エボラ出血熱とForbes400の対比・人の生き死には極めて個人的な出来事なのか


児童の殺傷事件や御岳の噴火災害など心が痛むニュースが多い中、この記事には胸がうずいてしまった。

エボラ出血熱で数千人の孤児 親族に拒否され路上生活を送っている子供の約2割は2歳未満(画像)【huffingtonpost】


(September 23, 2014. ZOOM DOSSO/AFP/Getty Images – huffingtonpostより)

両親を亡くし、親族にも受け入れを拒否され、一人で路上に佇む子供たち。明日を夢見て眠ることを許されない子供がいるという悲惨な状況がまさに今この世界で起こっているという現実。子供達の表情を見て、この記事を読むんじゃなかったという後悔すら感じずにはいられない程、胸にうずく何かを生んでしまった。

しかし実際、この記事を読んでひどく悲しんでいる僕に、彼らが救えるのだろうか。エボラの感染拡大は悲惨な現実を生んでいるけれど、今この瞬間にも、最愛の子どもや、愛する親や、仲間を亡くしている世界中の人々の悲しみ、何らかの理由で殺されようとしている人々や、不条理に苦しむ人々の絶望と、アフリカの子供達との悲しみには、何かの違いがあるのだろうか。

ちょうど毎年好例の Forbes 400 がリリースされた。

Forbes400 – The Richest People In America 2014

毎年、大体同じ顔ぶれが並ぶ。ゲイツの8兆円に続き、バフェット、ラリー・エリソン、そして悪名高いコーク兄弟が4位、5位を締め、ウォルマートファミリーが10位以内を独占という変わらぬランキング。若干30歳、ラフなTシャツを着たザッカーバーグが3.4兆円で11位に入っているのが話題という。トップ400人の個人資産の合計と、人口2億人のブラジルのGDPが同じ額という、にわかに想像し難い富の偏りも、この世の現実として存在する。

とは言え、裕福な彼らが死の淵に立たされた時の絶望、あるいは愛する人を亡くした時の深い悲しみの気持ちと、アフリカの子どもたちの気持ちに何か違いがあるのだろうか。

人の生き死にや絶望や悲しみというのは、極めて個人的体験なのではないかと考えるのは、どこかで「人間は公平であるべきだ」「命の価値は同じだ」、あるいは「現実を見たくない」という自己納得と自己防衛本能が入り混じった考え方なのかもしれない。

香港の抗議デモのように、目に見えない力で人々の自由や平等や尊厳が奪われることもある。

世の中は不公平と不条理で満ちているかもしれない。それでも、病気であれ、地震であれ、戦争であれ、人の生き死には悠久の歴史で繰り返されてきた「いとなみ」であるし、その場その場の体験は、ごく個人的なものなのだということを受け入れることで救われることもあるのかもしれない。

それでも、何か出来ないか、何とか良くする方法はあるのか、せめて何かしたい・・・
こういう人々の気持ちがこの脆い世界を支えているのも、また事実として存在するのだろう。