「場」という言葉の重み

「場」としての健全性とは何でしょう。

僕の中での「場」とは、その場を切り盛りする人間のこうあるべきという理想と意思、それを理解する人の人生の一部の時間を切り売りするという理解の上に成り立っているのだろうと思います。「場」という言葉を「店」とし、人を「客」に置き換えて考える時、当然ながら店は客を選ぶし、客は店を理解した上で、場と時間に対する対価を支払う。そこに健全性があるんだと思います。当然、開かれた場と閉じられた場との違いがあることは承知の上です。

ありがたいことに、僕個人としては後者の意味でいうところの良い「場」に恵まれていると思っています。コミュニケーションを超越した時間の共有。本当にありがたいし、そういう場に出会えると心地よさを感じます。

「場」は時としてグローバルとかダイバーシティという言葉の正反対に位置する極地的なものかもしれません。ピカソやゴッホの絵画に数億円という価値を置く人がいるように、場に対しての主観性は非常に限定的ですが、それでも、クローズドな場に対する感謝の念を感じずにはいれません。

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