黙って静かに暗闇の中でこそ輝く美に目を向けよう

体調不良のために文字通り「寝正月」になってしまったおかげで、たくさん本を読むことができました。今年に入って、もう四冊目に突入しています。我ながらハイペースですが、スマホから離れて庭木を眺め、日の陰りを感じている時に、久しぶりに読みたいなと思って引っ張り出したのが「陰翳礼讃」です。

谷崎の作品の中でも、何度も読み込んでいる「陰翳礼讃」ですが、この本も、先週紹介した村上春樹さんの「走ることについて・・・」と同様、マーカーだらけになっています。

しかし改めて、今の時代に必要な本だよな。いや、今の「自分」に必要なのかもしれない。1933年に書かれ、日本の美を暗闇と影に見出すこのエッセイは今の時代にこそ見直されるべき日本の美学ではないかと思うのです。

昭和初期、西洋で発明された便利な「文明の利器」が押し寄せる中、谷崎はその便利さを認めながらも日本家屋にはおおよそフィットしないそれらを見て、明るくピカピカのものではなく、陰翳によって生かされるのが日本の美であると語っています。

照明にしろ、暖房にしろ、便器にしろ、文明の利器を取り入れるのにもちろん異議はないけれども、それならそれで、なぜもう少し我々の習慣や趣味生活を重んじ、それに順応するように改良を加えないのであろうか

西洋の方は順当な方向を辿って今日に到達したのであり、我らの方は、優秀な文明に逢着してそれを取り入れざるを得なかった代わりに、過去数千年来発展し来った進路とは違った方向へ踏み出すようになった

美というものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを余儀なくされた我々の先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに至った

陰翳礼讃

 

その国や地域の文化、言語、慣習、住居などは、その土地の地形や気候、作物、手に入る材料などによって形成されています。しかし文明が進み、現代のようにグローバルな社会になれば、面白くもなんともない画一的な製品に囲まれ、同じようなサービスを同じような値段でどこの国でも入手できるようになりました。

経済も同じで、GAFAMのような巨大世界企業が世界を席巻し肥大化する一方、すべての国の住人がそれらが提供するサービスやテクノロジーに従属するような形になっています。海外から様々な経営手法や管理手法が輸入され、それが合うか合わないか関係なく、日本の会社にも導入されていき、それが「最新の手法」としてもてはやされます。確かに生活は便利になった。でも、そもそも全然違う文化人種に対して、テンプレのように何かを当てはめるのはどうなのかな。そこに「らしさ」みたいなものはあるのかな。日頃から、そんな風に考えています。

谷崎の陰翳礼讃は、それが書かれてから90年後の今、まさに自分が抱えるモヤモヤをスパッと解決してくれるバイブルのように感じます。

おもりを外そうとするのではなく、おもりを抱えて生きていく

信州から帰って来てからの年末年始はひどい風邪を引いてしまいまして、文字通りの寝正月になってしまいました。持病を何個も抱えている身として健康の大切さは誰よりも分かっているつもりですが、やっぱり健康第一です。

年末年始には、なぜか村上春樹さんの「走ることについて語るときに僕の語ること」が読みたくなります。この本は10年以上前に走り始めた頃からずっと手元に置き、事あるごとに開く本で、村上さんのエッセイの中でも一番好きな本です。

“日々走ることは僕にとっての生命線のようなもので、忙しいからといって手を抜いたり、やめたりするわけにはいかない。もし忙しいからというだけで走るのをやめたら、間違いなく一生走れなくなってしまう。走り続けるための理由はほんの少ししかないけれど、走るのをやめるための理由なら大型トラックいっぱいぶんはあるからだ。僕らにできるのは、その「ほんの少しの理由」をひとつひとつ大事に磨き続けることだけだ。暇をみつけては、せっせとくまなく磨き続けること。”

「走ることについて語るときに僕の語ること」村上春樹

ここ2年ほど、持病がひどくなり、先々の計画を立てることが難しくなりました。レースにエントリーしていも当日どうなるか分からない。練習の計画を立てていても、そのとおりにできるか分からない。うっかりバッグに薬を入れ忘れて外出すると、その日一日は恐怖で落ち着かない、そんな毎日です。でも、やっぱり箱根ランナーのように走っている人を見ると元気が出るし、自分も走りたいと思う。同じランナーのコミュニティでの会話は本当に楽しいし、そんな仲間たちが周りにたくさんいることが財産になっています。

であれば。
やっぱり自分も走ることを諦めないでおこう。遅くても、短い距離でも、昔のようにガンガン走れなくても、走ることは素晴らしいことで「たとえ長く生きなくてもいいから、少なくとも生きているうちは十全な人生を送りたい」(「走ることについて語るときに僕の語ること」引用)と考えている自分にとって、自分を律するためにも必要なことだから。いくつかある持病についてはずっと付き合っていくしかないので、無理におもりを外そうとするのではなく、おもりを抱えて生きていく覚悟です。抗わず、人生の旅の友として一緒に生きていく。その方が気楽ですよね。

というわけで、今年に入ってからまだ一度も走れていませんが、完治した暁には少しづつ再開したいと思います。今年はウルトラ一本、走りたいなと思っています。というわけで皆さま、2023年もどうぞよろしくお願いいたします。

12月に入りましたね。皆さまお元気ですか。

今年は本当に紅葉が美しくて。どこに行っても紅葉の色の濃さに目を見張ります。下の写真は早朝のゴルフ場。朝日が差してきれいですね。

12月に入ると同時に一気に冷え込みました。秋が過ぎて冬が来たという感じですが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。

私の方はというと、先日投稿した記事(現在の仕事の話」 2022年10月26日 )のとおり、日々忙しく仕事をさせていただいています。今年の3月に会社を退職してまだ8ヶ月しか経っていないというのに、こんなに目の前の景色が変わるものなのか。そしてこんなにあっという間に時間が経つものなのか。今年の春先がもう遠い昔のように感じます。

目の前の当座の仕事と、未来をつくる仕事。

自らの感覚の中で現在と未来を行ったり来たりしながら、日々走り回っています。出会う人たちの種類も少しづつ変わってきて、やはり類は友を呼ぶというか、点と点がしっかり線で繋がるというか。非常に刺激的で、そういうことを日々実感しながら、街を歩き、季節の移ろいを感じています。

そう、季節をしっかり感じることって大切ですね。

11月後半から忘年会もどんどん入って来ました。やあ、久しぶり。元気でしたか?そう声を掛け合い、久しぶりに顔を合わせる人たちと酒を酌み交わす。ついつい飲みすぎてしまうこともありますが、お互いの近況を確認し合うことの大切さを年々感じるようになっています。

我が家の紅葉もがんばっています。
その年、その年で、色の濃さが変わるのが面白いですよね。

いつから生えている木々か分かりませんが、慌ただしく動く人間を尻目に、悠々と生き、季節ごとに色を変える木々には力強さと余裕を感じます。ビジネスにはスピードが求められますし、日々目の前を膨大な情報が行き来していますが、誤解を恐れずにいうと焦ったり急いだり一喜一憂したとしても、結果はほとんど変わらない。そのことを木々は教えてくれているようです。

今年のお気に入りはこの一枚。↓

その街の幸せを、その街の住人が決めていく

窓を開けてコーヒーを淹れていると、外から金木犀の香りが漂ってきます。夜、少し肌寒くなるこの頃が一年で一番好きな季節です。

昨夜は久しぶりに六甲道をスタートしてHAT神戸を周って帰る神戸ランを楽しみました。走った後はもちろん、銭湯で汗を流し、ラン友さんたちとトリキで金麦メガを流し込む極楽コースです。

神戸は海も山も美しい街です。海沿いのランナーのメッカ、HAT神戸の夜景はまた格別です。

海辺の夜景が美しいHAT神戸

神戸は人口減少や衰退やらなんだかんだ言われていますが、僕としてはこの手頃でコンパクトな街のサイズが大好きです。夜、三宮に飲みに行っても閑散としていますけど、健全といえば健全だし、ライフスタイルが大きく変化して、そういう時代に突入したんだろうなと思っています。

最近特に思うのは、規模や順位になんの意味があるのだろうかということです。

サイズや数を気にするということは、それを良し(あるいは正義)としているからですが、脱成長時代においてはむしろ質を気にするべきです。株価や売上や人口はもちろん大切ですし、観客動員数も、利益率も、人口増加率も、経済成長率も、高ければ高い方が良いと、子供の頃からずっと教わってきました。でも、それを追いかけるのはほぼ不可能です。新しいビルが建てば、どこかのビルが空く。梅田が再開発されると本町が閑散とする。どこかの街の人口が増えると、どこかの街の人口が減る。総数が増えず縮小しているのだから、限られたパイを奪い合っているだけです。

そこで質の話になるのですが、大きければ良しというのではなく、個人としての幸福度をどう上げて行くかが問われているように思います。割とドラスティックに考え方を変えることと、本質を見極める力を養わなければなりません。生きるとは、働くとは、国家とは、文化とは、歴史とは。ただ働いて金を稼げば良いというのではなく、一見ビジネスとは無関係の要素と向き合い、自分の幸せを自分で決定していくことが求められるし、街も同じだと思っています。

その街の幸せを、その街の住人が決めていく。
「よそのことは知らない。ぼくらはこれが幸せなんだよ」

そんなことをさらりといえる大人になりたいものです。

【閲覧注意】自己責任でしか生きることができない厳しい時代の到来

年金65歳引き上げ問題がここ数日の大きな話題になっています。

国民は馬鹿ではないので、そんなこと百も承知なんですけどね。そんなこと分かってるのに国が公に年金制度が破綻していると認めてこなかったことに、僕はものすごく憤っています。アラフィフの僕たちがトバッチリを食うのはまだいいわ。今の若者、そして、これから生まれてくる子供たちのことをどう考えているのか。子供たちに負担を負わせて、少子化問題を解決?東大卒の官僚や政治家はこんな無能でしたか。

子育て世代はみんな実感していると思いますが、子育てってものすごくお金が掛かるんです。少なくとも日本では。子供一人年間100万円と思ってください。大学生の子供がいたら、年間200万円です。普通の人、子供持てますか?今の日本で年収2000万円の人、どれだけいます?無理でしょう。

僕が政治家なら、そして、もし、こんなことがまかり通るなら、子供に負担負わせるくらいなら、人生にも定年を設けなければならなくなるといいます。80歳までは面倒見るけど、それ以降は年金なし。あとは好きにやりなさいといいますよ。タンス貯金崩しなさいといいます。タンス預金がない人は働け。その時に仕事があるかないかは知らん。国はアンオフィシャルにこう言っています。老後は自分でなんとかせえ。死ぬまで働け、仕事があるかどうかは知らん。と。

むしろ子供一人あたり出産したらご祝儀として1000万支給したいですよ。今の制度は逆です。子供生んだら、お金かかるんです。子供は贅沢品なんですよ。どんな社会やねん。衰退無能国家の典型ですよ。

子どもたちがワクワクしながら未来を待つような社会にしたいです。今のままでは子供たちがあまりにかわいそうです。必死で勉強して、必死で大学行って、必死で就活して、手取りわずか20万の半分が税金と社会保険に持っていかれるなんて。人生なんのために生きてるのかと思いませんか。夢も希望もない時代が、今まさに来ています。

皆さん、この問題をどう考えますか?マジで政治家を呼んでちゃんと議論したいです。これから先、経済成長が見込めないなら、消費税撤廃、もしくは、BI(ベーシックインカム)導入しかありません。衰退社会、シュリンキング・エコノミーというのはこういうことなんです。右肩上がり成長は2008年を境になくなったんです。なぜ認めないのか。

久しぶりにブチ切れてます、僕。

日常使っている何気ない言葉の意味について

毎日忙しい日々ですが、できるだけ集中力を高めたい時、締め切りに追われてお尻に火がついた時、「よっしゃ、気合いや!」という言葉が勝手に出てきます。毎日「気合い」という単語を何度つぶやくことか。それほどまで「気合い」は日々の生活と共にあります。

でも良く考えてみると「気合い」の意味について良く知らなかった自分がいました。さらに悪いことに「気合いじゃ〜」と言ったところで、やる気がでない時は何も起きないことも日常茶飯事です。そこで今一度「気合い」の意味について調べてみることにしました。

Weblioを見てみると以下のように定義されています。

き-あい 【気合(い)】
読み方:きあい

1,精神を集中させて事に当たるときの気持ちの勢い。またそのときの掛け声「_がこもる」「_をかける」

2,呼吸。いき。「_をはかる」「_が合う」

Weblio辞書 

 
なるほど、気持ちの勢いか。あるいは呼吸。非常に抽象的なのでちゃんと理解できたかというと良く分かりませんが、言葉には力がありますので、それを口に出すことで精神が集中され、事に掛かる時に勢いが生まれるのかもしれませんね。

あなどることなかれ。騙されたと思って、これからも使い続けよう。

同じように「癒やされる」という言葉も日常的に使用しています。この「癒やされる」も実はあまり意味を知らずに使っていました。ということで同じweblioで調べてみると、

癒やされる
読み方:いやされる

それとの関わりを通じて、辛い思いなどが和らぎ、穏やかな気分になること。ストレスが軽減されること。

Weblio辞書

 
そういえば、仕事で煮詰まった時、ホームセンターのペットコーナーに行くことがあります。僕は動物全般、特に猫が好きなので、猫コーナーでじーっとにゃんこ達を眺めていると自然と目尻が下がり、笑顔になっています。

同じことが自然の中でも起きます。森の中を散歩する、空を見上げる、砂浜から海を眺めるといった行為を通じて、自然と肩の力が抜け、こわばっていた表情が緩むのです。

「癒やされる」という言葉について深く考えた時、それは「これでいいんだ、大丈夫」という気持ちなることと同意義なのかもしれません。日常に追われているとどうしても近視眼的になりがち。人との関わりも多いので、余計に視点が狭まってしまいます。でも、自分が生きている世界なんてちっぽけなもの。

自然の中に身を置いたり、猫を見たりしていると、「これでいいんだ」と思うし、自己肯定感が高まります。忙しい時ほど、苦しい時ほど、自分が生きている多様な世界に目を向ける。人間から離れる。

見る対象を変えることは大切ですね。日々、勉強の繰り返しです。

口角を上げて笑顔でいることって想像以上の良い効果がありますよね

普段、小難しいことばかり考えていることが多く、知らずしらずの内に険しい顔つきになっているなあと、ふと気づきました。

確かに生きていると良いことばかり起こる訳でもなく、たまにガッカリすることもあるのですけどね、世の中全然捨てたもんじゃなく、毎日の生活の中で笑顔になるようなことがたくさんあります。

例えば、仕事部屋からは緑がたくさん見えるし、毎朝、近所の植物園までジョギングして、マイナスイオンたっぷりの新鮮な空気の中で深呼吸する。これって本当に今自分が手にしている生活の中の素晴らしい一面です。それに、眉間にシワを寄せて考えている小難しいことだって、結局は社会を良くすることであったり、対象となる会社を成長させることだったり、人を笑顔にすることだったり、ビジネスであろうが、ボランティアであろうが関係なく、楽しいことばかりです。そう考えるとPCに向かっている時も、MTGの時も自然に笑顔になれることに気づきました。テンションが低い時は、無理やりにでも口角を上げると自然に笑顔になるんです。

で、なんでこういうことをわざわざ書いているかというと、元々、自分がかなりのネガティブ思考でして。しかもタチの悪いことに、ロジカルなネガティブ思考なんです。どういうことかというと、ダメだと思うことは、ダメな理由をロジカルに考えて、ダメなエビデンスを参考文献と共にレポートにまとめて提出してしまうくらいのロジカル・ネガティブシンキングな持ち主なのです。

でもね、過去の経験から理解しているのですけれど、これって何もプラスのものを生み出さないのですよ。何も良いものを生み出さないのであれば、最初っから陽転思考でニコニコしながら、どうにかなるさーって考えてる方がよっぽど良い。怒りや失意からは何も生まれないのと同じですよね。最初っからニコニコしてるといいよね。

それとね、自分のことばかり考えていると笑顔になれないです。人って、自分のためではなく、他人のために動く時に幸福を感じるのだと思います。

というわけで、最近は、ねじり鉢巻を頭にまき、一升瓶抱えて「かまへん、かまへん、ガッハッハッハー!!!」というオッサンを頭の中でイメージしながら、常に笑ってる自分でいるようにしています。

極端か。笑

最後に、近所の北山植物園のバラをおすそ分け。百花繚乱、咲き乱れていますよ。平日の早朝の植物園は人もほとんどいなくて、貸し切り状態。ゲートが開いている時はいろんな植物や花を見ながら歩いています。

口角を上げる練習。


年始には想像もしなかったような素晴らしいギフトをいただいた一年

今年を振り返った時に、自分が見ている景色がまったく違うものに変わったように感じます。特に今年の後半は仕事面でもプライベート面でも、身の回りが大きく変化し始めました。

昨年はコロナ禍による変化の中で、今後のキャリアや人生そのものをどう舵取りすれば良いかを自問自答し、その選択の中でどのように自分が社会に役立てるかを考えつつ、一方で体調の激的な不調も相まって悩み苦しんでいたのですが、今年は「ようやく道が開けた」と感じる出来事が多くありました。それらの出来事の一つひとつを書く前に、今年の振り返りを行ってみたいと思います。

2021年、年始に立てた目標の一つに「お金にならないことに全力投球」というものがあります。今年の元日のブログにはこのように書きました。

「所有よりもシェア。密よりも疎。囲い込みよりも開放。物質的な幸福より精神的な充足。管理よりも信用。お金よりも人とのつながり」

新しい時代を作るために同じ価値観を共有する人たちとの繋がり、コミュニティを益々大切にしていきます。いろんな意味で今年が資本主義のグレート・リセット元年になりそうです。

二つ目は、僕は変わらずここにいるよ、という安心感を与えることが出来る存在になりたいと思っています。VUCAの時代、不安が渦まく時代において、帰る場所という普遍的安心の場に自分自身がなる。そのためにはまず自分が強くならねばなりませんからね。組織という単位だけでなく、自分自身が強い個となることを目標としています。

【2021年】事業は30%成長、プライベートではお金にならないことに全力投球(2021/1/1 ブログ記事)

今年を振り返った時に自分が個として強くなれたかどうかは分かりませんが、「同じ価値観を共有する人たちとの繋がり、コミュニティ」は信じられないくらい強くなりましたし、本当にこの一年、今までにないくら新しい人々と出会うことができました。自分が大切にしたいコミュニティの数が増え、それはマラソンやゴルフといった趣味のコミュニティから、社会課題にどう向き合っていくか、対処していくかを真剣に考える産学官民が一つになった社会人の学び場であったり、政治・経済に関する意思決定に関わっていく部分であったり、多方面に広がりました。

濃い人間関係ができる一方、薄まっていく関係も当然ありました。それは自分が次のステージに向かうための「棚卸し」のようなものだと思っています。利害を求めて人間関係の取捨選択をしているわけではもちろんありません。自然に淘汰されて行ったという感じです。次のステージに上がるためのダイエットのようなものかもしれません。ちなみに「利害関係、金儲け」を優先することは、僕が今、一番距離を置きたい考え方です。それもあって「お金にならないことに全力投球」を例年以上に真剣に実践してきました。すると本当に不思議なんですけれど、過去最高にお金まわりが良い一年になりました。これは結果論であって求めてそうなったというわけではありません。

自分から広げよう、動こうと思っていないのに、ありがたいことに多方面から様々なお声掛けをいただくようになったのが今年の後半です。周りが動いてくださったということなんでしょう。多くの方々と出会い、学ばされることが本当に多い一年でした。感謝しかありません。それぞれの活動についてはまたゆっくりとご紹介したいと思います。

 
今年の1月に母が亡くなり、心に大きな穴が空いたままでいることに変わりはありませんが、渦巻いていた様々な感情が吹っ切れ、ただ純粋に、自分の持てる物で社会の役に立つためにはどうすれば良いかということをひたすら考え、追求した一年でした。そして、振り返ってみれば本当に素晴らしい一年になりました。100点満点、いや、それ以上を自分に与えてあげたいと思います。本当によくがんばった、自分。

今年は、たくさんの種を撒くことができました。
撒いた種を来年2022年に育て、大きく刈り取って行きたいと思っています。

どうぞ皆様にとっても、来年が素晴らしい一年になりますように。

情熱とビジネスの相関性について

12月に入りました。
PDCAサイクルが早い人は年末に限らず、常に振り返りを行っているかと思いますが、なぜだか12月と聞くと習慣的に一年の振り返りモードに入ってしまいます。

今年は自分としても大きな変化の年でした。そして周りを見回してみても、不確実な世の中における「自分のあり方」を模索している人が多いことに気付きます。大きな変化の中で自分自身の最適化を求め、思い切って住む環境を変えたり、転職したり、独立する人も多いですよね。

大きな情熱を持ってなにかに取り組むのは素晴らしいと思います。じゃあ自分はなにかに情熱を持っているだろうか。こと、ビジネスや会社という枠組みに対して。

残念ながら、年々低下しているように感じます。今となっては、ほぼ0に近い。あまりに多くを見過ぎたのかもしれない。「情熱とビジネスに相関性はない」というケースを嫌というほど見てきたからかもしれない。ちなみに「情熱とビジネスに相関性はない」という真実は、学歴と仕事ができることとは比例しないことや、お金と幸せはリンクしないことなどと同様、大人になって気付いたことの一つです。

ビジネスのアイデアを考える時、こうすればうまくいく、これは絶対売れる、これは多くの課題を解決する、と色々と思い浮かぶし、絶対こうあるべきだと強い確信も抱きます。でも、それはあくまでそのアイデアを求めている人がいるかどうか(=市場)でビジネスとして成功するかどうかが決まります。

自分がやりたいことと、それを飯の種にできるかどうかは別、ということです。

良くデータとして引き合いに出される「起業してからの生存率」ですが、創業から1年後は40%、5年後は15.0%、10年後は6.3%。 20年後はなんと0.3%の会社しか生き残っていません(←まあこの数字もほんまかいな?と思いますけどね、周りで起業した人みんな5年10年やってますからね)。

スタートアップの場合ですが、失敗して撤退する理由の第一位は「市場が存在しなかった」というものです。次に資金枯渇、人材不足、競合に負けた、などと続きますが、僕の肌感覚としても「市場がない(あるいは小さすぎる)」というのがほとんどだと思います。これはスタートアップだけでなく、企業の新規事業も同じです。

逆に今市場がなくても今後拡大しそうだ、という分野には資金が集中します。例えば、ロボットや自動運転、今流行りのメタバースなどですね。でも、ヒット製品を生み出さなければいずれ撤退の第二位である「資金枯渇」に繋がって行きます。

いずれにしても、情熱や想いだけではなんともならないということが良く分かります。市場の有無とマーケティングがとても大切です。そこを見ずに情熱と想いだけで「これやりたい」という人が多いので、ちょっと困ってしまっています。確かに成功者の本なんかには「情熱と想いが一番大切」とどこにでも書いてますけど、それは成功したから言えることですね。「諦めるまでやめない」というのも同じです。最終的に成功したから結果として報われたということです。

一方、そういう人のことをうらまやましく思うこともあります。自分が「情熱」に対して食傷気味とはいえ、やはり情熱がないと成し遂げられないこともたくさんある。今年の振り返りとして冷静沈着になり、「拡げるよりも畳む」方にシフトしつつあるとはいえ、種はいくつかある。来年は小さくても「これ」というものに出会いたいと思っています。

お願いです、できれば中身だけください

ゴルフってまだまだ昭和レトロな文化が色濃く残っているスポーツだと思います。どんなスポーツでも気軽にできるようになったのに、ゴルフ場によってはハンディキャップの申請や会員権、クラブ競技などこれから始めようという人から見たらハードルが高いことが多い。もちろんネットで簡単に予約は取れるようになり、プレーするだけなら気軽にできるのですが、正式なハンディキャップをもらおうと思うと、どこかのクラブに所属しなけれがなりません。

元々は社交クラブのようなところからスタートしているからだと思いますが、未だにメンバーは男性限定のところもありますもんね。

先日、ゴルフ仲間からの紹介で、あるゴルフクラブの会員になりました。それ以外に、元々メンバーになっているクラブは別にあり、そこをホームコースとしてハンディの申請をしているのですが、まあホームコース以外にもうひとつくらいメンバーになっているクラブがあっても良いかな、くらいの気持ちです。仲間の方もたくさんいらっしゃいますし。

通常、あるクラブのメンバーになったら、キャディバッグに付けるためのネームプレートが送られてくるのですが、これがまた立派な化粧箱に入ってくるのです。もちろん、由緒あるクラブの場合はそれなりのステイタスというか、そこまでひっくるめての体験の提供なのだと思います。高級なクレジットカードが宝石箱のような箱にワインと一緒に入って送られてくるのと同じようなイメージでしょうか(今はそんなんないんでしょうかね)。

僕がメンバーになったクラブは比較的カジュアル志向だとは思うのですが、それでもこんな感じ。

でも、僕のような「ミニマリスト」からすると、できれば中身だけ欲しいのです。だってこの化粧箱、取っておいても使わないでしょ。もうね、僕の場合は中身だけ出してすぐに廃棄してしまうのでエコじゃないというか、もったいないのです。

今後は、こういうところも含めて、「箱付きで欲しい人」と「中身だけ欲しい人」で選択ができるようにすれば良いですね。ショップなんかでも簡易包装を選択できる場合もあるし、賛否両論ありますがエコバックなどは大賛成です。なぜなら、自宅に山のように紙袋とかビニール袋が溜まっちゃうから。結局、大掃除の時に全部処分しちゃいますからねえ。

何がエコでそうじゃないか、効果はあるかないかの議論はさておき、自分の場合はできるだけ物を持ちたくなくて常に身軽でいたいので、今後は自分から「もし可能であれば中身だけください」と働きかけて見ようと思います。そういう場面がどれほどあるか分かりませんが・・・

ただ、問題はAmazonなどの通販なんですよね。どんな小さなものでも絶対ダンボールに入って届きますもんね。