北陸三県 浄化の旅〜語られるナラティブと人々のいとなみ

為政者の都合により後から語られるナラティブは変わるけれど、それぞれの時代、その瞬間に生きていた人々一人ひとりの感情はどんなものだったのか。

北陸三県を旅し、行く先々に色濃く残る神仏習合、明治の神仏分離令による廃仏毀釈の影響を強く感じながら、坐禅によって目指した悟りの姿と苦しみからの解放、立山、白山それぞれを霊峰と崇めて信仰し、修験による自然との一体化と衆生済度を目指した人々の気持ちを考える時間を四日間たっぷり過ごしてきました。そして、ここ最近忙しかった自分にとっては心身ともに浄化の旅となりました。

富山の雄山神社中宮では、たまたま神主さんとお話をする機会があり、立山信仰について色々と教えていただきました。恵みを与えてくれる神の山であると同時に、死者が集まる「あの世」とも捉えられた立山。浄土と地獄が混在する山を信仰の対象とし、救いを求めた。地震、洪水、飢饉、戦などの苦難を乗り越え生きる姿に人間の儚さの中にある強さを見、明治の廃仏毀釈で存亡の危機に面した寺と立山信仰が「雄山神社」として形を変えて今に至ることなど、深く考えさせられました、

立山修験については未だに分かっていないことも多いらしく、県外から資料が出てきたりすることもあるそうです。中宮に隣接する富山県立立山博物館には、地学的な立山連峰の歴史と、立山信仰の資料が多数展示されていました。ゆっくりじっくり周りながら、曼荼羅で表された浄土と地獄の世界に驚くとともに、1200年の歴史に思いを馳せました。

ちなみに、立山博物館。
さすが富山県初の県立総合博物館ということもあり、マニアックですがめちゃくちゃ気合が入った展示になっています。興味のある方には本当におすすめです。

博物館一階の資料コーナーを興味深く見ていると、学芸員さんと思われる女性が声を掛けてくださり、公式ホームページにある「立博電子紀要」にたくさん論文がアップされていて面白いですよと教えてくださいました。アクセスしてみると確かにPDFで無料閲覧可能。

「秋の夜長にぴったり、でも、読んでいたら沼ります〜 笑」

いやいや、素敵な沼ではないですか。
今、祈りと身体の関係について個人的に興味があり(自分は出家するつもりは今のところありませんが)、特に各地の祭りや修験、講に残る文化を調べています。

寺にこだわらずに神社として形を変えたり、破壊されても何度でも再建される寺院を目の当たりにし、悲しい歴史の中にある人々の「繋ぐ」という想い、無常の中に美を見出す価値観、色即是空、空即是色に表現される、物質への執着ではなく、認知、精神に価値をおく精神性を学ぶことができました。

今回は福井の永平寺、吉峰寺、石川の白山比咩神社、富山の雄山神社前立社壇、雄山神社中宮祈祷殿、射水神社、気多神社、大佛寺(高岡大仏)の、三寺五社を巡る旅となりました。それぞれの土地で美味しいものをいただき、出会った素敵な皆さんに感謝を込めて。

ありがとうございました。

永平寺(福井県)

吉峰寺(福井県)

雄山神社 前立社壇

雄山神社 中宮殿

白山比咩神社

祈る姿に尊さを感じる

「祈り」について考えることが多い一ヶ月でした。

9月から10月にかけて二週に渡り、実行委員を務めさせていただいている「服部足祭り」と「飛脚まらそん」が続いたことで、人々の祈りにふれる機会が多かったのです。

足祭りでは足の健康を祈り、飛脚まらそんでは願い輪を周回ごとに納めて足への感謝や誰かのために祈ります。

清めの儀
願掛け場での願い輪奉納

祈りという行為は、地球上の生き物の中で人間だけが行う特有のものだそうです。命や知能の有限性を自覚しているからこそ、祈る。自分の力ではどうすることもできないことがあるから、委ねる。

人間はいつか必ず死ぬという有限性が「なぜ生きているのだろう」というテーマを探求し続けるモチベーションにもなるし、無知の知という自覚も同時に生み出すのだろうと思います。僕は人々の祈りの姿を目の当たりにする時に、そこに生き物としての弱さ、儚さと同時に、生きることへの強い決意を感じます。人間って強いなあ。

ただ、同時に現代社会においては「祈ること」は弱さのように捉えられることが多いのでないかと思います。苦しい時の神頼み、とか、最後は祈るしかない、などの表現には、祈りへのネガティブなイメージを感じてしまいます。それは恐らく現代社会の勝者は自らの力ですべてをコントロールできるとされる「強い者」であることが求められるからではないのか。かつての自分もそう思っていました。

特にビジネスの場では、人間の弱さや限界を超える超人的な強さを求められることも多くあるのではないかと感じます。常に競争を強いられ、優劣で判断される。でも、自然の中で生きている人間、たとえば農業や林業に携わっていたり、探検家や冒険家のような人は、最終的には自然の力の前では頭を垂れて祈るしかないという状況に幾度となく直面しておられるでしょう。気象や天候はコントロールできませんものね。

祈ることは、自らが自然の一部であるとの認識、謙虚さ、感謝の表れなのかもしれません。

昨日は高野山に行き、次の連休は福井の永平寺、富山の雄山神社という北陸ルートを巡る予定です。

それぞれの時代に生きた先人たちの歩みと祈りにもう少し思いを馳せたいと思います。