気分を盛り上げたい時には


自宅仕事もそろそろ限界。
腰の可動域も広がってきたので、明日から出社しようかと思っている前夜、とても元気になる映像を見つけて気分が高揚しています。以下、紹介文抜粋。

前陣速攻愛板談義 石井裕 × 古川享
石井裕氏(MITメディアラボ副所長・教授)と古川享氏(慶應義塾大学メディアデザイン研究科(KMD)教授、元マイクロソフト日本法人会長)による談義。パネル討論を知的格闘技/エンターテイメントへと昇華して行く「前陣速攻学術漫才実験対談シリーズ」の記念すべき第一弾!コーディネーターは金正勲氏(慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科准教授)。



Video streaming by Ustream

仕事をしながらラジオ感覚で視聴。
二人の大先生の対談、これが本当に面白くて。単に知的好奇心を刺激されるという時限を超えた、気持ちの高揚、ポジティブな思考、子供のような純粋な心を思い出させてくれます。それはご本人達が仕事を仕事と思わず、楽しんでいるからなんでしょうね。あくまで推測ですが。話題は技術的内容が多いのですが、哲学や生き方、学び方、未来、文化、人類にまで及び、その知見の広さ、スケールの大きさが不思議と心地よかったりします。

目先の仕事や生活にただただ追われていると、本当に大切なことや、自分がしたいこと、ワクワク感を見失い、忘れてしまうものです。ワクワク感が欲しい時、目線が下がってしまう時には、カッティング・エッジな先生方のラフなトークが何よりの刺激になります(あくまで僕にとっては)。ぜひ、おすすめ。


「新・厄年」という言葉、御存知でしょうか。
一般的に言われている「厄年」というのは平均寿命が30代前半だった江戸時代に定着したものであること、今とは生活習慣も全く異なるため、実は僕も以前から「昔の厄年ってアテにならないよね」と違和感を感じていたのです。そんな折、昨日さとなおさんから、「37歳は新・厄年だからお気をつけあれ」と教えていただいたのが、このサイト。

75万人のデータ分析でわかった「厄年」のサイエンス 全日本人必読 男女別あなたが「病気になる年齢」がわかった

現代ビジネスの記事です。そもそも厄年というのは統計学やデータに基づくもので、やはり傾向値としてそれくらいの年齢で病気が出やすいということですので信ぴょう性はありますね(占いや宗教的なものではない)。僕も2月2日に37歳を迎える訳ですが、まさに男の厄年。思い返すとここ2,3年前から出るわ出るわ病気の嵐。やはり年齢的に気をつけなければならないようです。

〈男性〉24歳、37歳、50歳、63歳
〈女性〉25歳、39歳、52歳、63歳

ということらしいので、近い方は気をつけましょう。
いずれにしても健康には気を使っていきたいものです。身体が資本ですからね!

ただのぎっくり腰だと思っていたのが別の病気だと診断された時、人は何を考えるか

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どうも、「腰」や「痛」を連呼するブログにようこそ。
僕は相変わらず四つん這いに近い状態で元気に生きております。

ここ数日、仕事のメールやプライベートの連絡、FBなどで、「ブログを見ましたが・・・」とお気遣いのお言葉をたくさん頂戴しており感激しております。稚拙なブログなのに意外とたくさんの方に見ていただいているんだという嬉しさと恥ずかしさで胸がいっぱいです。心のこもったお気遣い、お見舞いの言葉、本当にありがとうございます。

驚いているのは、「実は私も腰が・・・」とか「頚椎を・・・」とか「膝関節を・・・」という方の多さ!皆様、関節や神経の痛みを良く御存知だからこそ共感していただけるようで、なんだか強い「痛みの連帯感」(結束力?)のようなものが生まれ、自分以外にも仲間がたくさんいるんだと思うと、本当に心強く思います。しかし、これほどまでに皆を苦しめる痛み、いっそ人間は脊椎や関節のない軟体生物だった方が良かったのではないかとすら思いますよね。


さて、ようやく少しばかり動けるようになったので、昨日病院で診察を受けてきました。普段は腰痛で病院なんて・・・と思ってしまうタイプなのですが、ちょうど幼馴染の同級生が近くの病院で整形外科医として勤務しており、一度ちゃんと診てもらおうと思ったことも背中を後押ししたのです。割と規模の大きな病院で、設備も良くスタッフさんも親切な方ばかり。正月明けということもあって患者さんでロビーや待合は混んでいましたが、すぐに診てもらい、まずはレントゲン。骨には異常なし、ということだったのですが、もしかして椎間板かもしれないということでMRIの検査へ。人生初MRIです。噂に聞くほどの不快感はなく、気づくと眠ってしまっていました。検査が終わり、また診察へ。ちなみに短い待ち時間でも、やはり激痛でジョジョの奇妙な座り方になってしまっています。あれだけはどうしようもない。

診察室へ呼ばれると、同級生のかー君先生がいつもの優しい顔でモニターを見つめています。「これ、見てみ。ここが骨ね、で、この骨と骨の間が椎間板。これが脊髄で、この中にほら、神経がたくさん通ってるよね。この2番目と3番目、4番目と5番目の骨の間の椎間板がごっつい出て脊髄を圧迫してるよね。特に2番目と3番目が・・・うわー、大きいね。これ、ヘルニアね。椎間板ヘルニアやね。」

「ヘルニアね。椎間板ヘルニアやね。」

・・・出た、あの噂に聞く「ヘルニア」。
まさか自分が・・・という思いで、目の前に映し出される己の腰の画像、3Dの画像に釘付けになりました。鮮明に映し出される画像、かー君先生の丁寧な説明。誰の目にも明らかなほど大きなヘルニアです。認めざるを得ない訳です(当たり前)。自分の身近な周りにも椎間板ヘルニアや頚椎ヘルニアの人がたくさんいます。そして皆の苦労も良く知っています。ああ、これからずっとこの病と付き合って行かなくてはならないのか・・・と思うと、一瞬目の前が真っ暗になりました。なぜか今まで「自分はただの腰痛持ち。ヘルニアなんて大袈裟なものな訳がない」と高をくくっていたのですが、まあ、なって当然かなという思いもあります。バスケ、スキー、ゴルフ、マラソン。長時間のデスクワーク、身長が高いので姿勢が悪くなってしまい、腰に負担がかかっていたこともあるかもしれません。そして数年悩まされている慢性的な腰の痛み。ただの腰痛持ちでは片付けられない痛みの原因がはっきり分かったので、気持ちがスッキリしました。

「えっと、とりあえず、スポーツは3ヶ月厳禁ね。
ゴルフ、マラソンだめよ。」

はい、了解です。長い人生、多少ブランクがあっても無問題。
かー君先生いわく、ヘルニアは一生ものでもなく、画像では残っていても鎮痛剤なしで痛みが消えることも良くあり、スポーツも復帰できることも良くあるので、あまり心配しないことだ、と言われたので、まずは無理せず安静にしておきます。4月の芦屋ハーフマラソンは父や娘達も楽しみにしているので、食材持って応援団として参加しようかな、なんて考えています。多分、今年一年はマラソン休業。一緒に走ろう〜って言ってた皆様、ボランティアや応援団で参加しますのでね!暖かくなれば、マラソンの代わりにトレッキングポールを使ってハイキングも楽しめますしね。ゴルフの方はインターバル後、ボチボチ出来そうです。関係各位、ゴルフコンペはGW前にしてください。(自分勝手w)

という訳で、ヘルニアクラスタの皆様、新米ですがどうぞよろしくお願いします。しかしあれですね。人間って歳を取る生き物なんですね。今まで健康そのものだったのが、ここ2〜3年の間に出るわ出るわ、病気のオンパレード。37歳目前にしてまた一つ追加されました。今まで肉体と精神を酷使してきたツケと言えばそれまでなんでしょうが、みんな同じと言えば同じです。仕事で知り合う方々も、大きな声で言わないけれど大体何か持ってらっしゃる方がほとんど。うちの会社にもゴロゴロいます。病気や障害が起きるのはしょうがない。要は、どう前向きに上手に付き合っていくかですよね。その辺りのバランスを、これから学んで行きたいなと思っています。

とりあえず随分良くなっては来たものの、まだ外を歩ける状態ではなく、ずっと座っているのも無理な状態なので、今日一日もう少し安静にしておくことにします。幸い月曜日、火曜日と、会社や客先と連絡を取り合いながら自宅で仕事を続けることができています。皆のサポートあっての事、ありがたいです。うまく行けば今週末には十分復帰できそうなので、急がず焦らず治して行こうと思っています。というわけで、またもや長い記事にお付き合いいただきありがとうございました。

それでは、今日も皆様良い一日を。



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それでも世界は回り続ける


世間一般、今日が仕事初め、学校初めだったのではないでしょうか。
世の中が新年のスタートで盛り上がる中、僕は自宅で仕事を行なっていました。留守番のパートナーは水疱瘡で学校をお休みしている長女です。何この病人家族。当たり前と言えば当たり前ですが、ぎっくり腰を発症してから一度も外出していません。もとい、できません。相変わらず何をするにも時間はかかりますし、常に痛みに耐えている状態です。それでも、なんとなく可動領域も広がって来たように感じますし、「この体勢ならまだ楽」というような体位の勘所(なんかやらしいな)なども掴めるようになってきました。

しかし、いくらマシになったと言っても、動けないものは動けないですし激痛も走ります。身体の不自由は精神的なダメージを生みますね。ついでにメンタルの話をすれば、なんと言っても「仕事ができない」という焦り、そして「乗り遅れ感」。これがものすごい罪悪感と焦燥感を生みます。「止まると死ぬ」というマグロ体質(性格?)も影響しているのかもしれません。幸い、PCと携帯、ネットさえあれば何とかなる仕事。今日も朝からSkype、電話、メールで関係各署と連絡を取りながら出来ることを進めることができました。こういう時、時間や場所を選ばないツールを使って仕事ができるというのは便利です。それでも、イスに連続して座ってられる時間にも限界があり・・・やはり休み休みにはなってしまいますね。これもまた歯痒さを生むのです。

そんな中、心から実感したのは周りの仲間達のサポートのありがたさ。一人では何も出来ないんだなと心から実感しました。自分がいなくても仕事や会社は回り続ける。これ本当です。一重に皆の協力のお陰です。感謝感謝です。


恐らく明日もこの調子が続きそうですが、少し歩けるようになって来たので病院に行こうと思っています。幸い旧友が整形外科医として近くの病院に勤めているのでタイミングが合えば診てもらおうかと。やはり一日でも一時間でも早くこの苦しみから解放されるのであれば、その方法を取りたいですから。明日も少しでも良くなっていますように。

日にち薬、日にち薬。

腰痛人生史上最大クラスのぎっくり腰に直面した時、人は何を考えるか

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昨夕、人生史上最大、まさにラスボス級のぎっくり腰を発症しました。
何の自慢にもならないことですが、腰痛は持病なので今まで何度もぎっくり腰を発症してきましたし、それなりにその激痛、苦しさは知っているつもりでした。しかし今回ばかりは、今まで経験したきたものをはるかに凌駕する痛み、苦しみです。そして今もその真っ最中です。

人は不思議な生き物です。
このような身体上のピンチに直面すると、まず「死」を考えます。大袈裟ですよね、どう考えても大袈裟です。当たり前ですが、ぎっくり腰が死因になる訳はないと頭では分かっているのですが、このままひょっとしたら死んでしまうのではないか、という考えがスッと頭をよぎるのです。もし、発症した場所がシベリアの大雪原だったら?サハラ砂漠だったら?ヒマラヤ登山をしている時だったら?など、ありもしない状況すら考えて軽く目眩を感じたり、恐れおののいてしまうのです。そして、その時の経験、考えたことを何かに残さなければならない、と考えてしまうのです。この「残さなければならない」という想いそのものが「遺書」に遠からず繋がって行くのかもしれません。

僕の場合、まず連絡しなければならない人達のリストを頭の中で組み立てました。ほとんどの連絡先は全てスマートフォンの中に格納されています。一番の問題はスマフォや携帯を見るためにはパスコードを伝えることが必要だと言うことです。現代人は、携帯、PC、SNS、登録サイト、メールアドレス、もちろんブログの管理画面を全てアカウントIDとパスワードで管理しています。このアカウント関連情報を残された人間にどのように伝えるか、が今後の遺書の大きなテーマになるに違いありません。だって、どう考えても見られたくない情報、恥ずかしいものもありますもん。死人に口なしと言いますが、「へー、パパこんなサイト見てたんだ。」とか娘に言われたら、いつまでも経っても浮かばれません。てか、ぎっくり腰程度でここまで考えるなよ、と今、自分で書きながら思いました。さて、前置きが長くなりましたが、事の顛末をお話しすることにしましょう。

前兆〜発症

実は年末、会社の大掃除を皮切りに持病の腰痛が悪化し始めていたのです。痛みを押しながら、年末は自宅や実家の大掃除に明け暮れました。年始はさすがにゆっくりしていたので、段々良くなるかな、と淡い期待を抱いていたのですが、なかなかどうして。治るどころかどんどん悪化して行き、昨日の午後には「レッドゾーン一歩手前」まで行ってしまったのです。

これはあかんということで、実家に電話を入れ、母が愛用しているプロ仕様(?)の腰痛ベルトを借りるべく車を走らせました。帰りにスーパーで買い物をし、自宅マンションに戻って腰をかばいながら廊下を歩いている時に激痛が走り、目の前が真っ白になったのです。ジョジョのポルナレフ風に言うと「な…何を言ってるのかわからねーと思うがおれも何をされたのかわからなかった… 頭がどうにかなりそうだった…」という状態。買い物袋をバタッと落として膝から崩れ、冷たい外廊下に四つん這いになって動けなくなってしまいました。ヨーロッパではぎっくり腰の事を「魔女の一撃」というそうですが、まさに目に見えない敵にバットで腰をどつかれたかのようでした。これは何度経験しても悲惨な痛みです。

三重苦

更に悪いことに、僕はその時「トイレを限界まで我慢」していたのです。経験者なら分かると思いますが、ぎっくり腰を発症すると一歩も動けません。しかしトイレは待ってくれないのです。ここで僕は、「動けない」「真冬の寒さ」に加え、「膀胱破裂」の三重苦を一気に背負うハメになってしまいました。(正直に言います。この瞬間、少し漏らしてしまいました。)幸い、自宅マンションの廊下だったので、すぐに携帯で妻に電話をして助けに来てもらうことができました。腰を痛める僕の姿は普段から見慣れているはずの妻ですが、さすがに寒い外の廊下でお仕置きポーズをしている僕の姿を見て、この時ばかりは「いつもと違う、決してふざけている訳ではない」と悟ったと思います。走って駆けつけてくれて大きな僕の肩を担いで部屋まで運んでくれました。

全てに時間かかる

なんとか家に入り、妻や娘たちに手伝ってもらって着替え完了、すぐにベッドへ。このように書くとあっという間の出来事に聞こえるかもしれませんが、一つ一つの行為に10分は要します。例えば、ジャンパーを脱ぐ:10分、パジャマに着替える:10分、寝室に移動:10分、などという風にです。ちなみに横になったからと言って楽になる訳ではありません。むしろ、横になった方がキツイのです。寝返りをうつのに10分から30分はかかります。それだけ時間をかけても激痛で寝返りすら諦めるケースも多々あります。足を折りたたんだり、身体を少しひねるだけで激痛が走り、ポルナレフのようになるのです。ベッドを出てトイレに行こうものなら一時間は覚悟しなければなりません。普通の3LDKのマンションですから寝室とトイレは目と鼻の先にあるにも関わらず、です。これ、本当です。

敵は痛みだけではない

激痛にうなされる僕を見て、当然、妻や娘たちも心配してくれます。しかし、腰痛とは無縁の人生を歩んできた彼女たちは、ぎっくり腰というものがどういうものなのか、全く理解できていません。ですから良く分からない的外れな気遣いを示してくれます。例えば、服を脱がす時に腕を強く引っ張る、寝返りをうつのを手伝ってくれようとして背中を思いっきり押してくれる、など。人って本当に痛い時「声が出ない」状態に陥ります。先の二つのケースはまさに「声が出ない」程の痛みを誘発します。地獄とはこういうことを言うんだと思います。

また、咳や笑いも激痛を誘発します。咳一発で軽く死ねる程です。
妻は僕を気遣ってくれて、徐々に起き上がろうとしてベッドに肘を付いて固まっている僕を見て「脇の下に入ってあげようか?」と声を掛けてくれます。恐らく、自分が僕の体の下に入って支えになり起き上がらせようとしてくれているのだろうとは思うのですが、先に書いた通り、外部の力で何かをされるというのは、とんでもない激痛を誘発すること、そして事あるごとに「脇の下に入ってあげようか?」と言うのがもはや意味不明であることから、それを言われる度に可笑しくて可笑しくて笑いを堪えるのに必死になってしまうのです。妻の気遣い → 笑いを堪えようととして咳込んでしまう → 激痛 このスパイラルは本当に苦しいものでした。

そして笑いを堪えなければならないのは僕だけではありません。なんとか起き上がって壁をつたいながら立って廊下を移動している僕は、常に「ジョジョ立ち」のような立ち方になっているのです。座っている時もジョジョの奇妙な座り方をしています。それを見て娘たちが心配そうな顔で苦笑するのです。そして僕のジョジョ立ちポーズを真似るのです。それを見て僕も笑うのです。はい、激痛。

今の状態

とりあえず、腰痛ベルトをして痛み止めを飲み、椅子に座っています。一度横になってしまうと次に起き上がるのに大変な時間と労力を要するので、限界まで座ったままの状態で仕事をしたり勉強をしたりしようと思っています。本当は寝て安静にしておかなければならないようですが、少しでもタスクを減らしたいのでがんばります。しかし一度こうなってしまうと、最低でも2日〜3日は動けないと思うので、無理せず安静にしておきます。仕事面で迷惑を掛けてしまうかもしれません。関係各所申し訳ありません。

最後に、参考になったサイトを上げておきます。
All About 「健康・医療 > ぎっくり腰」

このサイトには応急処置の方法や解消法なども紹介されていますので、同じ悩みを抱える方にオススメです。とにかく、早くこのラスボス級の痛みから開放されることを願っています。ここまでの長文を読んでいただいた皆様、ありがとうございました。とりあえず、目先の一分一秒を強い気持ちで生きて行きたいと思います(大袈裟)。




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心で見なくちゃ、ものごとは良く見えないってことさ

なに、なんでもないことだよ。
心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。
かんじんなことは、目に見えないんだよ。

サン=テグジュベリ 
〜星の王子様〜より

真夜中に読む「星の王子様」、最高ですね。
先日紹介したモモのベッポ爺さんの言葉もそうですが、児童文学に出てくる言葉は時として大人でもいや、大人だからこそハッとなるような深遠さがあり心に染み渡ります。

さて、秒速で過ぎ去ったこの週末、ようやく身も心も落ち着いたのが日付も変わった月曜日というところがいかにもという感じです。予想外の極寒の中での関西ゴルフ部コンペもいつものように楽しかったですね。来週は社員旅行先のグアム・マンギラオでゴルフをしている予定。真冬から真夏のゴルフへ。

さて、今週もタスク満載。
木曜日の夜には心地よい疲労と満足感で
飛行機に乗ることができていますように。

それでは今週も一週間がんばりましょう。

Bruce Springsteen – Streets Of Philadelphia

well-organized …


東京から帰って、自室の机を整理整頓。
目先のこと追われていると、いつの間にか机の上には書籍が散乱、未開封の郵便物がドサッ(期限があるものは一応開封)、書類の山。優先度の高い物を所定の位置にリプレースし、そうでないものを並べて整頓してかなりすっきりしました。身も心も大変気持ちが良ろしい。これで心機一転、12月をスタートできそうです。


一つのことが終わった時には「区切り」が大切です。その区切りをつける行為の中に整理整頓があるんですね。コンペが終わった時、大きなプレゼンが終わった時、仕事が一段落ついた時。週の終わりの金曜日もそうです。散らかったものを整理整頓。必要なものはファイリングし、不必要なものは捨てる。しっかり掃除して、次の仕事にとりかかる。一日の大半覗き込んでいるであろうデスクトップも机と同じですね。デスクトップ上やフォルダ内に散らかったデータを削除したりまとめたり、リネームして整理したり。僕は出来るだけ一日の終りにデスクトップの整理を行うと思っています。そうでないとなんだか次の日の朝、すっきりスタートできないような気がする。

いずれにしても整理整頓、大切です。
今日はとにかくドバーっといらないものを捨てたのでスッキリ!

さて今週もスケジュールが大変なことになっていますが・・・日々楽しく乗り切って行きたいものです。では、今日も一日がんばりましょう。

Cafe Paris Lounge – Mixed by DJ Dimsa

Runaway


おはようございます。
昨日とは打って変わって最高の秋晴れですね。
こんなに良い天気の日曜日ですが、本日中に進めなければならないことがあり、娘をバレエ教室に届けたついでに家出なうです。逆にこの天気がモチベーションになり、ここ一本集中して効率よくタスクを終わらせ、午後からは山か海にでも行きたいところです。場所を変えることによる心理的効果は環境心理学によっても実証されていますので(カウンセリングを専門にしていた父も良くこの手を使っていました)、この「家出」というウエポンを使わない手はありません。


昨夜、デスクに向かいながらモード・ジャズの教科書のようなアルバム、Miles Daviの”Kind Of Blue”をBGMとして流していました。これが深夜2時という時間には最高に心地良く、その余韻で朝もポチってみたのですがあまりに渋すぎたので陽気な曲にチェンジ。

Nicola Conte – Do You Feel Like I Feel

それでは、お休みの人も働いている人も素敵な日曜日を。
僕は今から二時間、どっぷりと潜水します。

Recital,Golf,Study


娘たちのピアノ発表会。
午前は練習、午後はリハーサルと本番。たくさんの習い事を掛け持ちして大人顔負けに忙しい娘たちですが、頑張って練習していたのでしょうね、なんとか上手に弾いていました。発表会の度に成長を実感。他の生徒さん達の演奏も聞けて色んな意味で刺激になりました。どんなことでも日頃の積み重ねが最も大切だということですね。


パパはその時間の間を塗って勉強。新しく購入した本が金曜日に届いたので早速取り組んでいるのですが、買って正解。とても分かりやすく書いてある。専門分野を分かりやすく解説する人は素晴らしいと思います。当たり前のことだけれども、本質を根っこから理解していないと書けない。そして初心者がどこに疑問を持ち、どこで壁にぶつかるかを理解(あるいは経験)していないとポイントを浮き彫りに出来ませんよね。これ、ビジネスでも同じです。プレゼンの際、クライアントにサービスを説明する際、会議の場での発言・・・全てのシーンにおいて「今から話すこと、討議したい内容、ソリューション」を本質から理解しておかなければ説得力を生みません。付け焼刃の知識では、相手に伝わらないどころか「本当に分かってるの?」と疑心を生んでしまうこともあります。そうするためには徹底した調査の蓄積、積み重ねた経験値が必要ですね。書いてある内容と共に、書き手の日々の仕事も(想像で)学ぶ。良い勉強になっています。


久しぶりにうちっぱに行って来ました。相棒Sちゃんと共に150球程度。優先すべきことがあって意識的にランニングはお休み中なので、久しぶりに良い運動になりました。体を動かすと脳の血行も良くなるのか、こうして今まで集中できている。適度な運動、大切です。

さて、明日からまた新たな一週間。
11月に入ったばかりだと思っていたのに、もう中旬を迎えそうです。
一時も無駄にすることなく走り抜けましょう。

それでは、おやすみなさい。

【番外編】
寝れない人向けに。
これを聴きながらホットウイスキーでも飲めばイチコロ(のはず)。

[re:jazz] – Inner City Life feat. Jhelisa Anderson

The Mayonnaise Jar and The 2 Beers


ちょうど同じタイミングでまつひろさんのブログ、そして、Gori.meで良い話を見かけたので共有します。下記はGori.meから引用させていただきました。

—<以下、引用>—

毎日が一杯一杯で人生が辛いと感じた時、1日24時間が足りないと感じた時。そんな時は、「マヨネーズ瓶と2本のビール」の話を思い出してもらいたい。

ある哲学の授業で教授はいつくかの物を机の上に並べていた。クラスが始まると、教授は無言で大きなマヨネーズ瓶を手に取り、ゴルフボールを入れていった。生徒にマヨネーズ瓶が満杯かどうかを確認した。生徒たちは同意した。

次に、教授は同じマヨネーズ瓶の中に小石を入れていった。入れられた小石はゴルフボールの間の隙間を埋めていった。教授は再度、生徒たちにマヨネーズ瓶が満杯かどうかを確認した。生徒たちは同意した。

さらに、教授は瓶に砂を入れていった。言うまでもなく、砂は空いている隙間をほぼ完全に埋めた。教授は念のため生徒に満杯であるかを確認した。生徒たちは大きくうなずいた。

最後に、教授はビール2本を開け、瓶の中に注ぎ込んだ。残っていたわずかな隙間はビールによって完全に埋まった。生徒たちは笑った。

生徒たちの笑いが収まったあと、教授は言った。

「この瓶は君たちの人生を表現している。ゴルフボールは君たちにとって最も大事なものだ。例えば家族や子ども、健康や友達、君たちが最も情熱を感じていること。仮に君たちが大事なもの以外をすべて失ったとしても、君たちの人生は “一杯” なのだ。小石は君たちが次に考慮すべきこと。仕事とか、家とか、車とか。砂はそれ以外の小さなこと。」

教授は続けた。

「もし砂を先に瓶の中に入れてしまうと、ゴルフボールと小石を入れる場所がなくなる。人生も同じことだ。

小さなことに時間や労力を費やしてしまうと、本当に大切なことを手に入れることができない。

君たちが幸せであるために必要なものを意識しなさい。

子どもと一緒にいる時間を取りなさい。親と一緒にいる時間を取りなさい。祖父母に会いに行きなさい。奥さんをディナーに連れて行ってあげなさい。また18ホールプレイしてきなさい。家の掃除や芝生刈りをする時間はいつでもある。

まずはゴルフボール、つまり君たちにとって最も大事なものを優先しなさい。優先順位をつけなさい。他は単なる砂なのだから。」

すると、とある生徒が手を挙げてビールの意味について質問した。教授はニコッと笑い、こう答えた。

「質問してくれてありがとう。ビールはどれだけ人生が一杯一杯になったとしても、友達とビールを飲むぐらいの余裕はいつもあるということだよ。」

— —

Colorado State University のサイトには原文が掲載されていました。
こちらもよければどうぞ。

for the moment

雑記をダラダラと。


どこにでも、ご当地の名物人がいるもの。
今日mashableで見かけた記事。

10 People You’ll Only See in New York City

最後の一人が、Obviously(言うまでもなく)な、Woody Alenというところに噴きました。そりゃそうだ。NYC良い街ですね。


たまにはTVでも見ないと心が豊かにならないという話。
普段はTVをほとんど見ない生活。しかし今夜、たまたま見たドラマで良いシーンがありました。なくなった人形がどこに行ったのかを聞かれ、

「今ね、どこかに散歩に出掛けているんです。たまにいなくなるんですが、いつの間にか戻ってくるんですよ。だから気にせず待っているんです。」

と。いいセリフだな。
優しくなければ出てこない言葉。柔らかい。
たまには心が豊かになるものを取り入れないとな、と反省。あと、何も考えずにぼーっとする時間も。


Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever.
「永遠に生きるかのように学び、明日死ぬかのように生きなさい」

とは、ガンジーの有名な格言ですが、明日死ぬかのように必死に生きるあまり、刹那的な生き方になってしまう恐れがあるのもまた事実。最近、反省しています。先ほどの優しいセリフじゃないですが、秒速の時間の流れの中では、立ち止まって先のことをゆっくり考えたり、長い尺で物事を見ることが少なくなってしまう。高効率、スピード、即決。遊ぶ時は倒れるまで遊び、飲む時は意識を失うまで飲む。何事も白か黒かで、中間色が存在しないような、そんな毎日を送っている気がします。「立ち止まって」とか「自分らしく」とか、作り笑いで自己肯定を良しとするような風潮はかなり苦手(嫌いとは言わないが)ですが、やはり少しは「黙考」する時間がないと毎日全力疾走のような気がして大切なものを見失ってしまいそうになりますね。気をつけよう。


明日は今日よりも体調が回復していますように。

全てのPVが映画のワンシーン。
Stylish、Elegance過ぎて笑ってしまうくらいのNicola Conteを久しぶりに聴いています。

Nicola Conte – Kind of sunshine