夜中のラーメンと桜のつぼみ


昨夜の歓送迎会が大変盛り上がり、4軒目である天下一品のラーメンで〆て北新地からタクシーに乗ったのがAM3時を過ぎていました。「飲んだ後のラーメン」は至極一般的な行為ではありますが、僕は酒を飲むと食欲がなくなる上に夜中にラーメンを食べるなんて胃に重た過ぎるのであまりやらないのですが、昨夜のは美味かった。初めて「飲み後のラーメン」が旨く感じたかもしれません。皆と一緒だったし、天一だったからかな?
なにはともあれ、春ですね、歓送迎会のシーズンです。

春と言えば、桜。
出掛ける前に自宅からすぐの芦屋川を散歩。

まだまだつぼみが膨らみ始めたくらい。

しかし何故か一本だけ花を咲かせている木がありました。

木によって差があるのは何故でしょうね。
早ければ今週末にでも咲きそうな予感です。
例年より早めでしょうか。


芦屋で一仕事、友人のサロンに寄ってから、梅田。
今日は雨ですので、傘をささなくても良いように駅から近い場所でコーヒーを飲んでいます。休日ごとに「書斎」を変える生活も慣れてきました。オープンな場所での集中の方法も。

それでは、皆様も良い休日を。

子供たちを通して考える3.11


打ち合わせ終わりで駅に向かっていると、小学生の女の子二人が後ろから追い抜いて行った。

一人は自転車、一人は走って。

ああ、走ってる子は何かの事情で自転車がないんだな・・・でも、いじらしくて偉いな、と見ていると、その子が曲がり角の縁石につまづいて派手にこけてしまった。両膝を擦りむいて痛そうにうずくまっている。自転車の子はそれを心配そうに見ている。思わず立ち止り、所持していたバントエイド三枚を「大丈夫?これ使いなー」と渡したが、あとから考えると、イマドキの子は知らないおじさんから声掛けられたら無視しなさい、などと教えられてるのかな、と複雑な気持ちになってしまった。そして、なぜかそう考えた自分に違和感を持ってしまった。なぜだろう、当たり前のことを普通にしただけなのに。

彼女達も二人だから安心したのだろう、恥ずかしそうに黙って受け取ってくれたが、これが一人だったらどうだっただろう。僕は声を掛けただろうか。そして、彼女はバンドエイドを受け取ったのだろうか。普通の世の中で、普通の感覚を持っている人間なら反射的にそうするはずだ。手持ちのバンドエイドがなかったとしても、声くらいは掛けるはず。うん、大丈夫。僕は「二人の娘を持つ父親」じゃなかったとしても、きっとそうしたはずだ。

我が娘たちのことも重ねて考えてみると、こういう場合には警戒すべきは警戒しつつ、それでいて人の親切や温もりはしっかり感じて心は貧しくならないでほしいと願う。自分もそうだったし、娘たちもそうだけれど、子どもにとっては怪我した時のバントエイドは魔法の薬になることを知っている大人がたくさんいるのだ。でも一方で、「どこからどこまでが親切で、どこからがそうでないのか」、それを子供に判断させるのは本当に難しいと思う。どうしてこんな単純ではなく、複雑な世の中になってしまったのだろう。

思い返せば自分も子供の頃は近所の人たちに色々と助けてもらった。小学校一年生の時、下校途中にShit my pantsしてしまい、ポロポロ泣きながら立ちすくんでいると道を掃除していたおばさんが「どないしたん、大丈夫!?」と声を掛けてくれ、自分の家に連れて行き風呂場で洗ってその家のお兄ちゃんのパンツを貸してくれて家に送り届けてくれた。今から考えるとなんて親切な人だったんだろうと思う。会えばお茶や煎餅をくれたおばちゃんもいたし、怖い爺ちゃんもいた。


人と人との繋がりが希薄になっている世の中だからこそ、地域コミュニティの大切さを実感する。子供たちは地域で育てるということに同意するし共感する。そりゃ、確かに変な人はたくさんいるし、痛ましい事件もたくさん起きているのも事実。決して許されることではないし、何かあってからでは遅いので、僕も娘たちには注意するよう良く言って聞かせている。親として子供は何があっても守らなければならないし、子供たちにとっても自分の身は自分で守らなければならないのは明白な事実。

でもね、例えば、阪神大震災の時ってどうだったか。知らない人でも皆が声を掛けあって無事を確かめ合い、励まし合った。東日本大地震の時もそうだったはず。特にこのエピソードは何度も読んだ(大槌未来新聞「流された人が笑顔で手を振っていた「ニコーっと笑って、お前もか、って」)。

ややこしい世の中になってしまったと嘆き、人に手を差し伸べないで無関心を装うこともできるけれど、やはり、僕は正しいことは正しいこととして躊躇せずに行なっていこうと思う。大きなことは出来ないけれど、そういう気持ち、取り組みの一つ一つが良い社会、強い社会を作って行くことに繋がっていくと思う。

そんな事を考えた、3.11。

図書館に行ってみよう


汗ばむほどの陽気だった今朝、少し薄着で家を出て、図書館に本を返却しに行きました。市立図書館ではなく、近くにある分室に。ここは地域の集会所にもあって公民館的な役割を果たしている場所です。朝から近所の人達が新聞を読んだり本を読んだりしていて、賑わっていました。なんだか、とても和やかな雰囲気です。

インターネットで情報を検索できるようになったお陰で図書館で本を借りるということがとても少なくなったと思います。電子書籍などPDF化されているものもあるし、論文やレポートなども一部サイトで掲載されている。有料サイトに登録すれば、大抵の論文にアクセスすることができるサービスもあります。実際、僕も図書館に行くのは・・・受験生の頃、自習室で勉強していた時期以来でしょうから、およそ20年ぶりくらいでしょうか。しかし最近、どうしても調べ物をしなければならなくなり、それらが新書のようにすぐにamazonでポチッと変えるようなものではなくネット上にも転がっていないような成書や辞書系であったりするものですから、図書館の蔵書をネットで検索しては本を閲覧、または借りに行くようになっています。

今も昔も変わらないのは、週末の図書館は本当に賑わっているということ。一番多いのは中高生かな。次に、60代以上の男性、親子、子供たちという順でしょうか。特に自習室やデスクは朝から並ぶくらいの勢いで来ている学生、大人を中心に満席です。みんな勉強熱心で、見ているこちらも嬉しくなってしまいます。意外に少ないのが、大学生や20代〜40歳くらいまでの社会人かな。まあ、大学生になれば大学の図書館があるし、20代〜40代くらいの人は調べものではなく仕事がメインなので、カフェでPCを使ったり本を読んでいる人の方が多い気がします。確かに、社会に出て普通に働き始めると、図書館からは足が遠のいてしまうのが普通かもしれません。皆さん、最近図書館に行かれましたか?昔は良く行ったけど、と過去のことになってしまっているのではないでしょうか。ええ、僕も同じです。でもね、是非、図書館行ってみてください。これだけの本を無料でいくらでも読めて借りれるなんて、すごいサービスだと思いますよ。知らないと損。それに、ちゃんと利用している人がいて、「地域のコミュニティ」が機能しているのを実感することもできます。


最近図書館を利用するようになって、震災などの天変地異で人や町がなくなるといったことがない限り、「街」は自分が子供の頃と大きくは変わっていないものだと思いました。図書館や自習室だけでなく、子供の頃、良く登った山には相変わらず茶店があって人がたくさん登っていて、美術館や博物館もそう。でも逆に考えると、そういった人、町、コニュニティを一瞬で破壊し奪ってしまう自然災害は本当に恐ろしいものです。折しも今日は3/11、東日本大震災から丸2年。地球に住んでいる限り自然災害から逃れることは出来ない。でも、生きて行かなければならない。そして人間は一人で生きていくことはできない。あらためて復興のこと、地域コミュニティの大切さを考えてみたいと思います。


さて、また明日からまた冷え込み始めましたね。
朝は汗ばむ陽気でしたが、風雨を境に一気に真冬。薄着で外出して失敗しました。あちこち回って帰りが夜になってしまい、電車の中で震えていましたもんね。寒暖の差が激しくなっていますが、体調管理をしっかりしてまた新たな一週間をがんばりましょう。

それでは。

読書は畑を耕すのに似ている


本を読むことをは畑を耕すのに似ています。
特に専門書や学術書の最初の1ページは、あたかも広大な荒野を耕し始めるような感覚。最初の一鍬をいれるのに力がいります。そして、これから始まるであろう開墾作業に対して、期待、不安、楽しみが入り混じった不思議な感覚を持って、1ページづつめくっていくのです。

畑を耕すかの如く最初は力が必要です。通読の一回目は固い地面をほぐす作業。二回目、三回目と、どんどん地面はほぐれて柔らかくなって行き、畝を作ったりして、自分なりの畑に仕上げることができるんだろうと思います。


昨夜から新しい専門書に手を出し始めました。

これがまた全然違う分野の本なもんだから、まさに荒野を耕す感覚。でも楽しい。脳みその使っていない固くなった部分も同時に柔らかくしているような感覚。いつも柔らかい頭でスタンバイしていて、どんなものが来てもスッと入るように準備ができていればいいんだろうけど、そうもいかないのが現実。ちょっと無理をしてでも、柔らかく耕して行きたいと思います。

疲れてボーっと呆けてしまうことがないように。


(先日のSCにて)

脳で体をコントロール


頭の回転が良い人や、ある分野にとても造詣が深い人と一緒に話をしていると、こちらまで脳が刺激されて急に仕事や勉強が捗ったり、興奮して眠れなくなるといったことがありますよね。僕の場合もリアルな場はもちろん、TEDやUstreamの講義や討論等を見ている時に刺激され、その後の仕事が倍速で捗るということが良くあります。

今日聞いた話によると(間違って解釈しているかもしれませんが)、話す相手の脳に自分の脳がシンクロする、引っ張られるようなこともあるらしいです。ある有名な速読の先生は、最初の段階はメソッドに基づいて教えていくそうですが、あるレベルに到達すると、レッスンではなく「一緒に食事をしに行きましょう、一緒に買物に行きましょう」と自分と行動を共にするよう求めるそうなんですね。特にレッスンをしたり、本を読んだりしている訳でもないのに、そのように会話をし、行動しているだけで生徒は自分自身の脳が活性化されていくのを実感するそうです。ちなみにその先生は一日2時間しか寝ないのですが、体のどこも悪くないらしい。どうやら、身体すら脳でコントロールできるとのこと。ここまで来ると僕の理解をはるかに超えているので何やらスピリチュアルなイメージすら持ってしまうのですが、もし一日2時間睡眠で残りの22時間全開フルスロットルでいれるのであれば、一日が二日分あるのと同じことなのでうらやましいことです。

いずれにしても、脳が停滞しているように感じたり、曇を取り除きたい時に有効な「活性化させる術」を知っていることは重要なことですね。僕のカンフル剤は、TEDや好きな先生方の講義やブログですが、そういった「何か」を見つけると便利ですよ。


今日はビッグサプライズもあってとても嬉しい一日でした。
さて明日から週の後半+月末に差し掛かります。
本当に一ヶ月早いな・・・

それでは、また明日。

ナレッジジャンキー


真夜中に興味ある分野の文献を漁っていると、なかなか眠れなくなります。どうしても今日はここまでやろうとゴールセットしてしまうので、途中で眠気が襲って来ても風呂に入って気分転換をしたりコーヒーを飲んだりして(夜中のコーヒーは意外と胃もたれする)無理やり目を覚ましたり、自然の摂理に反することをしてしまうのです。
色々と分析してみると、これは一種の中毒ではないかと思うようになりました。頭の悪さをインプットで補おうとする「ナレッジジャンキー」(tmk造語)なのではないかと。知的欲求を刺激されるとアドレナリンが出る。これはまさにジャンキーではないのか。そうすると全てに説明がつくような気がしてきました。えっと、どうでもよい与太話はここまで。


大量生産、大量消費社会において、デバイスは一年たったら捨てられ、新しいものに買い換えられる。でも理念は何年も生き続ける。プロダクトやサービスは「理念駆動型」であるべき。それこそがサステイナブル。(MIT石井先生)
昨日のエントリーの続きになりますが、「理念」をすべてのプロダクトの浸透させているのがまさにAppleだと思うんですね。「Apple」と聞くと、ロゴ、CMの雰囲気、シルバーの筐体、UI全てに統一されるコンセプトカラーとユーザーエクスペリエンスが脳裏に浮かんでくる。これ、実はすごいことじゃないでしょうか。まず、イメージをグローバルに浸透させるためにはどれだけ時間がかかるか。パッと聞いてロゴが思い浮かぶだけではなく、体感までも思い出させる。コンセプトと「理念」を思い浮かべることができる。感動、エクスペリエンス、カルチャーに染み渡る理念。

今後もデバイスは形を変えて行くでしょうけれど、理念は100年続く。これ、まさに真実だと思います。自分自身も仕事をする上で目先のことだけでなくどれだけ「理念」を意識することができているか。考えさせられました。

さて、今夜は新地で会食です。
皆様も良い花金を。

ライフストーリーが好きだ


人のライフストーリーを聞いたり読んだりするのが好きです。どのような生い立ちで、どのような学びをし、仕事を始めてから今に至るまでどんな道のりだったのか。どんな出会いがあり、何がターニングポイントになったのか。

今日の日経ビジネスでこういう記事がありました。
「社員14人のベンチャーから始まった彼のキャリア」

Google徳生氏の取材記事です。
CMや昨年のエイプリルフールネタ、Google Mapのドラクエ版PRCMにもプレゼンテーターとして出ておられた方なので、僕も顔は知っています。で、この記事。とても面白い。彼がスタンフォードの大学院を出て、ベイエリアで就活を始めたところから話はスタートします。有名ソフトウエア企業の内定を断り、なぜ小さなベンチャーを選んだのか。ビザにかかる費用を自分で負担してまで、なぜここで働こうと思ったのか。新卒生の時期から仕事に対する明確な目標があり、敷かれたレールの上を歩むのではなく、まさに自分の人生は自分で切り拓くという言葉を体現して困難すら楽しんでおられるような気がして読んでいるだけでワクワクします。またGoogleの社内やラリー・ペイジが日々どのように考えているのか「中の人」ならではの言葉もあり、彼らの企業文化を垣間見ることもできますね。

たまたまこういう方達はメディアに出ておられるので目に付く機会が多いのでしょうが、人の数だけライフストーリーがあり、どれもある意味で「面白く」波瀾万丈なのでしょう。そしてそれらを見て、刺激されインスパイアされる人も大勢いる。人に影響を与える人の多くは、本人は全く自覚しておられないのだけど、一つ芯が通っていて、失敗を全く恐れず、いい意味で「今を捨てる」ことができる人、何かに夢中になり続けているという点で共通していると思います。リスクを勘案しない生き方。うん、読んでて元気が出る!


昨日はスタッフを含めて串かつに連れて行っていただきました。
大阪で飲むのは久しぶりのような・・・

インフルエンザが猛威をふるい出したようです。
マスクで完全防備しながら今日もがんばりましょう。

場違いな居心地の悪さを感じた時、人はどう行動するか


娘たちのリクエストに応えて向かった神戸の王子動物園。
冬場だからきっと空いているだろうな、と思いきや大混雑。駐車場の車列は神戸文学館まで伸びています。先に家族に降りてもらい、僕だけ後で追いかけることにしました。

休日の動物園はファミリーでいっぱい。三世代で来ておられるファミリーも多い。割合で言うとファミリー(ファミリー同士も含む)9割、ノンファミリー、アベック等が1割くらい。

家族との合流を目指し彷徨い歩きますが、なかなか見つけることができません。ここまで来たら手っ取り早く携帯で連絡っていうのも面白くないので、運に身を任せることにしました。ゲームとしてはなかなか面白いのですが、先に述べたように動物園はファミリー(6回目)のパラダイス。大男が一人でウロウロしていたら逆に目立つ訳です。周囲の白い目に晒されながら、逞しく堂々と動物好きのおっさんを演じる僕。なんなら動物研究家ですけど何か?というくらいのトランスぶり。皆が集まるパンダ館とかではなく、あえて地味な「ニホンジカ」の檻の前で何かを確認するように仁王立ちしたりして「違い」を見せつける訳です。しかし、意外と大人達って動物に興味を持っていないものですね。動物たち見てるよりも子供たちの世話に必死か、人間ウォッチングを行なっているかのどちらか。だって、すれ違う人、すれ違う人、めちゃくちゃ目が合うんですもん(お前も動物見ろよ)。

動物園には小さな遊園地が併設されていますが、そこで楽しむことも忘れてはなりません。マジックミラーで足を伸ばして一人で盛り上がってみたり。

明らかに場違いな状況に身を置いてしまった時はどうするか。「ただ楽しむ」。これですね。どれだけ見られていても、自分が楽しむことを忘れてしまっては動物たちにも失礼です。そして「学ぶ」。檻の前に掲げられているプレートを一言一句噛み締め、味わいながら読む。「アフリカタテガミヤマアラシの生態」とか、いつか何かの役に立つかもしれないじゃないですか。

とまあ、そんな事を言いながら、ゴリラ館の前で娘たちと遭遇した時は心底ホッとしたんですけれど。皆様、やはり一人で行って良い場所とそうでない場所ってあるんですね。それでは、王子動物園の素敵な動物達の写真をどうぞ。

番外編

ハンター邸

文学館

観覧車から見下ろす王子スタジアムの
カレッジ・フットボール

「ベストを尽くして失敗したら、それはベストを尽くしたってことなんじゃないのかな」


極私的なことですが、ある分野の提出物が最高の評価を受けて返ってきました。
自分としては余り自信を持てていなかったので、予想外の評価に驚きと喜びを隠せず、心の中で小さくガッツポーズ。掛けることができる時間が限られている時はどこかで線を引かなければなりません。最後は必ず「うーん、こんなもんでいいか」状態。自分の中で自分を無理やり納得させるようなイメージ。第三者が評価する場合、明確な答えがなく参考資料もない場合、時間が限られている場合。このようなケースでは「よし、これで完璧!もうすることはない!」というフェーズまで持っていけることの方が圧倒的に少ないのではないでしょうか。

結果が出る前は、自己納得=これだけやったのだから、それはやったということなんだ。と考える(しかない)。仕事でもスポーツでも学びでも、結果が数値や評価として出てしまうものはそう納得するしかないのだろうと思います。もちろん、納得感にはレベルが存在しますけれど。スティーブ・ジョブズの言葉にあるように「ベストを尽くして失敗したら、それはベストを尽くしたってことなんじゃないのかな」という言葉、至極納得。逆に「ベストを尽くして成功したら、それはベストを尽くしたってことなんじゃないのかな」とも言える訳ですね。


最近は時間がないことを言い訳にするのはやめて、ないならないなりに出来る方法を考えて行動しています。「こうであるべき」という模範的な行動モデルはどの分野にも存在しますが、人それぞれライフスタイルやタイプは全く異なるので、モデルは一つのベンチマークとしつつも、そこに枝葉を張った「自己流」が合うのであればそれで良いのではないのかとも考えます。仕事でも学びでも「結果が全てである」ことを大前提に考えると、モデルに無理に押しこめようとしてアジャストするまでの時間や結果的に合わなくてしんどい思いをしたというリスクを勘案すると、例えメインストリームでなかったとしてもマイナーストリームで良いのではないか、と。しかし、いずれにしても共通するのは「どれだけ頑張るか」ということなんですけれどもね。

さて、今日の夜から明日にかけては雨模様。
雨が振る前に子供たちのリクエストに応えてお出掛けしてきましょう。

Nicola Conte – Rituals

傾聴すること、従順であること


とりあえず、腰・爆発後の初出社。
家のドアを開けて、おそるおそる駅に向かい、おそるおそる電車に乗り、ガタンという揺れにおびえ、ゆっくりエスカレーターで昇降し、人混みに紛れて歩き、エレベーターに乗って会社にたどり着きました。この道のりの長かったこと長かったこと。コルセットを巻いて薬も飲んでいるのに、一歩一歩ビビりながらです。無理もありません。ずっと自宅に閉じこもっていたのですから。
3日間も休むと我がデスクも懐かしい場所のように感じられます。遅れて到着した年賀状や郵便物が積み重なっていたくらいで、いつもの自分の仕事部屋、いつもの自分のデスク。やはり会社はいいものです。みんなの顔も見れて、一緒にランチに行き、客先に行き、打ち合わせをして、一緒に働く。最高ですね。


相変わらず電話やメールで「腰痛見舞い」や「対処アドバイス」をたくさんいただくのですが、本当に本当に、それらの一つ一つが嬉しかったです。先輩諸兄や親しい友人達から気遣ってもらえるというのはありがたいことだし、心強い。自分もそういう大人になりたいと思います。身近なところにたくさんの良い模範がいることを感謝しています。

さて、共に働くマーケッターの同僚、Mさんは椎間板ヘルニアの大先輩。
対処方法を細かくご指南いただいています。また遅くまで残っていると「早く帰ってください」「もう終わりましたか」「22時までには寝なさい」と親身に気遣っていただきました。本当にその通り。経験者が言われることはもっともだし、そのための研究や腰を守るための体操なども日々欠かさずされている訳ですから、従わない理由がありません。傾聴するだけでなく、従順さも求められますね。これは皆様からいただく種々のアドバイス全てに言えると思っています。

しかし、実のところ、会社を出たのは22時前だし、深夜2時になっても起きてしまっている。少し動けるようになったから、散らかっていた部屋の掃除を始め、アイロンと靴磨きもやってしまっている。早く寝なきゃ、ダメだとは分かっているんです。しかし動いてしまう。寝ない。僕の場合は、これらの生活習慣そのものがもはや「病気」なんだろうと思います。いつまで経ってもこんなことしていちゃダメだ、皆に心配かけてはダメだ。「傾聴と従順」。バカに塗る薬はないと開き直るのではなく、せめてリハビリ期間だけでも、半ば強制的に生活習慣改善に入ろうと思います。まず「遅寝早起き」から「早寝早起き」のスタイルへ。早寝。これが実は「断酒一ヶ月」よりも厳しいかもしれない。自分へのチャレンジです。


話は代わり、今日見たサイトの備忘録を。
IT各社のサービスがどのようにマネタイズされているのか。とても分かりやすく整理されたサイトです。ハーバードビジネスレビューではありませんが、事例を見ることがビジネスを学ぶ上での基本。一目ですぐに分かるユーザービリティの良さ、情報の簡潔さ、アイコンの効果的な用い方も含めて、とても秀逸なサイトでした。こんなサイト欲しかったんです。

How do they make money?

さて、明日は金曜日。
あっという間に週の最後ですね。
皆様にとっても良い一日でありますように。

それでは。

Nujabes – Spiritual State