黙って静かに暗闇の中でこそ輝く美に目を向けよう

体調不良のために文字通り「寝正月」になってしまったおかげで、たくさん本を読むことができました。今年に入って、もう四冊目に突入しています。我ながらハイペースですが、スマホから離れて庭木を眺め、日の陰りを感じている時に、久しぶりに読みたいなと思って引っ張り出したのが「陰翳礼讃」です。

谷崎の作品の中でも、何度も読み込んでいる「陰翳礼讃」ですが、この本も、先週紹介した村上春樹さんの「走ることについて・・・」と同様、マーカーだらけになっています。

しかし改めて、今の時代に必要な本だよな。いや、今の「自分」に必要なのかもしれない。1933年に書かれ、日本の美を暗闇と影に見出すこのエッセイは今の時代にこそ見直されるべき日本の美学ではないかと思うのです。

昭和初期、西洋で発明された便利な「文明の利器」が押し寄せる中、谷崎はその便利さを認めながらも日本家屋にはおおよそフィットしないそれらを見て、明るくピカピカのものではなく、陰翳によって生かされるのが日本の美であると語っています。

照明にしろ、暖房にしろ、便器にしろ、文明の利器を取り入れるのにもちろん異議はないけれども、それならそれで、なぜもう少し我々の習慣や趣味生活を重んじ、それに順応するように改良を加えないのであろうか

西洋の方は順当な方向を辿って今日に到達したのであり、我らの方は、優秀な文明に逢着してそれを取り入れざるを得なかった代わりに、過去数千年来発展し来った進路とは違った方向へ踏み出すようになった

美というものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを余儀なくされた我々の先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに至った

陰翳礼讃

 

その国や地域の文化、言語、慣習、住居などは、その土地の地形や気候、作物、手に入る材料などによって形成されています。しかし文明が進み、現代のようにグローバルな社会になれば、面白くもなんともない画一的な製品に囲まれ、同じようなサービスを同じような値段でどこの国でも入手できるようになりました。

経済も同じで、GAFAMのような巨大世界企業が世界を席巻し肥大化する一方、すべての国の住人がそれらが提供するサービスやテクノロジーに従属するような形になっています。海外から様々な経営手法や管理手法が輸入され、それが合うか合わないか関係なく、日本の会社にも導入されていき、それが「最新の手法」としてもてはやされます。確かに生活は便利になった。でも、そもそも全然違う文化人種に対して、テンプレのように何かを当てはめるのはどうなのかな。そこに「らしさ」みたいなものはあるのかな。日頃から、そんな風に考えています。

谷崎の陰翳礼讃は、それが書かれてから90年後の今、まさに自分が抱えるモヤモヤをスパッと解決してくれるバイブルのように感じます。