認していたので迷うことはなかったのですが、山道がなかなかアドベンチャー。眼下の川から距離はあるのにサワガニがたくさん歩いています。カニさんたちと一緒に滝を目指してぐんぐん登る。知る人ぞ知るという場所なので人に出会うこともありません。

この道で合っているのか?
不安になりながらも無事に到着。想像していたよりも大きな滝で驚きました。
滝の裏側に小道があり、裏見しながら観音堂に行くことができます。

無事にたどり着けたことの御礼とともに、今回の観音様との出会いが将来なにかに繋がることへの期待、自分で良ければなにかしら社会のお役に立たせていただきます、ということをお伝えしてきました。

樽滝と樽滝観音

無事に宿題を提出した安堵の気持ちに浸りながら、考えてみました。

今回の旅が何のサインか、将来何に繋がるのかは分からない。でも、ここ数年を振り返ってみた時に、自分の力で道を切り拓くというよりも、示されたサインに従い、拓かれた道をそのまま素直に進んでいるという実感があります。

「どうぞ、自分を好きなように使ってください」という気持ちで、流れに身を任せ、進路も行き先もすべて委ねてしまう。そして毎日を丁寧に、大切にすべきことを大切に生きていたら、自分の想像以上に良い結果が伴ってくる。

目の前に現れるサインに気付くためには、心と時間の余白(間)が必要だと思うんですよね。余白を作るためには、心身共に穏やかであること。そうすれば目の前に現れるサインを見逃さず、誰かに道案内してもらえるような気がするし、実際にそうなっています。

これからも「君はこの道を進みなさい」と示されるサインを見逃さず、大切にしていこうと思います。

【おまけ】
旅先での楽しみといえば食事です。
今回は食べログ100名店にも選ばれた、焼鳥の名店「炭心」さんへ行きました。噂に違わず丁寧な仕事がされた一串一串、とても美味しかったです。素敵な御夫婦で切り盛りされていて、なんとも言えない優しい空気に包まれた店内でした。

今のところ旅は続いているようです。〜ブログ開設20年を迎えて

2005年6月にスタートしたこのブログ、今月で丸20年を迎えました。ハタチです。長女と同じ歳、20歳です。

さすがに20年も経つと色々と変化があるものです。フィジカル面、精神面の変化。娘たちの成長、自らの成長。良いのか悪いのか分かりませんが、考え方は自分でも驚くほど大きく変わりました。今と昔じゃ書いている内容がまるっきり違います。

グローバルからローカルへ
テクノロジー重視からプリミティブ思考へ
ビジネスから哲学・歴史・文化へ
上昇志向からがんばらない生き方へ
得るより与えるへ
競争から自分らしい生き方へ
地位財から非地位財へ
拘りから手放しへ
目標を持つ生き方から目標を持たない生き方へ

体調不良や病気やコロナや、きっかけは色々とあったと思います。40代半ばで経験したミッドライフクライシスも大きく影響しました。人間って面白いですね。自分ではどうすることもできない状況に抗えず、ただ身を任せるしかない状況の中では、生物(いきもの)として生きるために「こうあるしかない」という方向に心身共に向かっていくようで、自然と落ち着くところに落ち着いたような気がします。

抗わない、受け入れる、ただそのままでいることで、今、自分が想像していたよりもはるかに居心地の良い場所にランディングできたことに感謝しています。自然に任せるってすごいですよね。任せるって勇気のいることではあるんですけどね。

人生100年とした時に、ようやく半分。残りの人生をどのように生きていきたいか、どうしたら恩返し、恩送りができるか。日頃からそのように考えていると、本当に自分がしたいこと、すべきことに時間とお金を自由に投入できている幸せ、ありがたさを感じています。色々と経験し自分なりに克服してきたことに与えられたギフトのようなものかもしれません。

とはいえ課題がないわけではありません。
自然の中で生活していると人と関わることが億劫になってくるので、バランスを保つようにすること、厭世的になり過ぎないようにすること。

このブログ、いつまで続けることができるか分かりませんが、21年目に入った今、また新たな気持ちで、その時の自分を書き残していきたいと思っています。

これからもお付き合いいただけたら嬉しいです。

空海の風景を読む

春を目一杯楽しんでいます。
梅の花が散った後は、桃、桜と続き、庭の鉢植えや宿根草も次々と花を咲かせてくれています。家庭菜園では、ほうれん草、春菊、人参、大根などの種まきも終わり、それぞれが小さな芽を出してくれています。モッコウバラの蕾も膨らみ始め、ゴールデンウィークには満開のバラを楽しめそうです。

前回のブログ「上昇志向モンスターから、晴耕雨読の日々へ」には多くの反響をいただきました。自分でも、これからの人生をどう生きていくか、さらに思考を深めています。思考を深める際には、草花の成長や木々の芽吹きを眺めながら、古代から変わることのない自然の悠久のいとなみに思いを馳せています。できるだけ、社会から遠いところに身を置きたいだけなのかもしれません。

NHKで「第28回 菜の花忌シンポジウム」を視聴しました。
菜の花忌とは、司馬遼太郎さんの命日に合わせて開催されるイベントで、今年のテーマは「空海の風景を読む」でした。「空海の風景」は司馬遼太郎さんの代表作の一つです。平安時代に生きた知の巨人、空海の一生を小説化したもので、その思想のスケールの大きさに目眩を覚えます。

読み直した、空海の風景

真言密教の総本山である高野山は僕も大好きな場所ですが、密教そのものは難解であるものの、空海が留学先の長安で感じた「人間を人種でみず、風俗でみず、階級でみず、単に人間という普遍性としてのみとらえた」(空海の風景より)という点は、無限に広がる宇宙と、始めがなく終わりがない時間の中で繰り返される、生命の誕生と死、わずか数十年という寿命の中での「人間の営みそのもの」を肯定し、衆生済度を説きました。

僕自身、世俗の色々や社会システムや己の限界などに辟易して、ついつい厭世的になりがちな自分がいる中で、煩悩やあらゆる欲を含めて人間そのものを寛容に受け入れ、人間を自然と同化し、宇宙の一部にさえ同化していこうとする壮大な試みは、たいした知識も学も持ち合わせていない自分でも、その偉大さと覚悟くらいは分かります。人間を自然の一部とし、「ただ、在るだけで良い」のかな。もしそうだとすると、これは個人的に生きる上で大きなモチベーションになりそうです。

庭木を見ていると、肥料もやらないし世話もしないのに、夏の暑さと冬の寒さに耐えて、春になれば花を咲かせる。それを毎年毎年黙って繰り返す。咲かせる花や、実が本当に美しいのです。生きているということは美しいことですね。

上昇志向モンスターから、晴耕雨読の日々へ

寒かった二月が過ぎ、ようやく暖かくなってきました。
庭の梅の花も満開で、春を感じられるのはうれしいです。

年々寒さが苦手になっているので、気温が10度を上回るとホッとします。身体って変化していきますよね。基礎スキーに真剣に取り組んでいた20代、雪山ごもりをしていたのが信じられません。真冬でも旅館の中では半袖、一番好きな季節は冬って言ってましたもんね。

最近、身体の変化とそれに伴う思考の変化を静かに楽しんでいます。

人生で最も長い時間を共に過ごすのは、ほかでもない自分。その自分を客観視し、身体の変化だけでなく、物の見方、考え方の変化などすべてを含めて、自分自身とどれだけ上手に死ぬまで付き合っていけるか。

身体ってほんと言うことを聞いてくれません。
年末から二月にかけて、高熱による強制リセットが二回あり、体重も10kg減りました。足かけ四週間の寝たきり期間、予定はほとんどキャンセル、新規の仕事のオファーもお断りするような状況で、多方面にご迷惑をおかけしました。ただただ、身体が動けるようになるのを待つだけの日々で考えていたのは、「積極的な諦め」と「手放し」です。

かつて当たり前のように出来ていたことが出来なくなっている自分を憂いることは簡単だけど、そこからは何も生まれない。今まで出来ていたことは、神様からお預かりしていたもの、出来なくなったことは、お返ししたもの。そう考えると、これが今の自分、これが日常と受け入れられた時に、色んなものから解放されて気持ちが楽になりました。感情が揺さぶられることも人のことを気にすることもなくなり、本当に穏やかな日々です。

かつては「上昇志向モンスター」で、クリアすべき目標を立て、それに向けて仕事もプライベートも全力で取り組んでいました。ウルトラマラソンなど克服型のスポーツに打ち込み、寝る時間を惜しんで働き、世界を飛び回っていました。

でも、今は晴耕雨読、日々を滔々と静かに過ごすだけの人間になりました。前回のブログで書いたとおり、目標も持ちません。なにかを気合いで乗り越えようとしたり、押し込んだり、コントロールしたりすることもなく、庭木や小鳥たちを眺めながら季節の移ろいを感じ、旬のものを料理して食べ、動ける時は軽いウォーキングやジョギングを楽しみ、今こうして生きていることに感謝しています。過去は過去、今は今。もう、がんばらない。

ビジネスやキャリアで相談を受けることも多いですが、それなりにアドバイスはするものの、心の中では「いや、生きているだけで十分立派だよ」と思っています。

いや、ほんと。
この世の中で、生きているだけで立派なこと。胸を張っていいんです。

予定は立てるが、目標は持たない

今年初のエントリーです。
早いもので新年を迎えてはや20日が過ぎました。クリスマス前後から体調を崩し、そのまま仕事初めまで二週間強、寝たきりになってしまったため、新たな気持ちで今年の抱負を考えるという気力も体力もなく正月休みが終わり、日常生活が再開して仕事でバタバタ・・・という感じで今に至ります。

このような冬眠期間を経て今はすっかり元気になったので、今年一年をどのように過ごすかを改めて整理してみました。とはいうものの、ここ数年は「予定は立てるが、目標は持たない」というスタンスに切り替えていますので、基本はこの方針を継続します。

「目標は持たない」

なぜか。目標って立てても忘れてしまうし、そのとおりになったためしはないし、この変化の早い世の中で一年先がどうなるかなんて分からないので、意味ないなと思ってしまったんですね。立派な目標を立てても、それは(あくまで僕にとってはですが)一時的な自己満足にしか過ぎないなと。一応、会社経営をしているので売上や利益に関心がないことはありませんが、なんら特別なことをしていないのに毎年売上が右上がりで勝手に伸びているので、これについても深堀りした分析はせず、日々自分がしていることは間違っていないんだな、くらいの気持ちでありがたく受け入れようと思っています。

というのも、いわゆる物質的な充足であったり、こうしたい、こうなりたいという願望はすっかり薄れてしまい、今の関心は、地域の歴史的・文化的ストックをどのように活用していくか、食や組織に共通する協生とはなにか、地縁や血縁、居住や非居住によらない選択的「縁」と共同体の関係とはなにか、といった、およそビジネスからは程遠いところにあるからです。

そういう意味では、寝たきり期間を活用して社会的共通資本や祭礼と共同体に関係する書籍や論文を読む時間はしっかり確保でき、それが今のところ読書の習慣として継続できています。先人の研究って偉大ですね。「巨人の肩の上に立つ」とは、Google Scholarのトップページに掲載されている標語ですが、人ってどうしたら幸福に生きていけるのだろう、という壮大でもあり、プリミティブでもあるテーマについて、自分なりに深堀って言語化できる一年になればいいな、と思っています。

そうこうしていると、同じようなことを考えている人たちの縁がたくさんでき、年始から様々なシーンで議論する機会をいただいています。いや〜なんか自分は意識して行動していないのに、勝手にいろんな動きが生まれていて面白いです。大きなうねりが推進力となり、前へ前へ動かされているような気分です。

というわけで引続き目標は持たず、一日一日を一生懸命に生きていくことだけを心掛けながら。今年一年もどうぞよろしくお願いいたします。

昭和100年を迎えるにあたって

2025年は、昭和100年になるそうですね。
昭和元年生まれの父方の祖母は来年100歳を迎えますし、昭和三年生まれの母方祖母は、今年6月に96歳で亡くなりました。昭和は64年間続いたし、激動の時代だったということもあり、未だに昭和という時代の重たさ、存在感のようなものを感じます。

100年。
人生100年時代と言われていますが、ちょうど自分も折り返し地点が見えてきました。白秋共同研究所では「人生100年時代、50歳からが本番だ」と謳っているわけですが、じゃあこれからのステージ本番をどう生きるか、それぞれが試行錯誤しています。当然ですよね、前代未聞の長生き時代がやってきているんですもん。

でも考えてみれば、だからこそ「なんでもあり」なわけで、まさに自由。
自由は、「自分に理由があること」ということもできます。

自分はどうしたいか
自分はどう生きたいか

自分で決定し、自分で選択する。
周りとの関係においては、お互いの選択と「理由」を尊重し合い、助け合い、分かち合い、共存共栄していく。まさに和合。自分で決定し、選択するというのは、ウェルビーイングの要素のひとつと言われています。

白秋ホワイトクラブでも、毎回これが話題になります。
参加者のこれまでの歩みや、最近の出来事などを順番に伺いながら、自分自身と絡めて、こう思う、ああ思うなど、皆で意見を繰り出しています。同席した人のライフストーリーや進行中の取り組み、趣味の話などを聞くことで、自分の思考や感情とも対話し、「自分はどうしたいか、そのためにどうすれば良いか」の答えを導くヒントを得ることができます。

先日、長女が二十歳の誕生日を迎え、ささやかなお祝いをしました。
長女が二十歳ということは、僕自身も父親歴20年のハタチというわけです。第一子というのは何もかもが初めての経験で、親も必死なら、子も必死。何が正解が分からないけれど、とにかく愛情を注ぎ、育て、親子で共に一生懸命生きてきた一つの区切りが二十歳の誕生日なんですよね。

長女と「何歳の区切りが一番なんだろうね〜」と話していたのですが、二人の中では、一位:20歳、二位:100歳、三位:60歳 ということになりました。そこに大きな理由はありませんが、なんとなくです。笑

年齢を重ねるにつれ、「幸せとは」を深く考えることが増えました。
本当にありがたいことに、僕は今、一番幸せかもしれません。純粋に在り方を追求し、それを仕事にし、仲間に恵まれ、大好きなコミュニティに身を置き、自然に囲まれながら恵みに感謝する毎日です。娘たちとの何気ない対話ひとつひとつにも、一緒に庭仕事やDIYをしている時にも、最高の幸せを感じます。

「和合」という言葉について、「エネルギーを波紋のように外に伝搬すること」と教えていただきました。仏教用語の「空寂」とは、宇宙のすべての事物は実態のないもの、空であると説きます。宇宙は無限に広がりを見せています。すなわち「空」も、ひろく広がること、ということができるかもしれません。ちなみに、この「空寂」の文字、松田家本家の墓に刻まれている二文字です。

2025年もっともっと、幸せとは、を広げていきたいと思っています。

1が並ぶ11/11の日に、小さな協生農園づくりの第一歩を踏み出しました

これだけ暖かいと「秋が深まる」とは到底思えず、いつになったら秋が来るのかな、ひょっとして秋を飛び越えて冬が来てしまうのだろうと思わずにはいれません。とはいえこの快適な季節、神社仏閣巡りにゴルフに温泉にと、秋を存分に楽しんでいます。皆さんはどのような楽しみ方をされていますか?

さて、今日は11月11日。1が並ぶ日です。なにかを始めるのに最適の日ではないですか。というわけで、大学から半ドンで帰ってきた長女と一緒に庭に種まきを行いました。協生農園を庭の一部に作るべく、小さな小さな第一歩です。

庭の一角、ここをプチ農園にします

なぜ協生農園づくりに興味を持ったのか。きっかけとなったのは、先日、三重県名張市で協生農法を実践する森さんの畑を見学させていただき、大変な感銘を受けたからです。
参考記事:持続可能な「食べられる森」 協生農法で150種 名張の森さん

協生農法とは、土地を耕さず、肥料や農薬を使用せずに、多種多様な植物を混生密生させて生態系を作り、虫や鳥などを呼び込んで機能を高めて果樹や野菜を生産する栽培法です。森さんの畑は、一見うっそうと茂った雑木林のように見えましたが、150種の有用植物が植わっていました。ニラ、いちじく、春菊、かぼちゃ、トマト、きゅうり・・・数え切れません。ニラ、甘かった!フルーツほおずき、美味しかった!みかんが大きい!

菌糸ネットワークで植物同士が根で会話し、もともとその畑にいた植物が新しく入ってきた新入り(種)にこの土地にあった育ち方を教える、虫や鳥と植物が会話しながら豊かな生態系を作っていく。生態系はピラミッドではなく、フラットに網の目上に広がっている、邪魔者扱いしない、排除しない、自然のありように任せるというお話を伺いながら、農業だけでなく、社会のあり方すら考えさせられました。

ここ一年間、体質改善のために食生活の大幅な見直しをしているところで体調が劇的に良くなったこともあり、自分たちで食べるものはできるだけ自分たちで作りたいという思いも強くなったこと、そして、庭の一角に、かつて祖母が畑をしていた場所があり、協生農法で推奨されている必要な果樹(柚子や金柑、杏、梅などの果樹から、ミント、ラベンダー、レモングラスなどのハーブ)があるから、鳥も虫も来るし、混生密生の土壌は既にできている!と、勝手に期待しています。

もちろん、限られたスペースで出来ることなんて小さいですし、すぐに上手くいくとは思っていませんが、まずはやってみることが大切ですよね。失敗上等!最近は温暖化の影響で、この時期から種を撒いても全然OKだそう。

みんな、我が庭の木々や虫たちに情報を聞きながら、元気に育ってね!

今回撒いた種たち
どの種をどこに撒いたかが分かるようにメモ

少なくとも自分が見えている範囲では暮らしやすい社会になってきた

我が家の庭も秋の雰囲気。金木犀の香りが漂い、タマスダレも満開になりました。秋は大好きな季節です。

つくづく、良い時代になってきたな〜と実感しています。

というのも、人々が自立に向かっているし、みんなで助け合って生きていこうよ、という思いが強くなっているように感じるんですよね。

特に若い人を中心に、このような考え方が広まっていると感じます。社会そのものが成熟してきて、人は人、自分は自分というスタイルが強くなり、同調圧力のようなものが薄れてきています。少なくとも僕が見えている世界では、違いに対するリスペクトがまず最初にあり、自分も他人も大切にするという考えと共に、地域の役に立ちたい、社会に貢献したいという人が増えています。良い時代になってきました。

自立に向かうというのはとても大切なことですよね。ウェルビーイングの要素のひとつに「自分で決定する」というものがあります。仕事や学びの選択、人や社会との距離感、住む場所、一日の時間の使い方、お金の使い方。誰かに指示されるのではなく、「自分で決める(自己決定)」ことが、幸福度に繋がるのですよね。

情報に対しても同じで、SNS、マスメディアや大企業、政府の情報を鵜呑みにしないのはもちろん、医療の選択、食べる物、着る物も自分で吟味して決定する人が増えてきました。僕もそのうちの一人です。無添加のものやスーパー、コンビニの出来合いのものは極力購入せず、できるだけ自宅で作れるものは作って生活しています。TVもほとんど見ません。必要な情報は自ら検索して取りに行く。そのために、自分の審美眼を養い、真贋を見分ける力を身につけることが大切です。一見すごいように見えることでも、中身がなかったり、ハリボテだらけのものが多いですから。(過去記事「コピペ社会をどう生きるか〜持てる武器を増やす」2024/05/14参照

政治に対する関心が若い人の間で高まっているのも事実で、「自分ごとにする」という考えが強いので、人や国任せにせずに、自分たちでなんとかしなければならないという思いの元、選挙に行く若者が増えているのも嬉しいことです。今月の衆院選は、僕も19歳の長女と一緒に投票に行きます。まあ、国民として、自分の生活だけでなく、今の選択が子どもや孫の将来にも直結するので、当たり前といえば当たり前なんですけどね。

先ほどの「思いやり」でいうと、信号機のない横断歩道でも一旦停止をして、歩行者を優先させる車が増えてきました。元々日本では、信号のない横断歩道では車が優先で、渡りたい歩行者は車の往来を待ってから渡るというのが一般的でした。

自分の仕事先だったアメリカでは全く逆で、横断歩道は歩行者優先で車は一旦停止しなければならない(あるいは、バンプが設置されていて減速を余儀なくされる)のに、なんで日本は車優先なの?と帰国する度に違和感を感じたこともありましたが、最近、街中に高齢者がぐんと増えてきたこともあり、信号のない横断歩道でも一旦停止をし、歩行者を先に渡らせる車が増えてきました。高齢の人や身重な人に優しい社会になってきたなと思います。

人が足りないのも承知の上、様々なサービスが手薄になってきたり、コンビニの営業時間が短縮されたとしても、あるもので満足したり、自動化できるものは自動化したり、みんなで助け合えばいいじゃないかという感じですね。良い社会です。ただ、まだまだ過渡期。一部、昭和の残り香を身にまとっている方々もいて、価値観が混在しているのは事実ですが、それはそれで良いでしょう。歴史を振り返ればそういう過渡期は数十年単位で発生しています。徐々に徐々に、自然の流れで変わっていき、最適化されていくものなのです。

あくまで、自分が見えている世界だけの話ですが、こうして、人と社会と距離を置きながら客観的に観察していると、経済的、安全保障的問題は多々あれど、ミクロ視点では本当に良い社会になってきたな、と実感するのです。

気張るな、というメッセージをいただきました

いろんな方から悩みや相談をお聞かせいただく中で、共通して感じるのは人の根底にある「不安」です。

人って、先が見えない時や、自分がコントロールできない時、見たことのないものが目の前に表れた時に不安を感じるものです。特に、自分のコントロールが効かない状況になった時に、不安になり、恐れ、攻撃的になる傾向があるように思います。

幼い時から、目標を持つこと、なりたい自分像を明確にすること、夢に日付を書き、逆算して行動することなどを徹底的に教え込まれて来ましたので、そのとおりにならないと、やばい、どうしてだろう、と焦ったりもします。不安だから、人の評価も気にします。人からどう思われているだろうかという不安が根底にあるので、キラキラ投稿をしたり、ビジネスやってますアピールをしたり、はたまた世の中を分かったかのように憂い、批判する投稿をしてみたりするんですよね。かまってほしいんですよ、不安だから。

最近、不安を感じるのって「自分がずっと生きている」ことを前提にしているからだよな〜と気づきました。なんとなく、いつかは死ぬとは思っているものの、それがいつか分からない。分からないことを分かろうとするからがんばるんです。分からないことはリリースすれば良いのにね。

自分の人生にとっての時間は有限かもしれませんが、時間そのものは無限です。

神社仏閣巡りをしていると、物事を千年から二千年の単位で考えざるを得ません。このブログでは何度も書いていますが、時間というのは、歴史の年表のように左から右へ直線的にリニアに繋がっているもので、それが何万年と続く中で、たまたま今生まれて来た人が80年かそこら生きているだけのことなんですよ。それに、今目に見えている世界がすべてでもなく、この80年そこらで一旦地球という「バーチャルフィールド」に降りてきて、ちょっと色々と経験して、また別の世界に飛び立つということで、現世は修行の場、という仏教的な考え方もあれば、現世は感謝の場、という神道的な考えもあり、いずれにしてもテンポラリーな「場」としての捉え方もできるということなんですね。

みんな違ってみんないい。
心配事の99%は起こらない。
大丈夫、気張らなくてもなんとかなる。
世の中の経済の仕組みを知れば分かるけど、自分の稼ぎは誰かの借金。
一人で豊かになっている人は、その他大勢を貧しくしているということ。

そういえば、最近「気張るな」というメッセージを尊敬する方からいただきました。そうか、自然体でいいんだ。無理に仕事もがんばらないし、無理に付き合いを広げることもなくなったし、そのおかげで周りには価値観の合う気持ちの良い人だけが残り、ストレスとは無縁の生活を送ることができるようになりました。

幸せになるのは、未来ではなく、今の自分の心なんですよね。
目の前にあることを感謝して生きることが大切ですね。