9.11


11年前、あの日のことはよく覚えている。
仕事から帰宅して風呂に入り、リビングでくつろいでいた。
すると突然、寝室でTVを見ている妻が「え!?何これ!?何があったん!?」と大きな声で呼ぶので行ってみると、画面にはロウアーマンハッタンのシンボルであるWTCのツインタワーが炎上している様子が映っていた。ツインタワーには行ったことがあるので、ある意味、思い出の場所。そこで大変なことが起きていた。

絶句しながらTVをザッピング。すべての局がNYの映像に切り替わっていた。すると、もう一つのタワーにも飛行機が突っ込んだ。これは戦争になるな、と直感的に思い、妻にも「これ、戦争が始まるよ・・・」と、そう言ったのを覚えている。


あれから世界情勢が変わったと言われるが、僕にはそんな大きな世界の変化についての知識もなく表面的なことしか分からない。しかし、あの日たくさんの方が亡くなり、予想通り始まった戦争ではもっと多くの人が亡くなったことは事実。戦争とは関係ないけれど、一年半前の3.11では大地震で多くの方が亡くなった。そして今、この瞬間にも、災害や戦争、紛争等で苦しんでいる人がたくさんいる。

今、僕は何の因果か生かされている。
日々、感謝しながら、手を緩めることなく、
毎日必死に、完全燃焼で。

また明日からがんばろう。

よし、とにかく落ち着ついて粛々と進めよう


盆休み明けの木、金はとにかく忙しかった。
メールに電話に会議に打ち合わせに・・・打ち合わせ最中でも遠慮無く電話はなるしメールは鬼のようにやってくるしで超マルチタスク。移動中もひたすら電話。こうなると注意力も散漫になる訳で、「何か忘れていることはないかな?」と常時不安な状態になります。フワフワした感じで木金を過ごしました。「忙」は心は亡くすと言うけれども、結果的になくしたのは心ではなくてiPhoneと財布でした。(泣

金曜日、すべての仕事を終わらせ、取引先の仲良くさせていただいている社長と初めてのサシ飲み。天満B級グルメと称して4軒程ハシゴ、その後ミナミに移動して更に2軒ハシゴ。とにかく楽しくて楽しくてあっという間に時は流れ、気も張っていたこともあり酒に酔っている感は全くなかったのですが、感謝の気持ちと共に社長とお別れした真夜中、膝からガクンと来ましたね。そりゃ、あれだけ飲んでいれば当然といえば当然です。タクシーに乗って梅田を目指す途中で気分が悪くなり途中下車し、座り込んでクールダウン。そのまま路上で少し眠ってしまっていたようですが(これは人生で初めて)、帰ろうと思って電車に乗ろうとするとiPhoneと財布がなくなっていた、という訳でした。

盗まれた可能性が一瞬頭をよぎりましたが、カバンの中に入っているその他の携帯、定期やカード類、MacBook Airなどはそのまま。本当に財布とiPhoneだけなんです。座っていた場所に戻り、タクシーから降りて歩いていた場所なども何度も何度も往復して探しましたが見つからず。会社のコーポレートクレジットカードや会社支給のiPhone。自分の私物はどうでも良くても、会社には何が何でも迷惑を掛ける訳には行きません。カード会社各社と銀行のキャッシュカードをすぐにストップし、そのまま早朝の警察署にて紛失届を提出。iPhoneの方は探索センターに電話をして位置を聞き出し(浪速区戎本町にあるよう。誰が持っているんだろう)ました。タクシーに忘れた可能性が高いとは思いますがレシートも紛失した財布の中。それにしても本当にやっては行けないことをやってしまいました。反省です。


あってはならない経験だけれども、こういう痛い経験をすると気持ちの引き締め直しが出来るので良いチャンスと捉えるようにします。たくさんの方から慰めや励ましの言葉をいただき本当に感謝です。最悪、戻ってこなかったとしても財布や携帯電話は代わりのものを用意することができます。多少不便はあったとしても、カード類や免許証、保険証は再発行が出来るし、ポイント・カードもそう。娘の写真や現金(幸い数千円しか入ってなかった)は戻ってこないかもしれませんが、どうしようもないということもありません。

とにかく冷静に、再発しないことだけを考え、反省し、次に繋げたいと思います。
とにかく早く出て来て欲しい!!それだけを祈ります。

heuristic and bias


人間はヒューリスティクスな生き物であるがゆえ、バイアスな回答結果を生むことがある。

これは良く知られたことだけど、人間の生命は有限であるがゆえに出来るだけ効率的な生き方をしたいと思いますよね。遠回りや失敗はもちろんある。それすら糧に。それもOK。でも、人生において有限の時間をどのように使うか。ここが大きな分かれ目だと思います。

何事も「成し遂げる人」の特性を見ていると、実にひたむきで実にストイック。僕はこれらの属性と対局にあると認識しているからこそ、時間の使い方が非常に効率的でひたむきで、1分1秒を無駄にしない生き方に根拠のない憧れを感じます。何が重要で、何が重要ではないのか。人それぞれプライオリティのセッティングは違うものの、「今しなければならないこと」を自らの審美眼で見極めて判断できるようでありたいものです。100%自戒をこめて。一秒足りとも無駄にしたくはない。


とはいうものの、今夜は今週二度目のビジネスディナー。梅田でブレイクスルーに繋がるディスカッションを行った後に地元で二軒目。随分と酒を飲む回数も減ったものです。でもこの一週間がとても忙しかったので、一旦「スイッチオフ」。生活においてスイッチのオンもオフもある訳ない、と思っているのですが今日は意識的にオフりました。それでも、本当に素敵な出会いもあり、為になる話もあり。バイアスについてはインディビデュアルなフィルターを通すから仕方ないとして、それでも「ああ、今夜は良かったな」と腹にストンと落ちればそれもまた良し、と思っているのです。


今日もとても忙しかったのですが、社内作業時間はこんなBGMを。
選曲のセンス良いです。皆様も是非。

言い訳のない生き方には自己責任が伴う


いつも公私共にインスパイアしてくれる旧友(仮にNとしましょう)と話をしていると、ああ、覚悟を決めているな、と思うのです。生き方が潔よい。

言い訳をしない生き方というのは、「自分の人生は自分で決める」ということです。決めた人生、ケツを拭くのも自分。そんなの当たり前じゃないか、と思うかもしれないけれど実はこれには大きな責任が伴います。お気楽サラリーマンの方がよっぽど楽です。人ってどこか言い訳をする生き物ですよね。仕事、会社、家庭、生い立ち、教育、嫁怖い、旦那怖い、子ども出来悪い・・・(笑)最後の方は冗談ですが、言い訳しようと思えば何だって材料になるものです。そしてそれを理由付けにして、あいつはいいな、こいつはいいな、うちはこういう事情だからダメだ、と文句ばかりを言ってしまうことがあります。何かのせいにすることができるので、行動を起こせない自分を守ってしまうんですね。

責任と自己決定は全く違います。生きていれば責任を負います。責任を放棄して好きなことをする、というのは本末転倒です。でも、責任を言い訳にしない、これが素敵な生き方だと思うんですよね。責任はしっかり果たしつつ、自分の人生の指針は自分で定め、それに向けて努力調整する。人一倍の努力です。時に誰かの手を借りることもあるでしょう。でも、その調整すら含めて、全て自分で完結するのです。こういう人間が身近にいると、本当に感化されます。とにかく前向き、とにかくチャレンジング。

僕も新しいことを始めようと、相談をしたことがあります。その時、身内を含めてもNだけが唯一、最初から大賛成してくれました。すごい!絶対にやり!全面的に応援するから!開口一番でした。こういう友を持てて、本当に幸せです。背中を押してもらえればやる気になるし、調整もする。「本当に大丈夫?できるん?」なんて言わないところが、僕のことを良く分かっています。

これは僕も注意していることなんだけど、相手が深く深く考えて出した結論に対して、意見を求められた時にはネガな要素を指摘することはありだけど、自分が知りもしない分野に対してはなっから心配することや出来ない要素を引っ張りだすことって、相手に対して失礼だったりします。話した方は「そんなの百も承知」と思います。しっかり、背中を押してくれるのが本当の友だと思いますよね。また何か新しいことを始める時に、どこかに逃げ道を作りながら模索してバランスとって・・・なんて、上手く行きっこありませんわね。僕も仲間達に対して、いつもそのように「背中を教えて応援してあげれる」存在になりたいものです。そして、自分もただひたすら「言い訳をしない生き方、選択」をし続けていきたいと思います。まあ、最近一ついい意味で吹っ切れました。自分の気持ちを大切にすることを学びました。


以前から行動経済学に興味があり、ポチッたものが今日届きました。

行動経済学 経済は「感情」で動いている 友野典男

ささっと読めそうです。
これからに季節、夜のお供に行動経済。

さあ、明日は関西ゴルフ部コンペです。
天気も良さそうですが、起床は4時。もうあまり時間がありません。
おやすみなさい。

8th Memorial


6月10日でこのブログも8年目に突入しました。
2005年の6月10日、アメブロでスタートしたこのブログ、無事に丸7年が経過。もしくは満了。スタート当初は長女も生まれていませんでしたし、勤めている会社も違いましたね。そして何よりも、まだ20代!花の(?)20代ですよ。今やアラフォーのオサンですからね。そりゃ自分も、周りの環境も大きく変わるものです。

ブログを続けていて良かったと思うことは幾つかあります。

まず一つ目。
当たり前ですが、過去を振り返ることができるということです。まさに”日記”。これは「今の自分の成長具合」を確認するのに役立ちます。4年前の同じ日に自分は何をしていたのか、何を考えていたのか。時として振り返ってみると新たな気づきを得ることもできます。当時携わっていたプロジェクトやその時の局面、会っていた人によって考えや悩みが色々とあります。それが今の自分にとっての新たな気付きとなることも多くあるのです。僕の場合は、昔の方が真面目に物事を考えていたなあ、と思うこともしばしば。青くさいなあ、と恥ずかしくなることもありますが、それによって自分自身の成長を確認することもできますよね。

二つ目。
ブログを書いていると一日一日をきちんと振り返るきっかけになるということです。もう何年も前に、僕のブログを読んでくださっていたスペイン在住の女性がこのようなコメントをくれたことがありました。
「その日その日をしっかり振り返って丁寧に塗りつぶしておられるようで、いいですね」
この方が使われていた「日々を丁寧に塗りつぶす」という表現がとても好きで、以来、事あるごとにこの表現を使わせてもらっています。振り返ると何かしら反省点や課題、明日にどう繋げていくかという点が見えてくるというもの。もちろんブログをしっかり書く時間を取れない日もたくさんあります。何食べた、何飲んだで終わる時もあれば、書けずにカレンダーが虫食いになる時もあります。でも、「書く意識」を常に持っていれば、その日を振り返るきっかけになることは確かです。その上で課題を見つけて明日へフィードバックする。このサイクルが目に見えるスピードでなかったとしても、ゆっくりゆっくり成長の糧になっている可能性はあります。

三つ目の点として、自分のことを良く知ってもらうきっかけになるという点も挙げることができます。最近、ソーシャルメディアのメリットについて幾つかの考察を書きましたが、会った回数が少なくても、もしくは一度も会ったことがなかったとしても、お互い「相手がどんな人間か」ということをある程度は知る事ができます。これって実は大きなメリット。初対面が初対面でなくなり、久しぶり!が久しぶりではなくなるのです。分かりやすく言うと、「再会時のぎこちなさ」を割愛することができる(笑)。スッと話題に入っていくことができるし、最近こんなんやってるねんねーっと記事をネタに話も弾む。これは素晴らしいことだと思っています。

あとは、実名で記事を書いているメリットもありますね。恥ずかしいことや私生活の赤裸々なあれこれを書くことはもちろんできませんが、昔お世話になった方が僕のブログを見てわざわざ電話をくれたり、幼馴染が数十年ぶりに連絡をくれたりしたこともありました。いずれもブログを書いていなければ実現しなかった事です。

という訳で、昼休みの時間に長々と書いてしまいましたが、ブログ(個人サイト)の運営に魅力を感じている僕としては、これからも細く長く、ここで何かを書いて行きたいと思っています。

8年目。
どうぞ、皆様引き続きご愛顧の程よろしくお願いいたします。

いかにして個人的な情報を発信するか


見えるものが全てではない

という点について、最近思いを巡らせています。ソーシャルメディアの時代に生きている人の多くは自分の生活の一部を公開するようになりました。個人メディアとして、ブログやFB、Twitterで情報の発信を行っています。時として私生活や日々の思いを発信することにより、繋がっている人々に親近感を与え、共感を生み出し、エンゲージする。この事は人間関係をより強固なものにする上で大きなメリットを生みます。実際に会った回数が少なかったとしても、このような手法を活用することにより短期間で濃い人間関係を形成できる場合もあります。また、遠方に住んでいる家族や友人、なかなか会う機会を持てない人達との人間関係を保つ上で、このようなシステムは嬉しいですよね。

その上で、ソーシャルを有効に活用するための方法は「見えるものが全てではない」という前提をいかに理解するかにかかっていると考えています。当たり前ですが、発信する情報はあくまで発信者のインディビデュアルな意思決定に基づくものであり、他の誰かから日々の行動を「日報」のように提出を義務られるものではありません。僕のように実名で発信している場合は特にセンシティブにならざるを得ません。

例えば、僕自身もこのブログやソーシャルメディアで発信している情報は、全て自分自身の「グレートファイアーウォール」を通過しているものであり、言い換えれば完璧な情報統制を行いフィルタリングされた上での情報、ということになります。例えば、このブログではほとんど自分自身が関わるビジネスについては記載していません。というより、できません。なぜなら、他の全てのビジネスマンがそうであるように、ビジネスシーンにおいてはNDAやコンフィデンシャルが絶対条件となるプロジェクトがほとんどであり、それを逐一(あるいは特定の企業名や製品名がぼんやりとでも分かる場合も含め)報告していればNDAに抵触する恐れがあり、それは情報のリークとして訴訟の対象となってしまいます。当たり前ですがこのような事を行う人はまずいないでしょう。従って仕事の話になると、既に公開しているものやオフィシャルなプレスリリース、メディアでリリースされている内容をせいぜいキュレーティングする程度の内容になってしまいます。

プライベートな内容においても同じ事が言えます。僕の場合、ここで掲載している内容は(人や店や行った場所を含め)全てパブリックな情報です。言い換えると「知ってもらいたくない」情報を掲載することは絶対にありません。例えば僕のブログではBARNSに関する話が多く登場しますが、これはつまり「公開しても全く問題のない」内容です。もっと分かりやすく言えば、妻や子供、親にさえ知られても良い内容なんですよね。それに、お店はパブリックな場です。しかし、BARNSに行く度にTwitterやFourSquareで「ここにいますよ」という訳ではありません。一人で飲みたい時などは「知らせたくない情報」になりますので発信しませんよね。店の話が出たのでついでに続けると、例えば「自分一人で大切にしたいお店」はここには記載しない、ということになります。

逆に、自分にとっては構わないのだけど、掲載される相手にとっては不快と思われる内容を悪気なくアップしてしまうこともあります。写真を個人が特定されない程度に縮小して掲載する場合もありますが、写っている人から「公開しないでほしい」と言われるとすぐに謝罪し削除します。公開してもOK?という確認を事前に取ることがほとんどですが、これも情報の取捨選択の一つです。またFBにアップしている写真もほとんど「誰と一緒にいるか」のタグ付けを行いません。これも上記の理由です。(エラそうに言っておきながら最近も自主的にいくつかの写真を下げました。すいません。何かあればご指摘を・・・)

このように多くの場合、人の24時間のほとんどは「知ってもらいたくない」情報で成り立っています。発信できる情報なんて氷山の一角にしか過ぎません。隠れた氷山の全貌を見たいと思っても見れる訳がありません。まさに「見えるものが全てではない」ということになります。見えるものはあくまで、見ても良いよ、とフィルタリングされたテキストでしかないのです。

このポイントを抑えると、ソーシャル上のコミュニケーションは非常に楽しいものになります。人間には元々「知りたい」という欲求があるものです。しかし欲求が強すぎると、それは自分にも相手にもストレスを与えてしまいます。そこを理解し適切なキュレーティングを行うことが、円滑なコミュニケーションを生む秘訣であると考えています。

そんなことを、昨夜は某所で白ワインを堪能した後、別の店でコロナを一本空けながら考えていました。

自分を鏡に映して見る


親友のNが出張で大阪入りしているということで半年ぶりに再会。長い付き合いの割にはお互い忙しくて年に一度も会えない時期が続いていたが、ここ一年程はタイミングも上手く重なって半年に一度くらいのペースで会うことができている。Nは同い年だけれど非常に優秀かつパワフルで、睡眠時間なんて僕よりも圧倒的に短く、それでいて驚くべきことに毎年毎年違うことにチャレンジしていて(今は何故か医学部の修士課程。そのまま博士課程に進むそうだ)一体どこからそんな力が出てくるのだろうと、いつも不思議に思うような生活をしている。詳しくは書かないけれど、人から見れば「嘘でしょ?」と思うような波乱万丈の人生を生きながら、だ。そして、僕はそんな同い年のNをただ純粋に尊敬している。

「鏡」の役割を持つ人間と出会えることは人生の中でそう多いことではないのだろうな、と考えることがある。自分よりも自分のことを良く知っている他人なんて、親以外にいない。親でも子のことを知らないことが多い。付き合いの年数だけでは測り知れない何かがある。本当に不思議だ。

僕はそういう相手を前にすると自分自身の内奥と対話するかのように、一言一句を確認し噛み締めながらポツリポツリと言葉を紡ぐ。というより、ポツリポツリとしか言葉を出すことができない。相手は僕のことを良く知っているから嘘もつけないし、無理もできないし、格好もつけることができない。そんなことをするとすぐにバレる。悔しいけれど、鏡はそんな言葉の一つ一つを黙って頷きながら聞いていて、短い言葉でそっと的確なコメントをくれる。それが確認作業となり、僕は自己を知ることができる。肯定も否定も全て含めて受け入れられる。「考え過ぎて自己の内部崩壊を起こしてしまう」という悪い性格を知っているから、言葉を上手に引き出してくれている。それが分かる。勝ち負けではないけれど、勝てる気がしない。昔はそうでもなかったと思うのだけど、ここ最近は親子のような、カウンセラーと患者のような関係に逆転してしまっている。悔しいなあ。追いつき追い越したい。笑

人それぞれ抱えている物も歩んで行く先も違うのだろうけど、日々チャレンジしている人間は、人の何倍も学んでいるし、考えているし、苦しみを乗り越えている。だから器が大きい。海のように広く、深い。そういう人間が周りにいる僕は幸せだな、と思うし、いつかは自分もそうなりたいと思っている。まだまだ浅瀬でちゃぷちゃぷしている状態だけれど、がんばろう。

まあ、それはさておき。
とにかくそんな奴が身近にいることに感謝している訳です。
このブログは読んでいないと思うので、いつもは恥ずかしくて面と向かって言えないことをここでこっそりと言っておきましょう。

ありがとう。

ジョギング中に迎えた14時46分


買い物から帰ってTVをつける。
東日本大震災から一年。
どのチャンネルでも追悼番組が放映されていた。
様々な思いが駆け巡る中、
ジョギングウエアに着替えて寒空の下、駆け出した。
僕が住んでいるのは、兵庫県芦屋市。
東北から遠く離れた場所でも、
14時46分に市内全域サイレンが響き渡った。
僕も足を止め、半旗が掲げられている市民センター前で
亡くなった方へ思い、今こうして生きていることへの感謝、
そして「継続的な支援」の必要性について改めて考えを巡らす。
$アナログWEBプロデューサーのPC嫌い日記
自分ができることは本当に微々たるものだけれど、
17年前に阪神大震災をど真ん中で経験した者として、
継続的にできることを行ってきたつもり。
だけれども、やはり心のどこかで、
当初抱いていた気持ちが薄れかけている自分も、正直いる。
この機会に改めて、
「継続的な支援」を行っていくことを心に誓い、
気持ちを引き締めた。

ジョギングの方は調整ラン。
フルマラソンから一週間、ゆっくりペースで11.3km。
次の大会は地元芦屋のハーフマラソン。
無理のないペースで距離を重ねていくつもり。

「ためる」か「小出し」にするか


今日は娘の授業参観。
学校に向かう電車の中で更新中。

ある人のワークスタイルについて話を聞き、
人には「ためる」人と「小出しにする」人の
二種類のタイプが存在するんだな、と認識し、
自分はどっちのタイプか?と考えてみる。
その方は以前、
一年間休まずに働き、オフを一ヶ月分取得し、
バリ島の、さらに離島にある世界中からセレブが
集まる高級リゾートに2週間滞在して本を読んだり、
酒を飲んだりして、ただひたすらボーッとする。
そして帰国すると鬼のように働く、という生活をされていたそうだ。
起業家という立場だからできることかもしれない。
このような人は典型的な「ためる」タイプ。
こういう働き方にはめちゃくちゃあこがれるけれども、
僕はあいにく貧乏性なので、
このような割り切ったことがなかなかできない。
やっぱり週に一日は休みたいし、
平日にちょっと飲んだり、走ったりして適度な息抜きを
繰り返したい。それがないと疲れてしまう。
もちろん、他の多くの人がそうであるように、
このような働き方ができないという環境にもある。
しかし、色々な人を観察していると
周りにいる「仕事がデキる人」は、
「ためる」タイプが多い。
いつ寝てるの?と疑問に思うくらい
バリバリ働いていたかと思うと、
急に海外留学したり、ヴァカンスに出掛けたりする。
もちろん、突発的ではなく、熟考に熟考を重ねての決定だし、
自分自身のキャリアや自己実現のためのものだと思うのだけど、
動きが早くて大胆。
そして、良い意味で割り切る。
「割り切るか割り切れないか」
この違いは大きい。
決断→実行のスキームがとても速い。
決めたことは変えない。
目的がはっきりしているから変える必要がない。
ワークスタイルがどうであれ、
こういった思考パターンを身につけたいものだ。

昨夜は二週間ぶりに苦楽園のBARNS入り。
秒速で過ぎ去った一週間の最後の締めくくりとして、
また、「時間の密度を濃くする」という目標を
自分なりに達成できたご褒美として、
早めに会社を出て21時に入店。
最初は一人で飲んでいたのだけど、
後からRさん、Kさんがお越しになり、
話がはずんで気付くとAM1時を回っていた。
4時間も飲んでいたことになる。
ここに来ると時間を忘れる。
$アナログWEBプロデューサーのPC嫌い日記
マスター、皆さん。
いつもありがとう。

人は器の中で成長する


相変わらず忙しい。
脳にモヤがかかっている状態。
それでいて、明日は宝塚ハーフマラソン。
信じられん。
やはり12月にレースを二回も入れるのはよそう。
予定に追われてしまっている上に、
体力を極限まで使うマラソンなんて・・・
そんな中、
今日で年内の最終営業を終える会社も出始めている。
来週に入れば、残り営業日も4日。

諸々と書きたいことがたくさんある。
ちょっとまとまっていないけれど、
「個」の力について。
数年前から「個」の力がこれからの時代、
マストスキルだということについてずっと考えている。
この件は過去も幾度となくブログに書いてきた。
「個」として力をつけなければ
これからの時代は生きていけない。
組織ではなく「個」。
「できる個」は強い。
上を見る。インカムを増やしたい。
だからこそ、現状に満足できなければ、はばたく。
では、我々会社は「組織」として、
これらの「個」をどのように扱うべきか。
力をつけ、はばたこうとする「個」に対して、
囲い込もうとするのではなく「背中を押して」
あげるべきではないのか。
インキュベートでも構わない。
流出ではなく、広がるネットワークと考えれば良い。
ネットワークとノウハウを抱えて、
帰って来てもらえるような「懐の深い」会社が、
本当に強い会社なのだと思う。
そのようなカルチャーであふれた会社では、
一人ひとりが最大限のパフォーマンスを
発揮するようにがんばる。
高いモチベーションが形成される。
機会やネットワークをうまくつかみ、
そこにリソースを送りこみビジネスチャンスを広げる。
中長期的に見れば、リターンも大きい。
人財が集まる。
そしてESは達成される。
一昔前の商社や、
「坂の上の雲」を見ていてもそう思う。
最終的には「個の力」だ。
人は器の中で成長する。
器よりも成長した個を無理やり押し込もうとするのではなく、
むしろ喜び、次のステージで広がりのあるリレーションを
お互いが築くことができる組織こそ、大きな器だと思う。
そんな会社にしたい。
課題山積。問題点を見つけて即行動。
2012年、これが自分の中での大きなテーマになる予感。
答えを出すべく模索だな。