その街の幸せを、その街の住人が決めていく

窓を開けてコーヒーを淹れていると、外から金木犀の香りが漂ってきます。夜、少し肌寒くなるこの頃が一年で一番好きな季節です。

昨夜は久しぶりに六甲道をスタートしてHAT神戸を周って帰る神戸ランを楽しみました。走った後はもちろん、銭湯で汗を流し、ラン友さんたちとトリキで金麦メガを流し込む極楽コースです。

神戸は海も山も美しい街です。海沿いのランナーのメッカ、HAT神戸の夜景はまた格別です。

海辺の夜景が美しいHAT神戸

神戸は人口減少や衰退やらなんだかんだ言われていますが、僕としてはこの手頃でコンパクトな街のサイズが大好きです。夜、三宮に飲みに行っても閑散としていますけど、健全といえば健全だし、ライフスタイルが大きく変化して、そういう時代に突入したんだろうなと思っています。

最近特に思うのは、規模や順位になんの意味があるのだろうかということです。

サイズや数を気にするということは、それを良し(あるいは正義)としているからですが、脱成長時代においてはむしろ質を気にするべきです。株価や売上や人口はもちろん大切ですし、観客動員数も、利益率も、人口増加率も、経済成長率も、高ければ高い方が良いと、子供の頃からずっと教わってきました。でも、それを追いかけるのはほぼ不可能です。新しいビルが建てば、どこかのビルが空く。梅田が再開発されると本町が閑散とする。どこかの街の人口が増えると、どこかの街の人口が減る。総数が増えず縮小しているのだから、限られたパイを奪い合っているだけです。

そこで質の話になるのですが、大きければ良しというのではなく、個人としての幸福度をどう上げて行くかが問われているように思います。割とドラスティックに考え方を変えることと、本質を見極める力を養わなければなりません。生きるとは、働くとは、国家とは、文化とは、歴史とは。ただ働いて金を稼げば良いというのではなく、一見ビジネスとは無関係の要素と向き合い、自分の幸せを自分で決定していくことが求められるし、街も同じだと思っています。

その街の幸せを、その街の住人が決めていく。
「よそのことは知らない。ぼくらはこれが幸せなんだよ」

そんなことをさらりといえる大人になりたいものです。