余白と間

先日、ある方との会話で「余白」という言葉が出てきました。
日々の暮らしの中で余白を作ることの大切さを実感しておられるとのことでした。

時間の余白、気持ちの余白。

余白があると、道端の草花に目を向け季節の移ろいを感じ、散歩の途中で神社に手を合わせ、目を閉じて呼吸をし、今この瞬間に生きていることに感謝できます。畑や庭の土を触り、植物に触れ、森の中を散歩していると、いかに人間という生き物が自然の中で生かされているかを実感し、目の前に当たり前のようにある山や木々、変わりゆく空の色の美しさに感動します。手仕事の中にも、自然と調和しながら生きてきた先人の知恵を感じることができます。味噌、醤油、納豆、糠・・・時間とともに変化する発酵の過程に生命を感じます。

先日の白秋ホワイトクラブで参加者の方と話していた時に、素敵な言葉に出会いました。その方は、最近、御夫婦でトワイライト・エクスプレス瑞風に乗って山陰本線の旅に行かれたそうですが、車窓から見える田園風景があまりに美しく、豪華な料理や個室の内装もさることながら、車窓からの景色に見惚れていたといいます。なんてことのない日本の田園風景に改めて感動したと。

「年を重ねれば重ねるほど、日本人になっていくんですよね」

と、その方はおっしゃいました。
「日本人になる」・・・なるほど。

日本人と「間」についても考えさせられました。
白黒をはっきりさせず、新旧、異物を積層的に融合し、和合する。言葉の向こう側にある意味を感じとり、曖昧を良しとし、矛盾をそのまま受け入れる。不完全すら美とし、完成を目指さない無常の先に永遠を感じる。

恐らくこういう感覚は西洋にはないのでしょう。それをすることに意味があるかないか、儲かるか儲からないか、敵か味方か、勝つか負けるか、効率的か非効率か。受容か排除か。

間の文化は、そういう価値観とは無縁の世界。
ただ在ることを良しとし、調和し、時間の流れの中にある変化と移ろいに身を任せる。目に見えるものより、見えないものに価値を置き、静かに生と死を見つめる。

最近ようやく梅仕事が一段落しました。

大して世話もしていない庭の梅の木ですが、たくさんの実をつけてくれました。実りを収穫する時間、黙々と梅仕事をする時間に考えていたことは、グローバルという均質化された価値観がいかに浅はかで、格差を生み、文化を破壊してきたかということです。

区別する、分類する、名付ける、仕組化する、理論化する。

それらが生んできたものは、争いであり、優劣の区別であり、進歩という名の退化であり、効率化という奴隷制度であり、理論という名の押し付けであったのかもしれません。

自分の生活の中に、余白と間を意識的に作ることで、本当に大切なことは何なのか、生きるということはどういうことなのかを考えさせられます。それと同時に、こういう話が出来る仲間たちが周りに増えてきていることもうれしいことです。

猛暑日が続きます。
どうぞ皆様お身体ご自愛くださいませ。

土用干しの梅