持論と共感の関係について

今日は神戸ラン。いつもの国道コースではなく、ちょっと気分を変えてみたかったので山手幹線(阪神間を東西に貫く山の手の道路です)をラン。このコースは気持ち良い。気になった路地や森など、自由気ままに立ち寄りながら三宮方面へ。

結局、芦屋→岡本→六甲八幡神社→水道筋商店街→王子動物園→新神戸駅→異人館→三宮という15kmのラン行となりました。今日のヘッダーイメージ写真は、王子公園の神戸文学館です。今日は単独ランでしたので、疲れた脳を空っぽにしながら走ることを心がけました。それでもあれこれと考えるものです。

最近のテーマは「結局人間ってわがままな生き物だよな」ということです。

みんな勝手に考えて勝手に行動して。当たり前のことなんですけどね。悪いのは、それをあたかも正論のように押し付けること。これがいけない。

考え方が人それぞれなのは当たり前。世の中に誰一人同じ人はいない。みんな個性があるし、生い立ちも違うし、育つ環境も違います。その中で人格が形成がされてゆき、経験の中で学びながら成長するので考え方が違うのも頷けます。ある人は卑屈でネガティブな考え方かもしれないし、ある人はおおらかで余裕があるかもしれない。仕事に対する考え方も経営に関する考え方も人それぞれ。みんな持論があるからこそ、面白いのですよ。譲れないものもありますしね。

先日、アマゾンプライムでジム・キャリー主演の映画「イエスマン」を見たのですが、超ネガティブで人のことを信用しなかった銀行員が、すべてに「イエス」というようになってから幸せな人生を歩み大成功を収めるというストーリーでした。このなんでも「イエス」というのも「ノー」というのも一つの持論なわけですが、結局はその人の考えであり、それと相反する人がいるのも事実。大切なのは、自分と異なる考え方を受け入れるということです。

どうしても、自分の意見を相手に押し付けたければ、共感ができるようにしなければなりませんね。共感してもらうということはとても大切なことです。結局その考え方の良し悪しは、共感する人の数の多さで決まります(死後、認められるというケースもありますが、当の本人には関係のないことです)。

僕はその人の「人徳」を見る時に、その人が「利害関係のない仲間をどれだけたくさん持っているか」を見るようにしています。これ、間違いないです。お金や仕事の繋がりで人脈があるのは当たり前。大事なのは「利害関係がない」ということ。みなさんもその目線で見てみてはいかがでしょうか。

理由は簡単。その人の言動が共感を生むから、周りに人が集まるんです。大衆迎合や人気取りのために無理してやっている人もちゃんとバレます。自分では分からないかもしれないけれど、周りの人間ほどよく見ているものです。所詮メッキは剥がれますから裏表のある人も残念な結果になります。

ローマは一日にしてならず。
相手の立場に立って物事を考え、感情移入し、違う考え方は受け入れつつ、お互いを認めつつ、自己研鑽に励む。自戒を込めて。

そんなことを考えながらのランでした。