最終的に行き着くのは、”maddle through” という考え方


【maddle through】というのは、文字通り、泥の中でもがきながら、なんとか答えを見出そうとする考え方のことですが、ことビジネス(もちろん人生)においては日々マドルスルーな事案に直面します。

それでも、もがき続けていれば、針の穴から差し込む光のようなものが見えてくるというもの。それを信じることができるかどうか、そして、もがき続けることができる根性があるかどうかが、光を見出すことができる要素となるのでは、と。

年齢的には、そろそろ確固たる成功のためのロジックが見つかっていても良いと思うのですが、好き好んでなのか、そういう星の元に生まれたからなのか、日々マドルスルーを繰り返しているのは、ある意味でしんどいし、また別の意味で刺激的なのは確かです。ジャンキーになる前に、少しでも成功のためのロジックが見つかるように、また明日もがんばって行きたいと思います。

(photo by NY times)

今日という日に決意を新たに


今日という日は、

震災から20年。
参加出来なかったけど、友人の結婚式。
仕事帰りにまた仕事。

そんな一日。
疲れた体に鞭打って電車に乗り、バスに乗り、電話をし、打ち合わせをこなす。移動中に眺めるスマフォには20年前の写真がニュースと共に映しだされています。それらに目を向けつつ、この20年を回想して思うことは、

あの時よりは少し成長出来たかな。
何を積み重ねてきたのかな。
その時に思い描いていた20年後の自分になっているのかな。

色々と考えていると、もうなんだか考えることにしんどくなってしまって、文字通り、目眩と吐き気がしてきました。いや、それは現実と空想の乖離から来る絶望ではなく、ただ、心身共に疲れてしまっているだけなのかもしれません。


人それぞれの人生があって誰一人として苦労を知らない人なんていない、というのが僕の考えです。ただ世の中には、自由自在に空間軸や時間軸を移動しながら、自分の発想と感性だけで思いを実現している人と、手抜きせずに人一倍頑張ってるのに、そうならない圧倒的大多数の人が存在しています。

「あの人は自由に生きて成功しているように見えるけれど、影では人一倍苦労してるんだよ」

はい、当たり前です。子供だって分かります。誰だって生きてりゃ苦労はしますから。苦労に差こそあれ、それが実になるかならないかだけの事です。それを実にするにはどうすれば良いのか。それは本当にブラックボックスですよね。恐らく、成功に理由なんてない。

でも多くの人々はその理由を知りたがるから、◯◯の法則、とか、◯◯の哲学、なんて啓発本や情報商材を買ってしまうんです。結果、答えのない物に対してお金を払わされているだけのことで、仕掛ける側に搾取されているだけの事なんです。これだから格差が埋まらないんです。


震災から20年。
今こうやって生きている事に感謝します。

生きていることに感謝するのであれば、やっぱり自分の思うように、思うがままに生きていこう。成功するもしないも「法則」なんて存在しないのですから。しがらみも、制限も、一切捨てて、自由自在に生きていこう。

感謝の気持ちと共に決意を新たにする1月17日です。

目標とタスクとモチベーションについて


今年の初レース「武庫川新春ロードレース大会」(ハーフマラソン)を明日に控え、今日は好天の中、筋肉を解すべくゆっくり軽めのジョギングを7km。

走っている最中に、この連休の予定を色々と頭の中で思い巡らします。連休と言っても、単に会社に行かないだけで、普通に仕事はするし、別の会社の方も見なきゃいけないし、勉強もしなきゃいけない。いつからこんなにたくさんのタスクを抱えるようになったのだろうか、と、走りながら考えていました。

例えば、10年前は今より体力はあったはずだし、時間もあっただろう。でも明らかに今の方が抱えているものが多い。これは成長と言うのか、自己実現に近づいている証拠と言えるのか。それとも、年相応に増えていく類のものなのか。その辺の切り分けや分析が未だ出来ていない自分がいます。

明日死ぬかのように生きろ。永劫永らえるかのように学べ。
“Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever.”

今が一番若いんだから、何かを始めるのに遅すぎるということはない。

などなど、いわゆる年齢をものともしないで常に前向きにチャレンジしていくという、人生を通じての壮大なテーマとなるような思いと、「ある程度ここまでは行きたいよね」という非常に現実的で目先の目標を見ている自分、そして、今、まさに現実の自分。それぞれの乖離と自己満足、納得の閾値。到達するまでにまだ距離があるから、本能的に上昇と成長を志向するのが人間なのでしょうね。

例えば、一番分かりやすい例として「経済力」を一つの指標として考えてみます。

公平なのか不公平なのか、世の中には人一倍真面目に、一生懸命に、長時間に仕事をしても生活が豊かにならない人もいますし、一方で、富を効率的にどんどん増やしていく人たちもいます。(2014/12/28の記事:「経済格差が埋まらない原因について、恐らく今もっとも説得力がある理論」)

あくまで「経済力」を、その人の目指すべきゴールとした場合(やりがい、自己満足、夢、責任などは別物とする)、正しいゴールは「経済力があって金持ちである」ということであるので、それを目指していてもそうならないのは「何かが間違っている」ということができます。

何が間違っているのか、どうすれば良いのか、軌道修正は可能なのか。そのようなトライ・アンド・エラーを繰り返すのは当然ですが、それをいつまで続けるのか、という点が問題になります。期限を設けなければ、人は疲れてしまいます。疲れてしまうと、諦めてしまい、自分を無理やり納得させるような自己啓発や自己暗示で誤魔化したり、環境のせいにしたりするようになります。こうなると、ゴールからは遠ざかるばかりです。

上のケースは「経済力」を例にしましたが、生きていると色んなことがあります。時に様々な視点が入り乱れて疲れることもあったり、タスクの多さに目眩を感じたりすることがありますが、まあ、年々しなければならないことが増えていて(しかもそれが実になるようなことばかりで)、かつ、自分で選択して楽しく取り組むことが出来ているというのは、とても幸せなことなのだろうとの結論に至りました。まあ、僕の場合は目先の目標にすら到達出来ていないので、とにかく期限を決めて取り組むのみです。

それにしても、走りながら考えていることって、文章化しにくいですね(笑

カフェで隣合った親子との交流から感じたこと


週末まで東京出張です。

今日、カフェである親子とのちょっとした交流がありました。

アポを2つ終えた後、次の打ち合わせまで少し時間が空いたのでカフェでPCを開き仕事をしていました。東京は駅前に必ず数軒はカフェがあるので打ち合わせ間の繋ぎにはとても便利ですね。ちなみに「打ち合わせ〜カフェ〜打ち合わせ〜カフェ」という行動を「カフェホッピング」と呼んでいます。

さて、カウンター席でPCをカチャカチャしていると、乳児を抱っこ紐で胸に抱えたママと、三歳の男児(年齢は後で判明)が僕の隣の席に座りました。テーブル席が空いていなかったようで、カウンター席の高さがあるイスに男児を座らせ、落ちないように気を使いながらコーヒーを飲んでいます。

少しすると、赤ちゃんが大声で泣き始めました。ママはイスから降りて立ったまま赤ちゃんをあやしつつ、男児にも気を配りながら、コーヒーとケーキを食べるという感じで、とにかく周りの人に気は使うし忙しいし、という感じでした。僕は隣で仕事をしつつも、なにか手伝いたいな〜と考えながらその様子を片目で見ていました。僕は性格的に子供が好きなので、ちょっとしたきっかけがあるとすぐに遊んであげたりするのですが、一応、ちょっと遠慮していました。

すると、男児がイスからハシゴのように降りようとして後ろ向きの姿勢になり始めました。ママも気付いていない様子だったので、咄嗟に体が動いて、「危ないからね〜」と男児を抱きかかえて膝の上に乗せてあげました。ママは「あ!あ〜仕事中にすいません〜」と言いながら恐縮しておられましたが、僕は元々子供がとても好きなので、大丈夫ですよ〜と言いつつ、ママが落ち着くのを待ってからイスに戻してあげました。すると、それから男の子もとても僕に懐いてくれて、色々と無邪気に話し掛けてくれるので、赤ちゃんが大泣きしている間、しばしその男の子の相手をしていました。すると、近くにいたマダムもママに近づいて赤ちゃんに飴やお菓子をくれたりして、なんだか、とてもホッコリする空気が流れました。赤ちゃんも飴を見て泣き止みました。

ああ、なんだかいいなあ。
ちょっとしたことかもしれないけれど、みんなで助け合っている感じがして。


親子が帰った後、色々と考えてみました。

今回は男児がイスから落ちそうになっていたので、咄嗟に体が動いてしまいましたが、このようなケースって難しいですよね。もちろん、人によっては手助けしてくれるのを嫌がる人もいると思います。お節介なことしなくても良いのに、と感じる人もいるかもしれません。

僕は娘二人のパパという立場だけど、赤ちゃんを抱っこ紐で抱えて3歳の男児をカウンターに座らせているママの立場ではないので、その気持ちは全然分かりません。もしかしたら「別にかまってくれなくてもいいのに」と思っているかもしれない。まあ今回のケースは明らかにお母さんは恐縮しながらも助かったような表情をされていたので良かったのかもしれませんが。

こういう場面、良く遭遇しますよね。僕にも娘が二人いるから、公共の場所で赤ちゃんが大泣きした時のなんだか申し訳ない気持ちは痛いほど分かるので、何かしてあげたいとは思います。でも本当にどこまで踏み込んだら(?)良いのかも分からないし、もしかしたらこういうのって僕の自己満足なのかもしれないなとも考えました。なので、別にこのエピソードをを美談として紹介している訳でもありません。それにもし他の誰かがヘルプしていたら、きっと僕は安心してPCと睨めっこしていたと思います。

とは言え、まあとにかく社会全体が(良い意味で遠慮しないで)色々な意味で明るく優しくなれたら良いなとは思います。少なくとも、ベビーカーや赤ちゃんを抱えている母親や妊婦さんに優しい世の中って、悪い世の中ではないと思いますし。些細なことですが、色々と考えさせられました。

銀座BVLGARIもすっかり年末仕様ですね。

事象を正確に分析して、あるべき方向を見出す能力


僕はボーっとしている時は大体、都市のシュリンクと、コミュニティのあり方と、行動経済などをアレコレ考えていることが多いのですが、そんな時に思うことは、世界史って大切だなということです。経済にしても政治にしても、人の営みの上に成り立っています。営みとは時間の経過のことであり、その営みが重なって歴史となります。そして、どの時代にも栄枯盛衰があります。

大切なのは時代ごとに事情は異なるため、一昔前の常識を現在に引っ張ることはできないということを認識すべきだということです。むしろ比較して正確に「違い」を見出すことにフォーカスすべきだと思います。

少し例を挙げて考えてみると、
例えば、50年前と今とでは・・・

死亡率と平均寿命はどう変化したか
犯罪発生率はどうなったか
所得はどう変化したか
連絡できる友達の数は減ったから増えたか
ものを作りやすくなったか
起業しやすくなったか
イメージを具現化しやすくなったか

こういうことを考えると、例えば、人のつながりが場所に根付くコミュニティからオンラインでのコミュニティに変化してきたこと、大家族から核家族への変化、サラリーマンと専業主婦という家族の構図から、全員で稼ぎ全員で家事をするといった現在のトレンドへの変化の理由が分かると思います。人口が増加している国と減少している国が明確になり、それにつれて都市としてのあり方に対する概念的アプローチも違います。

学生二人が元手もないまま始めて10年掛からずに世界を征服してしまったGoogleのような巨大企業が生まれるということが実際に起きてしまう世の中です。だから、いかに「これはこうすべきだろう」という凡人の考え方が陳腐なものなのかが良く分かります。己の価値基準にしがみつく人とそうでない人で、これからどんどん格差が生まれてくるのは明白です。

シンプルに見えて非常に複雑化している世の中で、いかに本質を捉えることができるかはとても重要ですね。これは、柔軟な発想を持って変化に順応するという意味ではなく(変化に順応しているという時点で既に受け身)、むしろ、事象を正確に分析してあるべき方向を見出す能力のことだと思っています。

Innovative City Forum 2014 でMITメディア・ラボ所長の伊藤穰一さんの基調講演があったので、シェアしておきます。Joiさんは0:27:10から登場しますが、面白いですね、本当に。

(写真は本文と関係ありません)

楽しみ凝縮、極楽トレラン(温泉・ビール・サプライズつき)


こんなに楽しいことはない!!

素直にそう思える極楽トレランのススメ。

朝6時半に芦屋川駅にラン友N君と待ち合わせ。街角ローソンカフェでホットコーヒーを飲みながら作戦会議をする。このワクワク感がたまらない。N君は地図を出してきて、先週はここを走った、このコースは人がいなくて寂しかったなど、目をキラキラさせながら話してくれる。僕もそれを嬉しそうに聞き、自分が好きなコースを話す。

そうそう、これだよ、これ。

趣味を共にする者同志の世界。この一体感がたまらない。僕もN君も基本的に単独行動をするタイプなので、誰かと一緒に走るということはとても嬉しいことなのである。さあ、今日はどうしよう。六甲山頂まで2時間、有馬までそこから1時間弱。走れるところは走りながら、3時間行程で温泉にザブン、ビールをごくり!よし、決まり!

芦屋川から風吹岩〜雨ヶ峠〜七曲り〜山頂〜魚屋道〜有馬温泉という王道かつ最短ルート。時間が時間だけに六甲山のメインストリートというべきこのコースも人はまだら状態。ところどころで紅葉を楽しみながらトレランを楽しむ。

予定どおり、2時間弱で山頂に到着。ひとしきり記念撮影をし、汗が冷えて寒いので早々に魚屋道へと歩を進める。

裏六甲も紅葉真っ盛りだ。台風の影響でところどころ道が崩れているが走行には問題なし。

山頂から45分程で有馬に到着。銀の湯が改装中のため、金の湯へザブン!

あ〜極楽!!! 

そう、極楽としか言いようがない、
だって、この充実感でまだ朝10時なんだもん!

さっぱりした後は、有馬の風情ある温泉街を「ビール」を求めて散策する。まだ店がオープンし始めたくらいの時間。

N君が、日本酒も充実していてお勧めというので、バス停前の立ち飲みバー「酒市場」へ。

カウンターにつき「まずは、生ビール」と声を掛けると・・・なんか見た事ある顔が・・・

そう、旧友がカウンターでサーブしていたのです!
恐らく10年ぶりくらいの再会!!

もうね、予期しないとはこのことですよ。嬉しいなあ。こんなことがあるから、人生楽しいなあと染みるのです。しかも彼女、なんとマラソンは3時間10分、トレランの大会もしょっちゅう出ているようで、その当時からは全く想像すらできないアスリート女性へと変身していたのでした。ここはランナー、ハイカーの聖地なのか。笑

懐かしい昔話、そしてラン話に、三人で花を咲かせながら飲むビールの旨さよ(N君はひたすら、にごり酒をリピート)。そして時間はまだ11時である。なんだこの充実感は!!

ひとしきり飲んだ後、夙川までバスで帰ってきました。

日曜日の午前中。
この短い時間に、こんなに楽しみが凝縮されるなんて。

山と海が近い阪神間ならではの楽しみです。

あー、最高!!!

フィルターで濾しとった後に残るもの


音楽の素晴らしいところは、人の気持ちを高揚させたり、落ち着かせたり、懐かしい風景を掘り起こしたり、苛立たせたり、と、とかく面倒くさい人間の様々な感情に作用し、導いてくれるところだと思う。

この時期特有の、年末から年始にかけて予定が次々に埋まって行くような時、カレンダーが埋まっていないと落ち着かないという僕の性格の一面である「前のめりな部分」は満足を感じるのだけど、一方で時間に流されないようにしなければという小心な気持ちを制御するためには、やはり音楽の力を借りねばならない。

それを聴くということは、自分が今立っている足元を確認すること、言い換えるならば、正しい居場所に導いてくれるための羅針盤のような役目。


Bill Evans というジャズピアニストが奏でる曲がとても好きで、何かあれば(何もなくとも)いつも聴いている。繊細で、その先にはもう何もなく、何も見えないのではないかと思うような完成された域。こういう人はその才能と引き換えに、何かを負っている。Bill Evansの場合は、退廃的な生活による肝硬変だった。

51歳で亡くなった時の死因は肝硬変ならびに出血性潰瘍による失血性ショック死。永年の飲酒・薬物使用で、肝臓に過剰な負担がかかっていた。それはジーン・リースをして、「時間をかけた自殺」というべき人生。(wikipedia参照)

そんな彼の曲の中で、僕が一番好きなのは1958年の二枚目のアルバム「Everybody Digs Bill Evans」に収録された奇跡の一曲「Peace Piece」。本人をして、もう二度とこの演奏はできないという再演不能の名曲。

少し触れるだけで壊れてしまいそうな、脆くて儚い糸のようなもの。
それがフィルターで余分なものを濾しとった後に残る真理。

Bill Evans “Peace Piece”

なんだか、色々なことがどうでも良くなってくる。

賛否両論あるけれど、それでも「がんばる」という気持ちを応援したい


仕事から帰宅してすぐに見始めた今夜の男子フィギュア。

羽生選手と中国のエンカン選手が6分間練習中に激突したアクシデントをリアルタイムで見た。両者共、絶対に棄権すべきだろうという状況を乗り越えて最後まで滑り終えた。僕は今夜の大会を見ながら涙した。

この件については、賛否両論あると思う。

一つは、かなりの衝撃で頭部を打撲しているし、自分では歩けないほど足も痛めている状態で、今後の事を考えプロのアスリートとして絶対安静を優先すべきだし、コーチも周りも滑らさないで棄権させるべきだという意見。そして、もう一つは、羽生選手の体を心配しつつ祈りながら、彼の意思を尊重するという意見。

僕は後者の意見に与する。
もちろん激突した直後と治療を終えて真っ青な顔で練習を滑り出し始めた時、「長いシーズンが始まったばかり、流血もしてるし脳震とうも怖い。足も大変なことになっているのではないのか?ここは絶対に無理せず、棄権してほしい」と思った。

でも。
周りが何と言おうと羽生選手は絶対に滑る決意だったのだと思う。コーチは絶対に棄権を進めたはず。周りの大人も絶対にそう言ったはずだ。

でも、最後は羽生選手の意思に任せた。緊張感で痛みを感じないというのも分かるけれど、自分のコンディションは自分が一番良く知っているし、大げさに言うと生死についてもそうだろうし、何よりも、それが彼自身の生き様であり美学であり、絶対に譲れないポリシーなんだろう。それでもし競技人生が終わったとしても、後悔はしないという絶対的な気持ちでもって一試合、一試合を戦っている。彼のように強靭な精神と不屈の気持ちとストイックさを持つアスリートは、常にこれが最後の試合だと思って挑んでいるのだろう。


スポーツが素晴らしいなと思うのは、今夜の羽生選手やエンカン選手のようなプロアスリートでなくても、名も無き一般市民でも必死にゴールや勝利を目指すことにあると思う。みんな、己と戦い続けているのだ。

僕も市民ランナーとしてマラソン大会に何度も出場しているけれど、もうこれ以上無理、足が動かない、歩いても痛む、痙攣が止まらないなどの状態を毎度経験している。それでも、必死で半泣きになりながらゴールを目指す。実際、名も無き市民ランナー達も、足を引きずりながらゴールし、倒れこむ人たちを何人も見てきた。ゴールした後に泣いている人もいる。みな、それぞれの事情とポリシーと美学の中だけで生きている。誰かに走れと言われている訳でもない。死ぬくらいやれと言われている訳でもない。でも、みな、明日がなくてもいいから、やるのだ。

賛否両論あると思うけれど、僕は、やはり、そういう人間でい続けたいと思っているし、そういう人達を応援したいと思っている。

個人メディアの時代に最終的に残るものはなんだろう


東京、首相官邸前のホテルからの更新。

あ、写真は新宿。


面白い記事に出会った。

「世界は、ミレニアル世代の「自己顕示欲」が社会を揺るがす時代に突入している」(Wired)

記事を承前として話を進める。
社会学的アプローチをしなくても、(少々世代は離れているが)SNSとデバイスを使いこなしているこの世代の一人として、この分析はとても共感できる点である。

仮にSNSのタイムライン上でセルフィーしなくても、ブログのような個人メディアで言いたいことを発信し、それをRSSでSNSのタイムラインに投稿するような間接的な使い方でも、効果は同じだと考える。

確かにSNS上でのセルフィーやタイムライン投稿は「自己顕示欲」であるかもしれないが、人によってその理由は様々であろう。単純な自己顕示かもしれないし、ブランディングという名のストラテジーかもしれない。ちなみに僕の場合、ブログを2005年から続けている理由として、大きく二つを挙げることができる。それは、

1,何かをインプットしてアウトプットすることを習慣付けるためのツール
2,ライフログ

である。そもそも、書くということに関しては素人だし、人様に何かを伝えたいと思うほど立派な考えを持っている訳でもない。ブログを書いていて仕事が増える訳でもなければ、取材されるようなこともない(厳密に言うと、仕事で取材は受けたことはある)。でも、結局のところ、(対外的というよりは)自分のためであるということが一番大きいポイントだ。

そういう意味では、先の記事に出ている「ミレニアル」な人々とはちょっと違うかもしれない。自己顕示ではないような気がする。しかし、これからの世界を「労働力としても消費者としても」ミレニアル世代が席巻していくのは紛れもない事実として受け入れなければならない。

それが今後のスタンダードになるのであれば、それを受け入れつつ、どういうアプローチが出来るかという点が色々とポイントになるのは明白だと思う。僕は少なくとも、数年前からそう考えているし、メーカーやサービスプロバイダーの一方的な押し付けは通用しないし、基本的に効果がないことも知っている。共感マーケティングというのは、あまりに稚拙なワードだけれども、でも、そこを考えなければこの先、供給側が生きていくことができないのも明白だとも思う。

難しい時代だけど、結局は、コンペティターを凌駕する製品とサービスを作ったものが勝つという普遍的真理は今も生き続けるのではないだろうか。

クレイジーな発想は「常識」という無価値な壁をブレイクスルーする


ハフィントン・ポストから。

クレイジーな人々が新しい時代を創る!「ダム撤去」を常識に変えた”ダムバスター”

ダムが環境に及ぼす影響を懸念する人々がダムを撤去し「川を開放する」という運動のドキュメンタリー。実際に過去20年で約850基のダムが撤去され、生態系が取り戻されつつある。クレイジーと言われる人々の発想が、今の時代だからこそ必要とされる。これは僕も常日頃考えている「シュリンク」と「散らかしたものを片付けるというビジネスモデル」とも(比べるのは恐れ多いけれども)リンクする。また、「環境経営」のお手本として、MBAの教科書に必ず載るパタゴニアの経営戦略も思い出される。(参考:「ぶれない環境経営がブランドになったパタゴニア 時代が会社に追い付いてきた」– 2014/6/2 日経ビジネス)

時代は変わる。今「常識」と言われていることは、いつどの時代に設定されたものなのか。その時代背景と、今の時代とは同じなのか。

貨幣価値は?
人口は?
街は?
ワークスタイルは?
家族構成は?
経済は?
インフラは?
産業構造は?
市場規模は?

多角度的かつ比較して考えるなら、今、「そんなの常識」と言われていることが、いかに古いかがよく分かる。僕達が子供の頃と、自分達の子供が生活する環境は全然違う。たかだか30年で、全然違う。違いに気付き、個人で責任を取らないための言い訳となる「常識」と、集団主義的な固定観念などの、余分かつ不要な要素を取り除き、濾し取り、最終的に残るであろうものは何か。それは、社会でも、仕組みでも、人間でもなく、「自然のサイクル」である。数百年後に人間が「絶滅危惧種」として認定されないという保証はどこにもない。

そういうことを学ばされる気がする。


今日は久しぶりに鈍重から開放されたので、帰宅前のカフェ勉タイム。
従って、ノンアルコール。