コーヒーの次は、お酒の味も確かめてみるかな


たとえ、身体が思うように動かなかったとしても、少しでも元気になってくれば徐々に自分のペースを戻すか、あるいは可動域を広げて行きたいと思うのが、人情というものでしょう。「よし、この際だから寝溜めしたれ」とは “1ミリ” も思わないのは、すっかり大人になってしまったからかもしれません。

徐々に、恐る恐る、元の生活に戻して行こうとする。子供の頃、足が届かない大人の自転車を無理して乗ろうとした時のように、少しだけ勇気を出しながら。

いつものように自宅ではなく、外に出てPCを開き、文章を書いてみる。

さあ、どうかな、元のようにリズム良くキーボードを打ちテクストを並べることができるかな。肩甲骨の痛みは大丈夫かな、あの、頭をハンマーでどつかれたかのような朦朧とした痛みや感覚はないかな。少なくとも、今は公共の場所にいる。ここで、バタンと横になったら、周りの人々は驚くだろう。外出している時点で、多少はマシな格好もしている。少なくともパジャマやスウェットではなく、近所の人に会っても、違和感なく挨拶出来るくらいの格好ではいる。それもあってか、自宅にいる時よりも20%増しくらいの力を発揮することができるのは、家の外に出ることの最も大きな利点であると思います。

三日間飲まなかったコーヒーを、カフェに入ってオーダーしてみる(普段は一日にコーヒーを5杯は飲むのに、三日も飲まないなんて!)。その間、もちろんお酒も一滴も飲まず。どうかな、美味しく感じるかな。まずは一口。うん、味がない。まだ舌が本調子じゃないみたいだ。二くち、三くち、徐々にあの大好きなコーヒーの味を思い出してくる。ほろ苦く、口の中に広がる酸味。とても落ち着く味。


こうして、「リハビリ」をしながら自分との対話を続けている間に、世間の営みにも目を向けてみる。

バス停に並ぶ人達。図書館で勉強する人達。行き交う車、クラクション、駅の改札で待ち合わせをしている人々、そして、駅前のカフェで思い思いに時間を過ごす人達。ああ、みんなちゃんと活動しているんだな、元気なんだな。そりゃそうか、もし病気にかかっていたら、こんなところには来ないもんな、家で寝ているだろうし。

そんな事を考えながら、世間の中の自分を相対的に評価してみたりもする。

社会という単位の中の自分の存在を意識してみる。自分が何日もの間、家から出れず、寝腐っていたとしても、世の中は回り続ける。社会は刻々と変化と遂げる。そして、自分のこの数日はあたかも何事もなかったかのように過ぎ去り、道路の脇でストレッチをしていたランナーが、またマラソンのコースに戻って流れに溶けこんでいくように、自分もまたその流れの中で走り始めるのでしょう。

人は寝込んだ時に何を考えるか(少し長め)


今週の半ばから体調不良、週の半分をほぼ寝込んだまま過ごしています(現在進行形)。ブログの更新も随分飛ばしてしまいました。中四日も空くのは中々ないことで、余程ヘバッているのだろうと察していただければ幸いです。

「耐性」には個人差があるかどうかは知りませんが、僕の場合、自慢じゃないけど「熱に対する耐性」が全くない。耐熱性0。何もできない、立っていることも座っていることもできない。ただひたすら薬を飲み、寝るだけ。それでも、やっぱり仕事の事が気になります。PCを開いて、メールをチェックしようとするも、ハンマーでどつかれたかのような朦朧とした意識と、持病の左肩甲骨の激痛(これがめちゃくちゃ厄介)で、座っていることもできなくなり、ぶっ倒れる。マラソンで培った「根性」もクソの役にも立たない。一応意識はしっかりしているので、ああ、これやらなきゃ、あれやらなきゃ、と焦りの気持ちで一杯になり、益々しんどくなってしまうという悪循環です。ああ、冬なんて来なきゃいいのにね。

というのも、毎年この時期になると、風邪やらノロウイルスやらインフルエンザやらが大流行し、こちらがいくら気を付けていても、罹患する時は罹患してしまいます。うちの会社でも絶賛大流行中。インフルなんて予防注射受けていようがいまいが、抗体がどんどん変化していくから余り意味がないというし、もう一体どうしたらいいのやら。すごく極端かもしれないけれど「元気か、死ぬ」つまり、「Active or Die」くらいの方がよっぽどいい。もうダラダラとしんどいのが身体的にも精神衛生的にも一番つらいのです。

愚痴が長くなってしまいました。
そのような訳で、ただでさえ隙間のないスケジュールが一週間近くも押してしまい、来週はリスケの嵐になりそうな予感です。色んなところに土下座しなきゃ(しないけど)。返信が遅れている関係各所ご迷惑を掛けております。ごめんなさい。


話は変わりますが、先日、1月19日にエントリーした「自分の直感を信じるということ、そして、それに従順であるということ」という記事に対して各方面から色々と反響をいただきました。

「幸福」をどの尺度で計るかは非常に主観的になってしまうため一旦置き、少なくとも自分が自分の人生の大部分を何に費やしたいか、という点と「幸福感」は密接に関係するように思います。しかし現実に目を向けてみると、悲しいかな、資本主義経済の下では「金」がなければ最低限の生活すら営むことはできませんよね。そこで圧倒的大多数の人は、まず「生活するために働くこと」になります。そして、一日の半分以上を仕事に費やす。最近は学生企業家も増えていますが、多くの人は何もチャレンジしないまま、まず「雇われる側」に回ることになる。そして、そのまま組織の一員として、働いていくことになります。

問題はここから。
その仕事を本当にしたいと思っているのか、夢中になれるのか、ワクワクするのか。それが、人生の目的なのか。それをするために生まれてきたのか。惰性ではないか、勇気はあるのか、確信を持っているのか、夢中になれることに没頭し、仮に失敗しても成功しても常にワクワクした人生を過ごしたいのか。

このような自問自答を、特に、組織や会社に依存せずに、とりあえず自分で食っていけるようなスキルや人脈を身に付けた人は、自分という軸を中心にして、常に繰り返しているような気がします。否応なしに突きつけられるというか。「直感に従順に従う」ということは、「自分がワクワクすること」を素直に追い求め続けることだと思いますよね。

かくいう僕は、会社の役員という立場であえてこういうことを書いている訳ですが、自分の仕事について、いつも「客観的」であるようにしています。それがワクワクすることなのか、面白いことなのか、人の役に立つのか。その気持ちが少しでも薄れて来たら、今の立場も潔く捨てるつもりです。あっさりと。一人で仕事をしているならまだしも、チーム(組織)ですからね、自分が悩みながら仕事していたら、必死でやっている周りの人間に失礼になってしまうでしょう。いずれにしても、後悔しない生き方を「2014年のテーマ」としています。直感に従順に、面白く生きたいですよね。

それもしても、早く体調を回復させなければ!

洒落たものを洒落ていると思える幸せ


例えば、
阪神芦屋の「をどり」の看板や、

港区日の出の、TABLOIDビルの一角など

人がいない場所でも、空間とオブジェクトが融合されて独特の空気を生む。
それらの事象を「洒落ている」と感じながら、もう少しだけ、今日という一日を塗りつぶす作業にかかりましょう。

自分の直感を信じるということ、そして、それに従順であるということ

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PCを開くことがとても嫌になってしまった数日でした。

特に理由がある訳でもないけれど、自分の中で、仕事やメール、情報のI/O (Input/Output)を司る全ての媒体としてのPC、あるいはスマートフォンと関わることに急に嫌気が指してしまったのです。

そこで、この期間中(と言ってもたかだか二日間で、なんとか自分にむち打ちながら元に戻った)は、とにかく無理をせず、自分にとって心地良いと思える事だけをしようと思いました。極力、自分の志向にわがままになってみようと。

それはつまり、ジャズを聴きながら好きな分野の文献やエッセイ集を読み、コーヒーを飲み、10kmのランニングをし、出来るだけ車は使わずにトートバッグを肩からさげて歩き、散歩をし、連絡したい人とだけ連絡をし、馴染みのカフェに少し酒を飲みに行き、図書館に篭もる。

出張が続いていたということもあり、たかだか数日ではあったけれど、阪神間在住のものとしては忘れてはならない「1/17」という日も忘れてしまい(その日を知ったのは金曜日の最終便の飛行機で帰阪してから、地元のバーで常連さん達と話をしている時だった。ぎりぎりだ)、曜日の感覚もなくなってしまった感じでした。無気力、そう、無気力症候群のすごくスケールの小さなやつです。

で、こう書くと、今のこの「はい、色々疲れたので、したいこと以外は何もしませんよ」という居直ったコンディションの中で余分なものを全て削いだとしても、こんなにすることがあるんだと驚かされています。その他にも一つだけ仕事に絡むようなことはしましたが、それは、取引先がスポンサーをしているBJリーグの試合を観戦しに、若い頃に強豪校のバスケ部コーチをしていた父と二人で大阪の体育館まで出掛けたことです。確かに半分仕事ということもあるのだけど、それよりも久しぶりに父と二人で出掛けるという照れ臭さと共に、元コーチとしての的確な解説に驚かされたりしながら(当たり前だけど、少なくとも僕よりもはるかに専門的視点でゲームの流れを即座に分析している)、色々と話が出来たことは中々素敵な時間でした。


年頭の目標として掲げた、「elevation」という言葉。
1/1の記事から抜粋してみると、僕はこんなことを書いています。

“「elevation」つまり、上昇、跳躍。今までとは違うやり方で、思いっきり「跳ねたい」と思います。今まで「積み上げる」ことはして来ました。日々の習慣化のお陰でコツコツと継続して何かに取り組むことは得意になり習得したのですが、積み上げても見えてこない景色があることも、また事実。戦略的にもスピードが求められる年、今年はドラスティックな発想転換で「見えない景色を見る」年にしたいと思います。”

この、”積み上げてもみえてこない景色”をどのように見ようかと、気がだらんと抜けた時に色々と考えてみたところ、それは

「自分の直感を信じるということ、そして、それに従順であるということ」

だと気付きました。特にこの一週間でプライベートの場で出会った人たちからの何気ない言葉の数々は、このタイミングで本当に時宜にかなった仕方で降って来た言葉だったと思います。普段から極力、仕事関係なしに色んな分野の人と積極的に会うようにしているし、とてもありがたいことに食事の場をセッティングいただいたりして、素敵な方たちを紹介いただくのですが、それが、仕事と離れれば離れる程、気付きが多いのです。もうね、財産ですよ。

「直感」とは、自分の中のプリミティブな思考であると思うし、その思考は自分の中で「とても心地よく思うこと」「こうでありたいという価値観」「目指すべき方向性」と多分にシンクロすると思うので、間違いなく、それは自分の「志向」ですよね。それは、自分の人生をどう生きて行くべきか、素敵なものにしていくかの手段を見分けるコンパスのようなものであると思う訳です。

そこに「従順である」とは、自分に対して「嘘偽りなく、信じて従う」ことである訳で、人が何を言おうが、周りの環境がどうあろうが、自分の志向に対して言い訳せずに、信じたまま突き進むことが、自分の人生を、自分だけの自分という物語を彩りのある素敵なものにしていく。

人は大成功しようが大失敗しようが、金持ちになろうが貧乏になろうが、どのみち80年そこらで死ぬ訳です。あの時こうしていれば良かったと後悔することだけはしたくないし、「しない後悔よりも、した後悔の方が良い」に決まっていますよね。

ということで、今年の僕は徹底的にワガママに生きてみます。

直感に蓋をして、人の言うこと、周りの言うことにばかり耳を傾け過ぎて来た20年、自分のことよりも自分以外のことに気を使い過ぎて来た人生には疲れてしまいました。このまま、自分の直感を信じて好きなように活き活きと生きている素敵な人達を指をくわえて見ながらダラダラと年を重ねて行くのであれば、いっそのこと少し早めにこの世とお別れした方がマシだと思うので、少し極端にドラスティックに何かを変えてみたいと思います。 
 
 
 
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Innovationの息吹を感じた初日


本日から弊 QUADCEPT社 の展示ブースをインターネプコン2014に出展しています。初日にも関わらず大盛況で、来場いただきました皆さま本当にありがとうございました。海外からのお客様やプレススタッフも来てくださいましたし、日・中・英語が入り乱れる中、インターナショナルなブースとなりました。

個人的に嬉しかったのは、今年、本格的に進出する北米(シリコバレー)に十数年いらっしゃる同業の方と出会えたこと、そして何よりも先日このブログで「今年、目が離さないデバイスとテクノロジー」の記事で紹介した、米国防総省高等研究計画局(DARPA)主催の災害対応ロボットの競技会で一位になった、東大発のべンチャー企業「SCHAFT」のチームスタッフの方がデモンストレーションに興味をもってわざわざ尋ねて下さったことです。まあ、一ロボットファンとしては世界一のロボットメーカーがいらしたとのことでテンションが上がらざるを得ませんよね。

その他にも、cutting edgeな技術をもったメーカーの皆様、エンジニアの皆様にも好評で、Innovationの息吹を感じます。いや、楽しかった。

明日から金曜日まで、まだ二日間開催しています。
熱気あふれる会場を是非のぞきに来てくださいね。

明日から東京ビッグサイトで展示会です。


明日から東京ビッグサイトで三日間展示会です。

「インターネプコン」と聞いても全くピンと来られない方も多いと思いますが、毎年1月に開催されるアジア最大級のエレクトロニクス製造・実装技術展がインターネプコン(通称:ネプコン)なのです。この展示会に我らが「Quadcept」もドーンと出展します。東京、及び近くにいらっしゃる方は是非お立ち寄りください。

まあ、エレクトロニクス製造・実装技術と一言で申し上げても、完全にBtoBの製造・メーカー系の展示会になりますので一般の方は知らなくて当然なのですが、身近に使っているPCやiPhone、スマフォなどのデバイスから、TVや電子レンジ、自動車に至るまで、電気を必要とする機器にはすべてこの「エレクトロニクス」の技術が活用されている訳で、「身近なところに技術アリ」と言った感じで面白いですよね。個人的には、昨年に引き続き、クラウド化、高速化、データ活用系の新製品が多数出てくるのでは、と期待しています。

さて、一昔前の展示会では、名刺一枚渡せば参加できるクジ引きなどの催し物がたくさん行われていましたが、最近はあまり見なくなりました。どうやら、スマートかつシンプルな集客方法がトレンドになりつつあるようです。なんだろう、黙ってブースで待っていて「興味がありそうな人にだけ製品の説明をやる」というスタンス。まあ、これでは面白くない。やっぱり展示会なのだから派手にやってもいいじゃないのかどうなんだ、という訳で、今回のQuadceptのブースでは、懐かしの

「三角クジ引き祭」

を開催します。はずれクジなし、一等〜五等まで豪華景品を用意して待っていますよ。参加賞は「うまい棒」です。うまい棒も数十種類のテイストが出ていますが、美味しくない味を貰っても仕方ないので、人気の「コーンポタージュ、たこ焼き、明太子、チョコレート、チーズ」のみの5種類をチョイスしました。ベタと言われようがなんと言われようが、ここはあえてノスタルジックに行きますよ。ある意味新鮮に感じていただければ。

という訳で三日間、東京ビッグサイトにおりますので遊びに来てください。
前日入りなんてもってのほか、当日5時起きで朝イチのフライトで羽田に飛ぶという、いつもの強行スケジュールですし、今夜も某所で打ち合わせと会食というハードスケジュールですが、三連休で充電したので元気一杯がんばりたいと思います。

神戸街歩き


久しぶりに本を片手に神戸を散策。

「程良い街の大きさ」という尺度があるとすれば、神戸の大きさはまさにそれ。三ノ宮駅から北野の方まで少し歩くともう山が近づいて来ます。ピザで有名な「モンドール」で白ワインをグラスでオーダーし、ビスマルクとパスタ、サラダを少し食べ、またぶらぶらと坂道を下るとすぐに三ノ宮の繁華街に到着。

普段、東京や大阪などの大きな街で仕事をしていると本来は地元であるはずの神戸のその小ささを改めて肌で感じ、ああ、神戸ってこんなに小さな街だったけな、と再確認してみたり。

神戸という街は東西に広く、六甲山をまたいで北側にも広大な住宅地を抱えているため市の面積としてはとても大きいのに、その中心となると三ノ宮〜元町くらいのもので、海と山に挟まれた小さなエリアに程良い規模で色んなものが密集しています。そんな箱庭のような街をゆっくりと眺めつつ、駅近くの書店で
経済書を一冊買って、パラパラとめくりながら電車に乗りました。

夜は明日からの仕事の準備に追われていますが、
気持ちの良い天気の一日で、なんだかとても良い休日でした。

走ることについて語る、村上春樹の心情とシンクロしたりする日曜日


村上春樹の「走ることについて語る時に僕の語ること」をパラパラと眺めていると、そこにはランナー心理をこれでもかと的確に表現したテクストがズラリとならんでいて、「ああ、そうそう、ほんとに、そう」と共感せざるを得ません。

彼は「走ることを人に薦めることはしない」と述べ、走ることには適正がありランナーはランナーになるべくしてなる、勝手に走り始めるものだというようなことを書いています。それは小説など「物を書く」こともそうなのでしょう。走ることに理由などない。

村上春樹が瀬古利彦さんに「走るのしんどく思ったことないですか」と聞いた時のエピソードの中で、瀬古さんが目をまん丸にして「当たり前ですよ、そんなのしょっちゅうですよ!」とのくだり、僕も今から10km走ってこようと玄関で靴紐を結んでいる時、少なくともワクワクはしていないのですよね。何も考えずにランニングウエアに着替え、シューズをはき、iPhoneの「Runkeeper」を起動させて「ランニングを開始する」を押し、黙々と走り始める。考えたとして、今日は身体重いかな軽いかな(走り始めてみないとその日の調子は分からない)ということと、今日は何を聴きながら走ろうかな、くらい。

走ることに対して何も考えない。走るべくして走っている。それだけのような気がします。もちろん走っている間の一時間くらいはずっと一人なので、あれこれと考えていますし、それが脳の中に散らかった情報のデフラグに役立つことはあったとしても、人にあえて言う程のことは考えてはいない訳です。

なんとなく村上春樹は苦手で、数年前まではレイモンド・カーヴァーの翻訳集くらいしか手に取らなかったのに、最近になって自分の趣味というか興味の対象が、村上さんのそれとびっくりする程マッチしていて、これは何だろうと不思議に思い始めました。スコッチウイスキーしかり、マラソンしかり、物を書くということしかり。

もちろん、全ての分野において僕は彼の足元にも及ばないのだけれど、ここまでマッチすると不思議な親近感が沸いてくるというのもまた人の心というものでしょうか。市民ランナー全員の気持ちを村上さんが代弁してくれるのはありがたいとも思いますし。彼は小説を書くこととマラソンは似ていると述べていますが、僕もこうして10年近くブログを書いている中で、同じように思うことがあります。ちゃんと調べたことはないけれど、ブロガーの中にはランナーが多いんじゃないかな。

そんなことを考える日曜日です。

ああ、まどろんだ思考を叩き起こすカフェのコーヒーが美味しい。

言葉の温度について


新年会が重なり、昼も夜もなかなかに忙しい週後半でした。
ただ気心知れた仲間達と集まってワイワイやるのはとても楽しいものです。普段からLINEのグループ機能で連絡を取り合っているのも面白いのですが、会って酒を飲みながら話すことの良さとは比べようがありません。

ビジネスシーンでも同じですよね。メールより電話、電話より面談。アナログと言われようが、その方がビジネスは進みます。もちろん、普段の連絡事項はメールでも十分OKですが、商談成立に至るまでのプロセスは、可能であれば、やはり面談が一番でしょう。言葉には温度があると思っていて、先の「面談 > 電話 > メール」の順に「熱 > 冷」と、その温度感が変わって行くように思います。

この木、金曜日に日本、香港、イギリスの三拠点を繋いでの英語によるWEB Conferenceを行いました。デスクトップ共有だけでなく、ネット経由とはいえ、画面分割で各拠点にいる担当者の顔が見えるに越したことはありません。しかし、ネットワークの調子+先方から指定されたシステムの問題で、音声+デスクトップ共有だけのMTGに。相手の表情や雰囲気、空気感が伝わってこず、プレゼン、ディスカッションも非常にしにくい状態になりました。もちろん音声だけでもコミュニケーションは十分に行う事は出来ます。しかし、微妙な「空気感や温度」をキャッチするのは難しいですよね。せめて、顔がディスプレイに映っていれば良かったんですけれど。

WEBカンも、映像があれば場の空気が伝わり言葉の温度を感じることが出来ます。
媒体がディスプレイだったとしても、顔が見える関係が良いですね。

久しぶりにクールダウンしながらカフェ勉について考えてみる


久しぶりに退社後、ターミナル駅近くのカフェにてクールダウン。ある文献を線を引き引き読んでいます。平日夜のサンマルクやタリーズは、仕事終わりの方々がそれぞれ思い思いに本を読んだり、勉強したり、仕事の続きをしていたり、週末の図書館のようになっていますね。僕もこの雰囲気が好きで、週に何度かは仕事終わりに一、二時間程度過ごすようにしています。

思えば、仕事前後の朝や夜、また週末に、カフェで仕事や勉強をするといった風潮はいつ頃から増えて来たのでしょうか。スタバ、タリーズ、ドトール、サンマルクなど早朝から深夜まで営業している駅近くのカフェが増えてきたのと比例して増加してきたのではないかと思いますよね。スタバなどがなかった時代は、飲み屋とは違って深夜までやっている喫茶店などそもそも少なかった訳だし、勉強や仕事するなら、家でというのが当たり前だったような気がします。社会全体が勤勉で勉強好きになったのかな、資格ブームかな、とも考えましたが、今まで家でひっそりとやっていた人たちが外に出て顕在化した訳で、昔も今も変わらないのかもしれません。

しかし、変な一体感も生まれるのが、外勉強の良いところ。

図書館でもカフェでも、一人ひとりがカウンターに座ってそれぞれ勉強していると、ああ、みんなそれぞれがんばっているんだな、と思って励まされたりします。そして、この時間の早いこと早いこと。21時半に入店して、今時計を見るとあっという間に23時です。集中していると時間の経過が早い早い。

なかなか充実の時間です。