分断された社会 ー まるでSF小説の世界だ


週の後半はビジネスディナーが続き、更新もままなりませんでした。
季節柄、歓送迎会、配置転換が多いのでこういう機会も増えますが、ビジネスとはいえ人間関係が堅牢な方々との会食は本当に楽しい。学ばさせていただくことも多いし、刺激になります。


さて、今週最も衝撃を受けた記事。

NHKクローズアップ現代 〜「“独立”する富裕層 ~アメリカ 深まる社会の分断~」

ジョージア州に、郡から独立したサンディ・スプリング市というのがあるらしい。郡という行政区分から合法的に独立。富裕層が自分たちのためだけに作った行政が「サンディ・スプリング市」。この市の市民の平均年収は1000万円。警察、消防以外の行政業務は民間に委託。人口9万4000人の市の職員は、なんと9人。税収90億円の最も裕福な市は、徹底的に支出を抑え、まさに「富裕層が自分たちの財産を守る」ためだけの市が誕生したとのこと。

一方、市が「独立」したために、フルトン郡の税収は激減。デトロイトよろしく、市のサービス(ゴミ収拾、図書館など)に回る予算がどんどん削減され、サービスの打ち切りが続出。貧困層の生活が大打撃を受けているとのこと。

1%の持てる者と99%の持たざる者の格差。
中間層がいないアメリカの現実ですね。

こうなってくると、「税収」「公共サービス」のあり方、国家のあり方そのものが変わってきます。富裕層がいなくなれば公共サービスは支えられず、行政は破綻。教育、医療サービスを受けることもできず、完全なる格差社会が生まれる。「誰でもがんばれば、夢を実現できる」というアメリカン・ドリームも崩壊し、治安悪化。「北斗の拳」のような荒廃した地域と、セキュリティ万全の地域の「見えないフェンス」で分断された社会が生まれているとのこと。

どこに答えがあるのか
これからの社会はどうなるのか

日本もどんどん格差が広がっています。
教育と医療だけは、全ての人に平等に与えられるべき。

色々と考えさせられますね。

Jazztronik / Butterfly Dance

【観察日誌】魅力的な人、人を惹きつける人の思考


魅力的な人、人を惹きつける方を見ていると、自分にとって気持ちの良いこと、心地良いと思うことを、ただ素直に、純粋に行なっている人なんだろうなと思います。

違和感があればしない、ポリシーに反することはしない、したくないことはしない。「こうはなりたくない」というものを決めて、それを行わない。人には押し付けない代わりに、自分には厳しい。こうしようと思ったら、本当にそうする。

で、これね、わがままだと思うかもしれないけれど、すべきことをちゃんとやるということも含め、愛情や感情や、空気を読むといった、そういったものも全部「心地よいこと」だから自然に出来るんですよ、きっと。だから言い訳もしないし、何かのせいにもしないし、ただ純粋で素直。だから例えば、

本当はこうしたいんだけど、無理なんです
これでもめっちゃ頑張ってるんです
しんどいけど、今は仕方ないんです

こういうことを言わないんですよね(tmk調べ)

先日「今すぐ計算しよう ー 人生30,000日の内、何日分使った?」という記事を書きましたが、そういう人は、自分の時間と人生をちゃんと自分のものにしようとしている。但し、なんども言うように、「元気の押し売り」「がんばりの押し売り」みたいなのは絶対にしない。しないし、言わないけれど、そもそもその人自身が魅力的なので、こうなりたいなあと感化されている人はたくさんいる。

こういうの、いいよなあ。
色々と勉強になりますわ。


さて、先日、とても共感できる記事に出会いましたので、紹介させていただきます。

「日本人は(案外)怠惰である」(楽園はこちら側 より)

神戸大学医学部の岩田先生のブログですが、「自分の怠惰さ」を徹底的に自覚すること、という内容です。とても共感できるので、宜しければご一読を。
 
 
 

スクラップ&ビルドではなく「スクラップ&クリーンアップ」を選択したい


「mail online」の記事から

Mall rats desert sinking ship: Inside the abandoned shopping centers that were once a beacon of the American Dream

人口減少で廃墟となった「オハイオモール」ショッピングセンターの荒廃ぶりです。どこか「ピエリ守山」を彷彿とさせますね。このモールがオープンした1970年代の半ばより、クリーブランドでは人口が半減してしまったとのこと。重工業、製造業の衰退が原因だそうです。

で、このような記事を見ていると、日本もこの先、至るところでこのような光景を目にするのだろうな、と思いを新たにせざるを得ません。今から「廃墟を見ること」に慣れて置く必要がありそうです。

というのも、日本では戦後の住宅難から「スクラップ&ビルド」と「夢のマイホーム」という文化が根付いており、住宅に至っては30年で建て替え、誰でも35年ローンを組んでマイホームを購入するという文化が根付きました。しかし、それは戦後から高度経済成長期にかけて必要であったことですね。もはや住宅が全人口に行き渡った今、2008年をピークに人口減少を続ける日本で、まだ住宅供給に新規商業施設の供給が必要か?業界の人に聞いても「スクラップ&ビルドしないとお金が回らないので、壊して立て続けるしかないんですよね」とのことで、まあ、経済的側面から見たら良く分かる話ですけれど。仮にSBがなくなれば、マンションデベロッパー、不動産会社、建設会社は軒並み潰れるでしょう。ショッピングモール建設費用、運用費用がかさみ、数百億円で倒産(633億円の負債を抱えて倒産した大和システムのような例)、不良債権がかさみ、最終的には政府から銀行への資金投入、つまり国民がせっせと払っている税金が、コンクリートの塊を壊すためだけにぶち込まれる訳です。

以前「人口減少に対応して、開発した宅地を「自然」に戻していくという試みは生まれてこないのだろうか」という記事を書きましたが、その中で「40年後の日本は、三戸に一戸が空き家になるので、35年ローン組んで銀行と不動産会社を儲けさせるのはやめましょう」的な内容を書きましたが、まあ、めっちゃお金持ちや現金一括で家を買える人は買えば良い、というお話でした。賛否両論あると思いますが・・・笑

ちなみに、都市部でも、百貨店が乱立し、オフィスビルの入居率が上がらないのに、どんどんビルの新築計画が持ち上がっています(大阪市北区はまだまだ建ちますよ、恐ろしい話だけど)。オハイオのショッピングモールのような光景を広げないために、今から「スクラップ&クリーンアップ」、もしくは「リフォーム」をメインにした事業に転換していく必要があるのではないでしょうか(デベロッパー、不動産会社の皆さん)。

ちなみに「欧米の住宅サイクル年数は、英国「141年」、米国「103年」、フランス「86年」、ドイツ「79年」と報告されており、約1世紀の間、住宅が「ストック」として機能しています。 」(建築用語事典)(とのこと。こういうのはいいよね、文化として「下心」が見えない。ちゃんとエコシステムが機能している。それに、これからは人が流動する社会になるので、国境を超えていつでも移動できるように、荷物は軽くしておく必要があるとも考えます。

これから、箱物ビジネスではなくシュリンクビジネスですよ。このテーマで何かビジネスモデルがあれば、やりたいんだけど。

「子どもに夢を託すな」のリクナビCMについて感じる違和感


このブログを読んで下さっている方は良くご存知の通り、僕は日々、youtubeを仕事のBGMにし、好きな曲をブログで紹介し、曲探しのためにも使っているので、毎日アクセスする大好きなサイトの一つです。そんな、僕の生活になくてはならないyoutubeですが、近頃、残念なことにリクナビNEXTの「子どもに夢を託すな」というCMが頻繁に流れます。

このCMを見て、

「ああ、そうだよな、おれ、自分の人生をあきらめて子どもに夢を託し過ぎてたな、いっちょ転職でもして夢を追うか。」

なんて思う大人が一体どれだけいるのでしょうか。よくあるホームドラマに出てくるサラリーマンのくたびれたお父さんはそういうキャラの人が多そうですけれど(「花より団子」の牧野つくしの父含む)、少なくとも僕の周りには一人もいないんですよね。だからか分からないけれど、このCMには、とても違和感(ネガティブな方)を感じます。ほんと、不思議。本当にサラリーマンってみんなそうなの?マジで?


というのも、周りにいる同年代の友人たち、年上の方々、みんな多かれ少なかれ、年齢関係なく何かに挑戦し続けている人ばかりなんですよ。仕事も遊びも楽しんでいるし、とてもパワフルで魅力的。取引先もそう。そりゃ年齢相応に落ち着いておられる方もいるけれど、人間的にも面白くてチャレンジングな方が多い。意外な趣味を持っていたりね。

僕はランナーですが、近頃のマラソン大会はエントリー開始と同時に締め切りというくらい人気で、40代、50代の方もガンガン練習して必死で走り、ゴール後は最高の笑顔で仲間たちとビールを楽しんでいる。マラソンって「克服型」のスポーツでめちゃくちゃしんどいんです。それでもこんなに人気なのはなぜでしょう。「定員一万人」の地方の大会でもエントリー開始から数時間で締め切りになってしまうのはなぜ? それだけチャレンジ好きな大人が多いからですよね。また、60歳をとっくに超えているけれど、僕の母は仕事で使う訳でもないのに、実家に帰るとなぜかいつも英語と中国語のCD聴いてるし。父もいつも勉強している。(ちなみに、両親から夢を託されたことは一度もない)

サラリーマン = 疲れて、ヨレヨレ、夢もなし

こういうイメージは一体誰が作っているのでしょうか。
僕もサラリーマンという立場ですが、子どもに夢を託すつもりは一切ない(先日の「自分にはコミットして、他の人にはコミットしない」という記事にも少し書きました)。当たり前ですよね、一度しかない自分の人生だからこそ、自分の納得出来るような生き方を常に模索しているし、夢を追い続けていたい。一分一秒無駄にしたくない。同じように子どもの人生は子どもの人生。いきなり「パパの夢、お前に託した」とか言われても迷惑千万でしょう。

僕は、子ども達には「早くパパのように好きなことを見つけてガンガン突っ走ってね」という感じなんですよね。きっと、そういう親の方が圧倒的に多いと思いますよ。ほんと、このCMに出てくるドブネズミ色したスーツ来て虚無感に包まれて夢遊病者のように歩いている大人たち(男女共に)って、TVの画面を通してしか見たことないんだよな。酔いつぶれて駅で寝ている人は良く見掛けますが。

仕事して疲れるのなんて、ゴルフして疲れるのと同じで当たり前じゃないのかな。スコア良ければ大喜びするし、大叩きしちゃえば落ち込むし。それを、「ゴルファーは皆、元気がない生き物である」と言われているような気がしてしまうんですよね。もちろん、ゴルフと違って「金を稼ぐ」というのは大変なこと。だからって、残りの人生諦めて子どもに夢を託すか?そして子どもに「夢を託すな」って言われるような、情けない大人になっちゃう大人ってそんなに多いの?

「いやいや、それは勝ち組の発想だよ」となるんでしょうか。確かに色々とありますよ、生きているんだから。うまく行くこともあれば、失敗することもある。絶望もある。でも、そこと「夢」は別の問題だし、ましてや転職(結局、リクルートは転職してもらわないと儲からない仕組みになっている)と直結する?


先の「サラリーマン=疲れてヨレヨレ夢もなし」というイメージは結局、「ネガティブキャンペーン」の典型ですよね。視聴者はポジティブなニュースは信用しようとせず、ネガティブな事を信用しがち。共感は良いニュースよりも、悪いニュースの方が得やすい。

【ポジ】
日本は素晴らしい国だよ!老若男女関係なく、みんなとっても元気で明るくがんばってるよね!メシは旨くて、寿命は世界一長い。日本人であるというだけで所得額の世界ランキングでトップ10%に入っているし、仕事は忙しいっていうけれど、祝日なんてめっちゃ多いし、自然は美しく、遊ぶところもたくさんあるし、どんなことだってチャレンジ出来る環境がある!そりゃ色々と問題はあるけど、どこの国だって同じだし、総じて最高だよ!

というイメージと、

【ネガ】
日本は元気がない。長引く不況で疲弊し、ブラック企業ばかりで社員はみんな「社畜」と呼ばれて、休みなんて全然なくて残業残業の日々、うつ病増加、自殺多し。なんとかがんばって働いても海外から移民めちゃ入ってくるから、英語出来なければ未来もない。原発問題もあって放射能で汚染されてるし、地震多いし、税金アップ。日本ってこれから先、どうなるんだろ。

どっちの情報を信じる人が多いか。
明らかに前者より後者の方なんですよね。でも例えば、「日本人=働き過ぎ」というのは真実ではない。まず、先進国の中でも休日と祝日がめちゃくちゃ多い。それに、基本的に働く時間と所得は比例します。逆にこれだけ働いているから、GDP三位の経済大国です。働き過ぎというなら、アメリカや世界のエグゼクティブはどうなるんだ。寝ませんからね、彼ら(成功するため恐ろしいほど働く、世界のハードワーク経営者8選)。でもその分、億単位の収入を得ている。お金いらないから時間が欲しい、というのなら、そういう生き方をしましょうという感じ。それも人の価値観に委ねられている。

いずれにしても、このCMにとっても違和感を感じていたら、同じように感じている方が他にもおられるようでした。切り口はバラバラですけれど。

「子どもに夢を託すな。」リクナビNEXTのCMはなぜ気持ち悪いのか – 常見 陽平

「子供に夢を託すな」CMうぜぇよ 現実的な人間に価値はないのか?あと、ガキに言わせるあざとさやめろ – ウェブはバカと暇人のもの

是非、リクナビと広告代理店の担当者の方、CM流して、無責任に「転職=バラ色の人生」と促しても良いから、少しは、みんなが見て元気が出て、良い気持ちになれるようなCMを作ってください。炎上マーケとか狙うのではなく。せっかくのクリエイティブがもったいないと感じます。「そういう風に思うあなたはターゲットではありません」と言われても、これだけネット広告での露出が多ければ、責任も大きいと思うんだけど・・・。

もちろん、「このCMを見て感動した!」という人もたくさんいます。上記はあくまで僕の個人的な見解です。いずれにしても賛否は脇に置いたとしても、クリエイティブはネガティブよりも、ポジティブな方が良いと思うんです。ネガティブな感情って、何も生まないでしょ。

伝統が作る人と社会


足の疲れや痛みが癒えるのと比例して、月曜日からジェットコースター的な忙しさの中に放り込まれる日々です。年度末ですね。そんな中ではありますが、先日の篠山マラソンで感じたことを備忘録代わりにリマインドしてみたいと思います。

先日の大会において、お年寄りから子供たち、野球のユニフォームを来た少年野球の子供たちや、コース沿いの家、集落から赤ちゃんを抱えたお父さんやお母さん方が出て来て応援してくれたり、まだ幼稚園の子供たちが皆、小さな手を差し伸べてタッチをしてくれたり、キャンディーやチョコレートを差し出してくれたりするという、ランナーとしては涙するような歓迎を受けました。お年寄りが屋外に椅子や車椅子を設置してずっと手を振ってくれたり、声を掛けてくれたり、タッチしてくれる。地元の小学生が太鼓を叩いてくれる、高校の吹奏楽部がランナーが通り過ぎる間ずっと演奏を続けてくれている。ボランティアスタッフが20km地点、30Km地点、ゴール地点で、地元名産の「しし(猪)汁」の炊き出しをしてくれている。

我々のようなその土地にゆかりもないゲストにとっては、交通規制を敷いてもらって、風光明媚な田園地帯の公道を走り抜けるという贅沢を味あわせてもらっている上に、このような「おもてなし」をしていただけるなんて、本当に感謝でしかないのです。

どこのマラソン大会でもそうだと思いますが、このように「見ず知らずの誰かを無償で応援する」という習慣は本当に素晴らしいと思うし、足し算引き算や駆け引き関係なしの純粋な気持ちというのは、時にドライな資本主義的ビジネスにどっぷり浸かっている我々にとって、心のオアシスになります。

例えば篠山マラソンを例にとって言うと、34年もこのような伝統が続いている「町をあげてのお祭」として地元の方々の間で定着していますよね。34年というと、先の赤ちゃんを抱いたパパ、ママ達が我が子の年齢くらいの時に沿道での応援をしており、自分が大人になっても子供たちに「ゲストをお迎えする」という伝統を継がせたいと思ってそのようにしているのだと思います。

伝統が人を作り、伝統が社会を作る。

素晴らしいことですよね。
教育というのは、ただ勉強を教えるのではなく、人として、社会として大切な「思い」を伝えることなんだと改めて感じました。自分が仮に走れなくなる時が来たら、僕も応援する側としてランナーに声を掛けたいと思っています。ランナーは誰のために走る訳ではなく、ただ「昨日の自分を超えるため」に走っていることを肌身に感じているからです。

マラソンって、やっぱり素晴らしい。

どのように「elevation」するか


ロボティクスやAI関連企業の買収を続けるGoogleや、whatsappを買収したFacebookを見ていると、Tech分野で短期間で一気に収益を上げるためには、シリコンバレーのスタートアップスの多くがそうしているように「お金持ちの会社にいかに目をつけてもらえるか」という「エグジットスキーム」で動くか、とにかく支援者やサポーターをたくさん募って「短期集中」で一気にスピードを上げて行くかのどちらかしかないな、と考えます。

これは、その会社にとって「将来どうなりたいか」という目標によって戦略は大きく左右されるところです。そこそこの規模でなんとか食えるくらいにやっていこうと思えば、コツコツ積み上げ型で良いと思いますので、上記のような戦略は関係ないでしょう。しかし、世界を取ろう、思えば、ドラスティックな発想転換と先のような戦略がマストです。

フォロワー戦略で既存の産業や技術をトレースする場合は、今までにないビジネスモデルという「ソフト面(サービス面)」で勝負できますが、誰もが持つ発想で「想定内」なコンセプトでは、サービス面は真似されやすいという意味で非常に脆弱。所詮はマーケットの奪い合いになるので、成功しようと思うと、「うわ、その発想はなかったわ」というような、例えば、UberSquareなどの画期的なサービスで既存産業からパイを奪うようなアイデアが必要です(Uberの場合はタクシー産業、Squareの場合はカード市場)。

技術で勝負しようと思えば、STAP細胞やIPS細胞のように「唯一無二の何か」を持っているかどうか。後者はとても属人的になりますが、その「人」や「チーム」や「組織」に価値がある。そしてモノを言うのは特許や知財。

スタートアップスは良いアイデアがあったとしても「ヒト・モノ・カネ」が慢性的に不足しています。そこをどう補うか。一気に行こうと思うのであれば、全力疾走のスピードが必須。スピード勝負をするためには良いエンジンと燃料が必要です。「カネ」については、貯金があればそれを崩しながらタイムフレームで一気に勝負する。なければ、支援者を募って集める。「ヒト」については言えば、いかに自社と自社の商品・サービスを魅力的にブランディングし、この会社で働きたい!と思うような魅力を打ち出すか、そして「ヒト」が集まる場所に出るというロケーション戦略。「モノ」については、そのモノを持っている会社やパートナーとアライアンスを組んで補完し合う。

これらの戦略と「覚悟」が合わさって初めて、準備が整うと思います。今の世の中って「強者は益々強くなり、弱者はどんどん弱くなって行く」という時代ですよね。一部の成功した企業が、他社を次々に買収してバリューを上げていく。Googleなんて、完全に世界支配を狙っていますからね。その内、ソフトウエア産業は全てGoogleに潰されると思いますよ。彼らは簡単にソフトウエアを作るだけの技術もカネもヒトも持っています。そして、その力を利用して、良いと思うものはサクッと作ってサービスインし、フリーで配布する。今はハードウエア事業にもどんどん手を伸ばしています。

ちなみに、僕の今年の目標は「elevation」でした。自分の見える景色はあくまで想定内の景色。つまり、自分の枠よりも、それ以上は大きくはならない。ドラスティックな発想は、自分の中からは「何かが降ってこない限り」生まれないとも思っています。さあ、自分に見えない景色をどのようにして見ようか。

今年が始まって早二ヶ月。
なんとなく輪郭は見えつつありますが、まだ少し模索中です。

70億通りの、ライフストーリー


仮に地球全体の人口が70億人(世界銀行統計)だとすると、そこにには誰ひとりとして自分と同じ人間はいない訳で、今、この瞬間も「70億通り」のライフストーリーが進行中です。そう考えると自分の存在のちっぽけさ、ヒトってこんなにたくさんいるんだという驚き、長者番付やIQやスポーツの分野で何らかの形で世界のトップにいる方々のすごさ、そのような70億通りの生き方があるのに人の生き方なんて肯定も否定もできないじゃないか、など、色々と考えさせられます。自分も1/70億なんですから、今の自分が正解か不正解なんて分からない。

ちなみに、この「1/70億」という数字ですが、途方もなく大きな数字です。比較対象は全く異なりますが、イメージしやすいので書いてみると、

宝くじの一等当選確率: 10,000,000分の1
交通事故での死亡確率: 10,000分の1

地球人口の中での自分: 7,000,000,000分の1
地球の富の半分を持つ富裕層の割合:70億分の1% = 70,000,000人

ピント来るような来ないような(笑)いずれにしても、だからまあ、失敗しようが成功しようが、自分の好きなことを一生懸命やれるような人生が良いのですよ。長寿国の日本ですが、男性の平均寿命は79.9歳。それまでいかに生きるかという感じでしょうか。

いずれにしても、僕は「ライフストーリー」が好きです。それぞれの生い立ちがあって、経緯があって、生き方がある。そんな話を、場酒場のカウンターで日本酒を呑みながら聞くのなんて最高じゃないですか。


この四日間で40kmを走破しています。今日も夕方10kmを走りました。さすがに足に張りが。でも、この「張り」が心地良いのです。ああ、走ってるなあ、という実感があって。足首や膝にキネシオテープを貼って怪我予防をしたり。

学生の試験勉強よろしくかなりのハイペースで直前練習をしていますが、あとは風邪を引かないように体調管理をしっかりしておけば3月のフルマラソンは大丈夫そうです。やっぱり冬場はマラソンのシーズンですね。暖かくなったらゴルフも復活しますが、今はとにかく走りに集中します。

また良い番組に出会ってしまった 〜桂枝雀ドキュメンタリー


20kmランから帰って来ました。

今日はとても良い天気。
ゆっくりLSD(Long Slow Distance)するつもりが、ペース5.35/kmで20km。これでもスローペースを心掛けたのですが、性格がせっかちなんでしょうかね、なかなかゆっくり長く、というのは苦手です。まあ、この土日のランレポートは明日のエントリーで詳しく書きます。


さて、普段あまりTVを視ないので、番組表をチェックするということもありません。

ですから、自分にとっての良い番組との出会いは「たまたまつけたテレビで放送されていた」という偶然の出会いでしかない。これは本当に運命的なもので、パッとみた瞬間に、その番組から流れる空気やナレーターの声に一瞬で引きこまれてしまう。本当に、たまにそういう番組と巡りあうことがある。例えばその内の一つが、昨年11月の記事「武井壮に学ぶストイックな生き方」紹介した、マスターズ陸上に挑戦する武井壮のドキュメンタリー番組。あれも、たまたまTVに目をやった瞬間、録画ボタンを押してしまっていました。

さて、昨日の朝、コーヒーを淹れながらたまたまTVに目をやると、桂枝雀のドキュメンタリー「君は桂枝雀を知っているか〜伝説の天才落語家の真実」が放送されていました。桂枝雀というと、上方落語の爆笑王。うちは父がファンで、車に乗る時によくカセットテープで枝雀の落語を流していたので、有名な演目は大体知っていますし、14年前に自殺で亡くなられた時も大きなショックを受けました。この番組は、昨年11月に放送されたBS朝日の番組再放送らしい。

僕が説明するよりも、まずは視聴してみるべし(出来るなら)。とにかく真摯に落語に向かっていく姿勢と、心の闇の部分が、家族や弟子や米朝一門の兄弟弟子達、落語作家らによって明らかにされていく。そして、そんなインタビューの中に挿入される枝雀落語の貴重な映像を見ると、やっぱり「めちゃくちゃ面白い」。いやすごい。並じゃない。天才薄命。

ちなみに昨日に録画した番組を、今朝も視聴してしまいました。どうも、こういう「何かに突き抜けている人のヒューマンドラマ」が大好きなようです。インスパイアされますよね。

人は寝込んだ時に何を考えるか(少し長め)


今週の半ばから体調不良、週の半分をほぼ寝込んだまま過ごしています(現在進行形)。ブログの更新も随分飛ばしてしまいました。中四日も空くのは中々ないことで、余程ヘバッているのだろうと察していただければ幸いです。

「耐性」には個人差があるかどうかは知りませんが、僕の場合、自慢じゃないけど「熱に対する耐性」が全くない。耐熱性0。何もできない、立っていることも座っていることもできない。ただひたすら薬を飲み、寝るだけ。それでも、やっぱり仕事の事が気になります。PCを開いて、メールをチェックしようとするも、ハンマーでどつかれたかのような朦朧とした意識と、持病の左肩甲骨の激痛(これがめちゃくちゃ厄介)で、座っていることもできなくなり、ぶっ倒れる。マラソンで培った「根性」もクソの役にも立たない。一応意識はしっかりしているので、ああ、これやらなきゃ、あれやらなきゃ、と焦りの気持ちで一杯になり、益々しんどくなってしまうという悪循環です。ああ、冬なんて来なきゃいいのにね。

というのも、毎年この時期になると、風邪やらノロウイルスやらインフルエンザやらが大流行し、こちらがいくら気を付けていても、罹患する時は罹患してしまいます。うちの会社でも絶賛大流行中。インフルなんて予防注射受けていようがいまいが、抗体がどんどん変化していくから余り意味がないというし、もう一体どうしたらいいのやら。すごく極端かもしれないけれど「元気か、死ぬ」つまり、「Active or Die」くらいの方がよっぽどいい。もうダラダラとしんどいのが身体的にも精神衛生的にも一番つらいのです。

愚痴が長くなってしまいました。
そのような訳で、ただでさえ隙間のないスケジュールが一週間近くも押してしまい、来週はリスケの嵐になりそうな予感です。色んなところに土下座しなきゃ(しないけど)。返信が遅れている関係各所ご迷惑を掛けております。ごめんなさい。


話は変わりますが、先日、1月19日にエントリーした「自分の直感を信じるということ、そして、それに従順であるということ」という記事に対して各方面から色々と反響をいただきました。

「幸福」をどの尺度で計るかは非常に主観的になってしまうため一旦置き、少なくとも自分が自分の人生の大部分を何に費やしたいか、という点と「幸福感」は密接に関係するように思います。しかし現実に目を向けてみると、悲しいかな、資本主義経済の下では「金」がなければ最低限の生活すら営むことはできませんよね。そこで圧倒的大多数の人は、まず「生活するために働くこと」になります。そして、一日の半分以上を仕事に費やす。最近は学生企業家も増えていますが、多くの人は何もチャレンジしないまま、まず「雇われる側」に回ることになる。そして、そのまま組織の一員として、働いていくことになります。

問題はここから。
その仕事を本当にしたいと思っているのか、夢中になれるのか、ワクワクするのか。それが、人生の目的なのか。それをするために生まれてきたのか。惰性ではないか、勇気はあるのか、確信を持っているのか、夢中になれることに没頭し、仮に失敗しても成功しても常にワクワクした人生を過ごしたいのか。

このような自問自答を、特に、組織や会社に依存せずに、とりあえず自分で食っていけるようなスキルや人脈を身に付けた人は、自分という軸を中心にして、常に繰り返しているような気がします。否応なしに突きつけられるというか。「直感に従順に従う」ということは、「自分がワクワクすること」を素直に追い求め続けることだと思いますよね。

かくいう僕は、会社の役員という立場であえてこういうことを書いている訳ですが、自分の仕事について、いつも「客観的」であるようにしています。それがワクワクすることなのか、面白いことなのか、人の役に立つのか。その気持ちが少しでも薄れて来たら、今の立場も潔く捨てるつもりです。あっさりと。一人で仕事をしているならまだしも、チーム(組織)ですからね、自分が悩みながら仕事していたら、必死でやっている周りの人間に失礼になってしまうでしょう。いずれにしても、後悔しない生き方を「2014年のテーマ」としています。直感に従順に、面白く生きたいですよね。

それもしても、早く体調を回復させなければ!

自分の直感を信じるということ、そして、それに従順であるということ

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PCを開くことがとても嫌になってしまった数日でした。

特に理由がある訳でもないけれど、自分の中で、仕事やメール、情報のI/O (Input/Output)を司る全ての媒体としてのPC、あるいはスマートフォンと関わることに急に嫌気が指してしまったのです。

そこで、この期間中(と言ってもたかだか二日間で、なんとか自分にむち打ちながら元に戻った)は、とにかく無理をせず、自分にとって心地良いと思える事だけをしようと思いました。極力、自分の志向にわがままになってみようと。

それはつまり、ジャズを聴きながら好きな分野の文献やエッセイ集を読み、コーヒーを飲み、10kmのランニングをし、出来るだけ車は使わずにトートバッグを肩からさげて歩き、散歩をし、連絡したい人とだけ連絡をし、馴染みのカフェに少し酒を飲みに行き、図書館に篭もる。

出張が続いていたということもあり、たかだか数日ではあったけれど、阪神間在住のものとしては忘れてはならない「1/17」という日も忘れてしまい(その日を知ったのは金曜日の最終便の飛行機で帰阪してから、地元のバーで常連さん達と話をしている時だった。ぎりぎりだ)、曜日の感覚もなくなってしまった感じでした。無気力、そう、無気力症候群のすごくスケールの小さなやつです。

で、こう書くと、今のこの「はい、色々疲れたので、したいこと以外は何もしませんよ」という居直ったコンディションの中で余分なものを全て削いだとしても、こんなにすることがあるんだと驚かされています。その他にも一つだけ仕事に絡むようなことはしましたが、それは、取引先がスポンサーをしているBJリーグの試合を観戦しに、若い頃に強豪校のバスケ部コーチをしていた父と二人で大阪の体育館まで出掛けたことです。確かに半分仕事ということもあるのだけど、それよりも久しぶりに父と二人で出掛けるという照れ臭さと共に、元コーチとしての的確な解説に驚かされたりしながら(当たり前だけど、少なくとも僕よりもはるかに専門的視点でゲームの流れを即座に分析している)、色々と話が出来たことは中々素敵な時間でした。


年頭の目標として掲げた、「elevation」という言葉。
1/1の記事から抜粋してみると、僕はこんなことを書いています。

“「elevation」つまり、上昇、跳躍。今までとは違うやり方で、思いっきり「跳ねたい」と思います。今まで「積み上げる」ことはして来ました。日々の習慣化のお陰でコツコツと継続して何かに取り組むことは得意になり習得したのですが、積み上げても見えてこない景色があることも、また事実。戦略的にもスピードが求められる年、今年はドラスティックな発想転換で「見えない景色を見る」年にしたいと思います。”

この、”積み上げてもみえてこない景色”をどのように見ようかと、気がだらんと抜けた時に色々と考えてみたところ、それは

「自分の直感を信じるということ、そして、それに従順であるということ」

だと気付きました。特にこの一週間でプライベートの場で出会った人たちからの何気ない言葉の数々は、このタイミングで本当に時宜にかなった仕方で降って来た言葉だったと思います。普段から極力、仕事関係なしに色んな分野の人と積極的に会うようにしているし、とてもありがたいことに食事の場をセッティングいただいたりして、素敵な方たちを紹介いただくのですが、それが、仕事と離れれば離れる程、気付きが多いのです。もうね、財産ですよ。

「直感」とは、自分の中のプリミティブな思考であると思うし、その思考は自分の中で「とても心地よく思うこと」「こうでありたいという価値観」「目指すべき方向性」と多分にシンクロすると思うので、間違いなく、それは自分の「志向」ですよね。それは、自分の人生をどう生きて行くべきか、素敵なものにしていくかの手段を見分けるコンパスのようなものであると思う訳です。

そこに「従順である」とは、自分に対して「嘘偽りなく、信じて従う」ことである訳で、人が何を言おうが、周りの環境がどうあろうが、自分の志向に対して言い訳せずに、信じたまま突き進むことが、自分の人生を、自分だけの自分という物語を彩りのある素敵なものにしていく。

人は大成功しようが大失敗しようが、金持ちになろうが貧乏になろうが、どのみち80年そこらで死ぬ訳です。あの時こうしていれば良かったと後悔することだけはしたくないし、「しない後悔よりも、した後悔の方が良い」に決まっていますよね。

ということで、今年の僕は徹底的にワガママに生きてみます。

直感に蓋をして、人の言うこと、周りの言うことにばかり耳を傾け過ぎて来た20年、自分のことよりも自分以外のことに気を使い過ぎて来た人生には疲れてしまいました。このまま、自分の直感を信じて好きなように活き活きと生きている素敵な人達を指をくわえて見ながらダラダラと年を重ねて行くのであれば、いっそのこと少し早めにこの世とお別れした方がマシだと思うので、少し極端にドラスティックに何かを変えてみたいと思います。 
 
 
 
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