祈る姿に尊さを感じる

「祈り」について考えることが多い一ヶ月でした。

9月から10月にかけて二週に渡り、実行委員を務めさせていただいている「服部足祭り」と「飛脚まらそん」が続いたことで、人々の祈りにふれる機会が多かったのです。

足祭りでは足の健康を祈り、飛脚まらそんでは願い輪を周回ごとに納めて足への感謝や誰かのために祈ります。

清めの儀
願掛け場での願い輪奉納

祈りという行為は、地球上の生き物の中で人間だけが行う特有のものだそうです。命や知能の有限性を自覚しているからこそ、祈る。自分の力ではどうすることもできないことがあるから、委ねる。

人間はいつか必ず死ぬという有限性が「なぜ生きているのだろう」というテーマを探求し続けるモチベーションにもなるし、無知の知という自覚も同時に生み出すのだろうと思います。僕は人々の祈りの姿を目の当たりにする時に、そこに生き物としての弱さ、儚さと同時に、生きることへの強い決意を感じます。人間って強いなあ。

ただ、同時に現代社会においては「祈ること」は弱さのように捉えられることが多いのでないかと思います。苦しい時の神頼み、とか、最後は祈るしかない、などの表現には、祈りへのネガティブなイメージを感じてしまいます。それは恐らく現代社会の勝者は自らの力ですべてをコントロールできるとされる「強い者」であることが求められるからではないのか。かつての自分もそう思っていました。

特にビジネスの場では、人間の弱さや限界を超える超人的な強さを求められることも多くあるのではないかと感じます。常に競争を強いられ、優劣で判断される。でも、自然の中で生きている人間、たとえば農業や林業に携わっていたり、探検家や冒険家のような人は、最終的には自然の力の前では頭を垂れて祈るしかないという状況に幾度となく直面しておられるでしょう。気象や天候はコントロールできませんものね。

祈ることは、自らが自然の一部であるとの認識、謙虚さ、感謝の表れなのかもしれません。

昨日は高野山に行き、次の連休は福井の永平寺、富山の雄山神社という北陸ルートを巡る予定です。

それぞれの時代に生きた先人たちの歩みと祈りにもう少し思いを馳せたいと思います。

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