【Run】距離を確保することって、意外と難しい


11月末のフルマラソンに向けて、走行距離を伸ばして行こうと思っています。

今まで週末は10km、平日の朝は、5km〜10km程度だったのを、LSD(Long Slow Distance)を取り入れていかなければ、いつものように30kmを過ぎてガックーンとスピードが落ちてしまう。

フルマラソンのためのLSDは、30km、3時間が目安のようです。7分/km ペースくらいのゆっくりスピードでとにかく長い距離を走る。そうすることで、長い距離と時間に身体を慣らして行くことができるんですね。


というわけで今朝、いきなり30kmはキツイので足慣らしに20kmを走りました。ペースも05:47/km でゆっくりと。30kmなら、キロ6:00〜6:30でも良いかもしれませんね。LSDをする時に悩むのが「どこを走るか」ということ。国道沿いをひたすら西へ東へ走れば、もちろん距離は稼げるのだけれど、信号で止まらなければならないし、車の排気ガスも嫌。かと言って、河川敷や同じ場所をグルグルと周回するもの嫌。せっかく長い距離を走るのだから、少しでも景色を変えてみたい。

そこで今朝は、芦屋川を南下して、浜の堤防沿いを走り、夙川を遡上するというルートを通ることにしました。夙川河川敷の遊歩道の一番北まで行けば、10kmくらいは稼げそうです。

久しぶりの夙川。
芦屋川とはまた景色が違います。

香櫨園浜

芦屋川

今日も涼しく、走っていてとても気持ちよかったです。
何をするのも良い季節になりましたね〜。

”必要のないもの”を保持し続ける必要はない理由について

【内容正当故、閲覧注意されたし】


昔懐かしの味、ナポリタンとハイボールの組み合わせ。

僕はジャイアントコーンが好きである。

厳密に言うと、ジャイアントコーンが好きなので、ミックスナッツは買わないし、他のナッツを必要と感じない。つまり、「ジャイアントコーン原理主義者」だ。

必要と感じないものには即刻退場していただきたいという「白黒はっきりした」考えの持ち主であるし、不利益な要素(経済学的に言うと、満足をもたらさないもの)はできるだけ早い段階で排除すべきであるという考え方を持っている、とても分かりやすい人間である。

その因子に前科があるかどうかはどうでも良い。組織として利益があるかないか、顧客に気に入れられているか、そうでないか、である。


誤解のないように言うと、人間は不完全であるがゆえに過ちや罪を犯すものであるとは理解しているが、企業単位、資本主義経済単位で言うと、利益を生まずに不利益な事ばかりする要素については、保持(あるいは維持)する必要がない。そうする倫理的な理由も、どこにもない。

資本主義経済においては、即刻排除、または、自ら退場いただくしかないということが、残念ながら現実としてある。それが嫌なら、北朝鮮か、キューバか、中国に行って工場のラインに並べばよろしい。

悲しいかな、経済合理性とはそういうものであるし企業は利益を追求する集団であるがゆえに、不利益を生む要素を、即刻排除することは仕方がない。残念だけど、そういうものだ。そこに善悪がないかと言えばそうではない、一番の悪は「独りよがりで自分が一番正しい」と思っているどうしようもない因子なのである。

この年齢になって美味しいと感じるもの


かなり前の話になりますが、味噌カツと味噌煮込みうどんを名古屋で食べた時に、それらの美味しさがあまり分からず「ふーん、こんな感じか」と思って以来、口にすることはありませんでした。そもそも、トンカツを塩で食べる程の塩党ですから、ソースはまだしも「味噌」をつける意味が分からなかったのです。

しかし今日、ものすごく久しぶりに味噌カツを食べるチャンスが訪れました。出張で訪れた名古屋駅の「名古屋旨いもん通り」(?)みたいなネーミングのエキナカ食堂街を、打ち合わせ帰りにぶらぶらしていると、ちょうど「名古屋めしが食える店」みたいな店があり、まあ、名古屋は良く訪れるとはいえ、「らしいもの」は一度も食べたことがなかったし、いっちょ行ってみるかと、普段は入らないスイッチがONになってしまった訳です。

で、オーダーしたのが、こちら。

味噌ロースカツ定食と、手羽先。
まるで観光客のようなメニュー。

前回がいつだったか忘れてしまうくらい、本当に久しぶりに味噌カツ。お味は・・・旨い!!うん、旨い。炭水化物制限中なのに、ご飯が欲しくなるじゃないか。まあ、昼間だし食っちゃえ!・・・パクパク・・・ご飯と一緒だと、また一段と美味しい〜!と、一人飯なのにキャッキャウフフ顔で完食してしまいましたね。

味噌カツも、手羽先も、基本甘めの味付けなんですね。
塩ばっかりを好んで食べているので、たまに食べる甘めの味付けが余計に美味しく感じたのかもしれません。まあ、意外でした。

でも、まあ「たまに」でいいかな。笑

エボラ出血熱とForbes400の対比・人の生き死には極めて個人的な出来事なのか


児童の殺傷事件や御岳の噴火災害など心が痛むニュースが多い中、この記事には胸がうずいてしまった。

エボラ出血熱で数千人の孤児 親族に拒否され路上生活を送っている子供の約2割は2歳未満(画像)【huffingtonpost】


(September 23, 2014. ZOOM DOSSO/AFP/Getty Images – huffingtonpostより)

両親を亡くし、親族にも受け入れを拒否され、一人で路上に佇む子供たち。明日を夢見て眠ることを許されない子供がいるという悲惨な状況がまさに今この世界で起こっているという現実。子供達の表情を見て、この記事を読むんじゃなかったという後悔すら感じずにはいられない程、胸にうずく何かを生んでしまった。

しかし実際、この記事を読んでひどく悲しんでいる僕に、彼らが救えるのだろうか。エボラの感染拡大は悲惨な現実を生んでいるけれど、今この瞬間にも、最愛の子どもや、愛する親や、仲間を亡くしている世界中の人々の悲しみ、何らかの理由で殺されようとしている人々や、不条理に苦しむ人々の絶望と、アフリカの子供達との悲しみには、何かの違いがあるのだろうか。

ちょうど毎年好例の Forbes 400 がリリースされた。

Forbes400 – The Richest People In America 2014

毎年、大体同じ顔ぶれが並ぶ。ゲイツの8兆円に続き、バフェット、ラリー・エリソン、そして悪名高いコーク兄弟が4位、5位を締め、ウォルマートファミリーが10位以内を独占という変わらぬランキング。若干30歳、ラフなTシャツを着たザッカーバーグが3.4兆円で11位に入っているのが話題という。トップ400人の個人資産の合計と、人口2億人のブラジルのGDPが同じ額という、にわかに想像し難い富の偏りも、この世の現実として存在する。

とは言え、裕福な彼らが死の淵に立たされた時の絶望、あるいは愛する人を亡くした時の深い悲しみの気持ちと、アフリカの子どもたちの気持ちに何か違いがあるのだろうか。

人の生き死にや絶望や悲しみというのは、極めて個人的体験なのではないかと考えるのは、どこかで「人間は公平であるべきだ」「命の価値は同じだ」、あるいは「現実を見たくない」という自己納得と自己防衛本能が入り混じった考え方なのかもしれない。

香港の抗議デモのように、目に見えない力で人々の自由や平等や尊厳が奪われることもある。

世の中は不公平と不条理で満ちているかもしれない。それでも、病気であれ、地震であれ、戦争であれ、人の生き死には悠久の歴史で繰り返されてきた「いとなみ」であるし、その場その場の体験は、ごく個人的なものなのだということを受け入れることで救われることもあるのかもしれない。

それでも、何か出来ないか、何とか良くする方法はあるのか、せめて何かしたい・・・
こういう人々の気持ちがこの脆い世界を支えているのも、また事実として存在するのだろう。