Melting Pot

Melting pot

直訳して、坩堝。

例えば、NYは人種の坩堝という意味で、

「Melting pot」と呼ばれる。

小宇宙と呼ばれる、脳もある意味Melting potではないか。

夜一緒に飲んでいた彼と話していたことは、

生き物全てに愛情を注げるかどうか、

そして、言葉に温度を感じれるかどうか。

僕はきっと、Melting potなのだと思う。

正直にどうなんだろう。

渦巻いている脳を、自覚している自分も知っている。

全てに直球でいたい。

そして素直に。


 

 

正直に、

全ての言葉に愛情と温度を注げれば、

それがなんだか成功なような気がして。

酔うと、

原点回帰してしまうからよくない。

普段、無理しているんだろうか。

自問自答。

とりあえず、Melting potと真正面に向き合ってみよう。

満月の夜にかかる虹

イグアスの滝には、
数か月に一度、満月の夜に虹がかかる。
一か月近くその瞬間を待って、
その虹をとらえた写真家は、
光景を目の当たりにした時、
瀑布にかかる夜の虹に向かって無意識に歩き出しそうになるのを、
必死でこらえたという。

人の叡智を超えたものというのは、
時として思考を不可知論的真理に導くこともあるし、

また「分」を理解させることもある。

出会いというのは、

60億分のNという確率での奇跡に近く、

その中での継続性というものは、

母数に対する数%に過ぎないから、

僕はその「親友」という存在に対して、

叡智を超えた何かを感じ、そう認識した個に対しては、

全くもって弱い。

その内の一人は、

独身時代に苦楽を共にした仲で、

今はお互い結婚して子供もいるのだけれど、

昨夜、そいつの坊やに始めて会った。

一歳になりたての坊やは、

ママにべったりで、ママも坊やにべったりで、

もう過ぎされば二度と戻らない

その一つ一つの瞬間が、

短い間の対面だったけれど、

もう、全てが愛おしく、美しく。

大阪の空には満月の虹が見えないけれど、

全て、知ることは可能なのだと、

脳内のもう一つの自分は教えてくれた。

心にずしりと

NHKのプロフェッショナルを、

番組途中から見ることができました。

ゲストの小池先生の言葉が、

ずしりと響きます。

「一歩一歩未来をつくっていく。未来をただ予測するの

ではなくて、未来をつくっていける人がプロフェッショナルだと

思います。」

14年の研究の末、

原点に返ったことがブレイクスルーに繋がり、

世紀の技術開発を成し遂げる。

分野も規模も全然違うけど、

うちの開発プロジェクトも、

前例がないことを行おうとしている。

自ら調べ、検証し、チャンピオンデータを取って、

形にしていく作業。

どんな仕事でも、必ずボトルネックがあって、

それは企画でも開発でもデザインでも同じだと思いますが、

あきらめて、ブラックボックスに蓋をするのか、

それとも、殻を打ち破るかのごとくチャレンジしていくのか。

ブレイクスルーは、

動かなければ生まれない。

身にしみて感じます。

動けば、未来があり、未来を作っていけるかどうかは、

自分次第なんですね。

Earth

今週はとても忙しかったため、

疲れたからだを休めるために、

寄り道しないで帰宅。

WBSをボーっと見ていても、

財政金融担当の某大臣の、

「それは慎重に議論して・・・」ばかりの発言に呆れてしまい、

はたまた「第三次オイルショック」だの、

物価高だの、資源高の影響で10年前には破綻しかけた

ロシアルーブルが今は強くなっているだの、

なんだかパッとしないニュースばかり。

どうもスッキリしないので、視点を変えようと、

本日自宅に届いたばかりの「Earth」を見ることにしました。

こちら↓

アース プレミアム・エディション(2枚組)

 

 

アマゾンのポイントも溜まっていたので、

事前予約していたんですよね。

映像の美しさと、

「一体どうやって撮影したんだろう・・・」という驚きの数々。

ただ、環境破壊や温暖化など、

地球規模に目線をうつしてみても、

考えさせられることばかり・・・。

それでも、

精一杯生きている動物を見ていると励まされます。

命は尊い。

うちのティッちゃんも、

見事なダンスを疲労するニューギニアのゴクラクチョウに、

興味津々です。


 

この週末は天気が崩れるようですね。

折角の週末なのに。

では皆様、よい週末を。

思考様々

ミャンマーで大きなサイクロンがあり、

チリでは大きな噴火があり、

四川省で大きな地震があり・・・

地球が荒ぶっているような、

そんな天災の数々。

ここ数年で、

環境の大きな変化を感じずには入れません。

原因がどこにあるのか、温暖化なのか、

それとも気候変動の前触れなのか、

僕は専門家ではないので分かりませんが、

何だか大きな変化の時代に生きている気がします。

存在の小ささと共に、

人が地球環境すら変化させるだけの大きな力を

持っているという事実に、軽い眩暈を覚えます。

 

 

自社のCSR「Corporate Social Responsibility」について

一年程度をかけて、徐々に制度化しようとしています。

 

ステークホルダーへの貢献はもちろんのこと、

健全な利益追求と共に、その一貫としての、

環境保全への取組にやはり一番関心があります。

「環境保護活動」というのは、

地球に生かされている側の人間による、

勝手なエゴのような気がして実はあまり好きではないのですが、

破壊したものは、地球人としてしっかり治す、という意味で、

受けたものを返して行く、壊した物は弁償するというのが、

人間の責任ではないか、とも思います。

ただ、破壊と消費を繰り返すのは、人間の得意とするところ。

だから我慢と謙遜さを覚えなくてはならないのでしょう。

うちの会社も、遅ればせながら今週から、

本格的に省エネに取組始めました。

エアコンは28度設定、

昼休みと定時以降は、半分の電気は消灯です。

社員個々の意識の徹底を呼びかけていますが、

皆意識が高いので嬉しいです。

多少の「我慢」は必要ですが、

これで丁度良いのでしょう。

マントル的支離滅裂考

割と、統計学というのはすごいことだと思ったり。

確率と統計は、

嘘をつかないのかもしれない。

そう考えると、逆にロマンがなくなったりするのだけど、

根性論+精神論と、統計学は真っ向から

立ち向かわなければならない。

確率を求めるか、一発逆転HRを信じるか。

この辺りになってくると、もはや、

「美学」の世界。

 

 

 

大好きな友人との飲みが延期になったのだけど、

それはまた別の日に「歩く」として、

戦友との飲みに Shift_the_future.


 

 

悩みを共にすれば絆は強まると、

以前に坊やの母親Yは言っていたけど、

いつの時代もそれはある意味、真理(Truth)なのだと。

そういえば、祖母の兄、

僕から見れば大叔父になるのかな、

酔ってて分からないけど、

太平洋戦争を共に戦った戦友とは、

85歳になっても年に一度は集まって飲みに行くと言う。

この平和な時代にあって戦争はないかもしれないけれど、

ビジネスシーンにおいては、

毎日が「戦い」。

そこで苦楽を共にしている仲間は、

ある種「戦友」(war comrade)なのだと。

心の中で、

肩を叩き、涙し、たまに穴を掘って隠れよう。

表面上はあくまでクールにね。

大事なのは、

90%の努力と、9%のひらめきと、

1%の「知らんがな、ボケ」の精神。

 

 

はー、

酔ったー。な木曜日。

お疲れサマでした。

自分は飛んでいけばよいのに

「破壊と慈悲の混沌」

という、

知る人ぞ知るであろう言葉があって、

その言葉が、すごく人間くさくて僕は好きなのだけれど。

今の状態。

破壊願望や慈悲の心はそこにはなく、

ただただ、インディビジュアルな観点においてのみ、

粘着力のある何かがたっぷりと満たされている

底の見えないカオスに首を突っ込んで、

さらに底を見ようとしている状態。

良く言えば「maddle through」、

悪く言えば「meaningless」。

続けて行けば、答えは見えるんだろうか、

針の穴のような光が見えてくるのだろうか。

【日本人は社会的に賢くなりすぎた】と、

茂木先生はおっしゃっているけれど、

それは社会の最小単位である一個人としてもきっとそうで、

でも決して、それは良い意味ではない気がする。

しがらみや、社会的立場や、こうなければならないという自分像や、

相対的な評価とか、プライドとか、KYとか、

そんなどうでも良いことが、まるでシルクのように柔らかいんだけれど、

鋼のように固い足枷のようになって、

身動きが取れないという状態。

という訳で、

最近いろんなことが混沌になっていて、

歩かないと、との強迫観念にまた押し潰されそうな、

深夜のPC前。

こうなったら、

自分が持てる唯一の武器である、

「バカ」をフルスロットルにするしかないかもしれない。

精神的マイノリティは精神的マイノリティらしく、覚悟を決めて。

ジャンキーからも足を洗おう。

健康診断、お決まりの再検査だし。

「マイペースで」、とか、「自分に素直に」

とか、人には気楽に言うくせに、

その言葉が、実は苦手。

素直になれたなら、どんだけ楽か。

マイペースで歩けたら、どんだけ楽か。

それができないから、苦しいのであって。

とりあえず、現実を現実として受け入れ、

その上で真っ裸になれる日を目指して、

まだ歩けそうだから、歩くことにすることに決めました。

ま、全部計算です。

 

 

 

 

 

 

 

明日から、GW恒例のデドックスな旅に出ます。

携帯からいつものように、

マイナスイオンたっぷりの写メを投稿しますので、

お時間あれば、この絡みにくいブログに足を運んで下さい。

落として来た点達は

いつもお世話になっている、

ある意味「親父」である某社会長様に御誘い頂き、

芦屋ゆるり へお連れ頂きました。

 

 

 

今だからこそ、成功者であられますが、

山あり谷ありの人生を歩んで来られた方。

その言葉の一つ一つには、

測ることのできない重みがあります。

心底から染み出る冷たい湧水のような、

それでいて冷えた体を優しく包んでくれる

温かい毛布のような言葉の数々。

大草原のようで、大海原のような、広くて深い心。

弱くて脆くて、人間臭い自分と、

真っ正直に対峙して、その壁をなんとか壊していって。

 

いつもお世話になっている方ですが、

このようにゆっくりとお話出来たのは初めてでしたので、

本当に貴重な経験となりました。

 

滔々と流れる時間に身を任せ、

二時間半があっという間に過ぎ去って行きました。

 

春ですね。

わらびや筍の天ぷら、

鯛かま塩焼き、御刺身も絶品でした。

 

 

御大をお見送りし、

席を共にしていた「兄弟」的存在のN社長と、

男二人で夜風に吹かれながら、

jojo まで徒歩で移動。


 

 

先程の余韻に浸りながら、

話の数々を咀嚼し、反芻します。

 

この場でのテーマは、「孤独」について。

彼曰く、

落として来た点、「今」という線に繋がらなかった「点」の数だけ、

孤独を感じるそうです。

なるほど。

あまり気が進まないのだけれど、

自分も振り返れば落してきた点、繋がらなかった点の多いこと。

でも今の自分があるのも、

繋がらなかった点があるから、なのですね。

ナウシカのように、

「私たちの生命は私たちのものだ。生命は生命の力で生きている。

その朝がくるなら私たちはその朝に向かって生きよう

私たちは血を吐きつつ、くり返しくり返しその朝をこえてとぶ鳥だ!!

こんな力強い言葉は出ませんが、

今、「生きている」ということが素晴らしいことなんだ、

と再認識。

「孤独と点の関係」について、

某友人に話すと、

「わたし、繋がらなかった点のことは考えないんです。

繋がらなかったのは事実なんだから、

それは見ないようにしています。孤独も感じないし」

とのこと。

ま、彼女は鉄板のように強い子なのでね。

 

人それぞれ、いろんな考え方があるものですが、

Positive Thinkingで生きたいものです。

 

 

 

今日は休日ですが、オフィスで仕事。

K-MASAと二人だけのオフィスで、

T-Shirtにヘッドホンで頑張っています。

El Camino de Santiago

その女性の首には、

マリア像が彫られた小さなペンダントと、

ホタテ貝を中心に据えたクロスが

慎ましやかに光っていた。

  

屈託のない笑顔の奥には、

芯の強さと共に、何かがうっすらと影を落としているのが分かる。

きっと、誰も気づかないくらい小さな影だけれど。

 
 

 

「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」

El Camino de Santiago)は、

フランスからスペインにまたがる、800~900kmの長い道のり。

  

1日平均30km歩くとすれば約1か月かかる。

 

1000年という悠久の時の流れの中で、

この道を、数えきれない程多くの人が、

それぞれの「荷」を負って、歩いてきた。

 

 
その女性は5年前、

母の臨終に立ち会うことが出来なかったと言う。

大学を一年休学し、海外で働いていたため、

間に合わなかったのかもしれない。

 

深い後悔の気持ちを十字架として背負い、

彼女は自分を見つめ直す旅に出た。

 

バックパックを背負い、

今なら自転車やバイクや電車などを利用する

観光目的な巡礼者が多いこの道のりを、

忠実に、徒歩だけで、一人で一ヶ月歩き通した。

 

あれから時が経過し、

就職して立派な社会人になった今、

彼女の原点はやはりサンティアゴ・デ・コンポステーラにある

という。

 

何かあれば、

必ずそこに戻ってこれるように、

旅の続きを示す印を残してきたのかもしれない。

現実的なものか、精神的なものかは分からないけれど。

  

 

 

表面的に分かる、分からないは別にして、 
人は皆それぞれ何かの「荷」を負って生きている。

そしてそれを乗り越えようと、

一人静かに努力している人は美しい。

  

道(Camino)は、人生であり、

人生は、道(Camino)。

 

彼女にとってcaminoを進むお守りが、

巡礼中出会った老婆に貰ったペンダントと、

ホタテ貝をあしらったクロスであるように、

人は、何かに守られて生きている。

 

その「何か」を探し続けることが、

きっと神様から与えられた大きな宿題。
 

 

  

 

ゆっくりでも、早くても、

歩けるうちは、歩き続けていこう。

心の声

本音でぶつかり合える友人というのは、

そう何人もいるものではなく

きっとそれは「感覚」や「嗅覚」で嗅ぎ分ける類の

ものだとも思うのだけれど、

僕には幸いそういう「友人」には恵まれている方だと思う。

そんな中の一人の漢人(おとこ)は、

僕にとってかけがえのないビジネスパートナーであり、

本音で語り合える仲間、戦友である。

異業種で、所属も違う彼とは、

縁あって今現在一緒に仕事をさせてもらっているが、

それ以上に「嗅覚で何かを感じる」関係なのだ。

そんな彼と、

久しぶりに茶屋町の樅にて。


 

旬の筍と、ヤリイカの南蛮漬が、

焼酎と抜群に合う。

今日も楽しい一日を過ごせた。

そしてそれはまた明日への活力に。

若い頃は、悩みながら泥臭いことをしなければ、

懐の厚い、心の広い漢人になれないことを

再認識。

悩み、ぶつかるからこそ、

そこに成長がある。

がんばります。