余白、間(ま)に美を感じる感性

このGW中、大洲、松山、奈良と、あちこち移動しながら仕事をし、人に会い、美味しいものを食べ、心身共にリフレッシュしてきました。

それぞれの地域ごとに特産物があり、それらを楽しむのはとても満たされるものです。大洲では南予の鯛めしをいただき、松山では甘とろ豚のヒレカツとじゃこ天、夜は居酒屋で地元の野菜などを使ったお料理、奈良ではとろろそば、芦屋では高級江戸前鮨をご馳走になり、という具合です。

自宅を職場にしているので普段は出歩くことも少なく、せいぜい近所のスーパーやドラッグストアくらいにしか行きませんが、その反動もあるのと、また元々出張族で国内海外を飛び回っていたということもあり、出張以外にも月に何度かは思い立ったところに出掛けるようにしていきたいと思っています。そう、短めのワーケーションです。

旅先の文化や歴史を知るのは面白いものですが、意外と盲点なのは、地元の歴史。狭い地域での移動ですが、芦屋から苦楽園に引っ越してきて、メインで利用する電車がJRから阪急に変わったこともあり、自分が生まれ育ったこの地の歴史に改めて興味が湧いてきました。

阪急、JR、阪神が東西に走るこの地域には「阪神間モダニズム」という文化的特徴があります。山と海に挟まれた東西に長いこの地域には、明治から大阪船場の豪商が居を構え、作家などの多くの文化人が育った町でもあります。彼らの作品には芦屋川や夙川や阪急電車などが登場するのですが、その中でも代表的なのは、谷崎潤一郎の「細雪」でしょう。

最近、この細雪を再読しています。そしてそれだけに飽き足らず、細雪が書かれた時代の背景、阪神間という都市としての特徴との関連などを書いたものにも範囲を広げているのですが、スピードと結果を重視し、白黒はっきりさせるという昨今の風潮に自分が嫌気が指している理由が分かったのです。

それは白と黒の「間」にこそ美しさを見出すこの地域の「どちらでもない」文化に自分が生まれて育っているからなのかもしれない。商業都市大阪とモダン都市神戸の「間」の地域、どちらにも属さないという独立心、海と山の「間」の地域、地元の人もいれば、谷崎のように関東や地方から移住してきた人も多いという出身地がミックスされた地域、そして、和洋華折衷の建築。

それは、「中間を好む」という意味ではなく、間(ま)の中にこそ、美しさを感じるという感性。陽も陰もその間のグレーな空間も、余白にすら何かを感じる。キラキラした陽ばかりの価値観は日本人には向かない。自分自身、ビジネス一辺倒で、常に陽を志向していた時期もありましたが、いつしか健康上の問題を抱えるようになり、遅ればせながら、何もない余白や陰の存在意義と美しさにも目を向けるようになってきました。

地方に行くと、その土地が持つ陰の歴史が否応なく目に入ります。

古くは干ばつで雨乞いをした場所、過去に河川の氾濫があった地域、地震や大規模な水害が発生したなど。いつの時代も自然の中で人は生き死にを繰り返してきた歴史があり、今続いているのは、その中で生き残った人たちがいたからなんですよね。陰があるから陽もある。その逆もしかり。

人間ってたくましいなあ。