先日、友人とご飯を食べていた時に、変化し続けてるよねと言われたのですが、自分でも確かにそう思います。
一言で表すなら、強さを良しとする考え方から「弱さを素直に認め、弱いまま生きることにした」というのが一番の大きな変化かもしれません。
そもそも人間ってそんなに強い生き物ではないと思うんですよね。
でも、僕が生きてきた世界では強さが求められました。競争社会だし、競争を生き抜くためには強くあることが前提にあるし、自分と他者を圧倒するために日々研鑽しなければならない。「どうにもならなかった」が通用せず「どうにかする」が求められる。でも生きるとはそういうことで、それが当たり前だと思ってがんばってきたし、周りにも「がんばれば、報われるよ」と、強さを求めてきました。もちろん「こうなりたい」や「こんな社会にしたい」を実現するためでもあります。
でもね、年齢を重ねるとそうも行かなくなるんですよね。知力と体力の両方が衰えてくる。
そうなると「がんばれば、報われる」の前提となる「がんばる」が物理的に出来なくなり、ロジックが崩れてしまうんですよね。どうしよう、がんばれない。がんばれないと報われない、やばい!となって不安になる。それがミッドライフ・クライシスの正体なんじゃないかな。
かなりしつこく骨身に染み付いている「強くなければならない」と「生き延びるためにはこれくらい稼がないといけない」という幻想から抜け出すために、僕の場合は四年掛かりました。
「生きる」と「生き延びる」という対比があるとして、生き延びることを主軸においていると、したくないことをしたり、向いていないことをしなければならなくなり、疲れ、悩むこともある。でも「生きる」を主軸にしていると、どう生きるか、どう在るか、を純粋に追求できる。「生き延びる」を考えると不安になるけど、「生きる」を考えると不思議と楽観的になるものです。
生き延びるために働くのはもうやめにして、生き方を素直に追求すると、弱さを含めた自分を肯定できるし、無理な要求を課すことなく、自らを手放すことができる。こだわらない、固執しない、執着しない、誰かに何かを求めない。そんな生き方ができるので、めちゃくちゃ楽になりました。そして自分のリソースを最適な方法で使うことができるようになりました。衆生済度という言葉がありますが、世のため人のためなら強くなれる自分にも気付きました。とにかく他者に優しくありたいんです。
人からは「変化した」と思われるかもしれないけれど、本来の自分が炙り出されてきたといえるのかもしれません。
そして、手放しのために取り組んでいることがあります。それが坐禅。
先月、福井県の永平寺で坐禅を教えていただいたのですが、それを習慣化しようと思って、寝る前に20分〜30分の坐禅を行っています。毎日坐禅を始めて今で二週間。習慣というには一年は続けないと、と思っていますが、坐禅をすると眠りが深くなるし、頭もすっきりするし、身体の調子もいいのです。最初は10分でも長く感じましたが、今では30分が短く感じます。
坐禅中に「無」になる必要がないことも、なんとなく分かり始めました。
弱さを認めるということと、坐禅中に行っている自己(内奥)との対話と、空(くう)の中に存在する色(しき)としての自分の両側面を眺めることが長尺思考に繋がるということも感じはじめたので、またいつか、そのことについて書いてみたいと思います。
