抗わずに受け入れると楽になる

6月に入りました。梅の収穫シーズンです。
 
我が家の庭には、三本の梅の木があります。その内の一本は斜面に立っているので収穫することは困難なのですが、それ以外の二本からは毎年、たくさんの梅を収穫します。

今年は嬉しいことに、きれいで大ぶりの梅が多かったです。出荷できるんちゃうか、というくらいたくさんの梅を収穫することができました。

農薬も肥料もなにもあげず、勝手に生えてるだけなのに、季節になると実をつける。僕たち人間はそれを見て、今年は大きいな、小さいな、豊作だな、不作だな、と言っているだけで、与えられるものをそのままいただいているだけなんですよね。

自然のまま、という言葉の大切さを最近特に感じています。
 
ありのまま、とか、抗わない(あらがわない)とか、自然体、とか、様々な表現ができるかもしれません。自然の恵みをそのままいただくのと同じで、身体や、環境の変化なども、そのまま受け入れると楽ですよね。

僕の場合、病気の影響で、体温が上昇すると発熱する(免疫暴走してしまう)ということが分かってきました。例えば、お酒を飲んだり、ランニングなどの激しい運動をすると、もれなく高熱を発熱します。また、疲労や、緊張も良くないようです。一度発熱すると一週間は続くので、割と細かな用心が必要です。

走って飲むということが趣味だったので、この二つが同時に出来なくなっていることは残念なことではありますが、「抗わない」こと、受け入れること、そして、別の楽しみを見つけることで変化に適応していくことが心身ともに健康に過ごすことの秘訣だと思います。そういえば、先週は東京に四日間出張していたのですが、すべての会食をノンアルで過ごしました。いや、これ、全然楽しかった!飲めなくても全然楽しい。むしろ健康的だし、新たな発見です。

そういえば、今朝たまたま目に止まった蛭子能収さんの記事、まさに自然体やなあ、と思いました。

「“蛭子さんの人生相談”最終回「言いにくいことを言い出すには?」

自分のしたいことに嘘がない。ダメ人間で何が悪い。
この開き直りとも言える自然体が、キラキラSNS時代の中にあって、より一層際立ちます。こうでなければならない、こうすることが成功の秘訣、そんな外部の情報に一切影響されず、無理せず、かっこつけず、(人には迷惑を掛けないように)自分に正直に我が道を歩んで行きたいものです。

新緑が眩しい季節になりました

桜の花が散り、新緑が美しい季節になってきました。

冬の寒さを超えて、花を咲かせ葉を茂らす木々のパワーを見ていると「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く」という言葉を思い出します。目に見えて何かを行うことも成果を出すこともできない。でも、見えないところでしっかりと根を張る。心を鍛え、精神を強くすることが「根を張る」ことに繋がるのかもしれません。こういうプロセスを経て、また新しい自分、アップグレードした自分に出会えるのでしょう。

そういえば、同じことを三年前にも書いていました。
「一番嫌な持病が再発した今日、思ったこと。今は身体が古きから新しきにアップグレードする過渡期なんだろうな」2020年3月2日

少し歩けるようになったので、近所の植物園までゆっくりウォーキングに行きました。歩いたのは3週間以上ぶりでしょうか。病気の影響で自分でもびっくりするくらい動悸と息切れがひどく、一ヶ月前までガンガン走っていたのが信じられないくらいの状態ですが、これはもう仕方ない。こうして外を歩けるだけも大きな大きな進歩です。

ここ一週間を振り返ってみると、数ある検査の中で一番プレッシャーになっていた気管支鏡の検査も終わり、ほっとしています。鎮静剤がちゃんと効いてくれたので(個人差があるので、全然効かない人もいるんですと脅されていました・・・笑)、寝ている間に検査が終わった感じで、これは本当に良かった。苦しまなくてすんだ。

あと、35年ぶりに入院というものをしました。一泊二日の検査入院だったので噛みしめる暇もなかったですが、でも、病院というのはあまり気持ちの良いところではないですね・・・とはいえ、本当に良くしていただきました。大学病院だったのでスタッフの方も若い方が多く、みなさん親切で。医療従事者の方に感謝です。

これで予定されていた検査はすべて終了し、GW明けに今後の治療方針が出る予定です。少なくとも、今の状態が維持できれば、運動はともかく仕事をする分には問題なさそうです。
仮に以下のようにコンディションを段階分けするとすれば、

1,日常生活は問題なくできる
2,体調によっては外に出れる
3,身体は動かないけど、頭は働く
4,寝たきり

今は、3と2の間、2.5くらいのところ。うん、上出来、上出来。
小さなことからコツコツと。

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前回のブログを見ていただいた皆様から、本当に多くの気遣いや激励のメッセージをいただきました。一つひとつのお言葉から本当に元気をいただいています。心を寄せていただいていることがどれだけ大きな力になるか。心から感謝しています。

大丈夫。全部そのまま受け入れよう

 この春は元気だな、ひょっとしたらこのまま行けるかもしれないな

そう淡い期待を抱いていた矢先に高熱がドカンと出て早2週間が経過。4月の発熱というのは2020年に始まり今年で4年目。春の風物詩のようなものだけど、今回は熱が高過ぎたことと倦怠感があまりに辛いので、精密検査を受けたら(コロナ、インフルはもちろん陰性)、別のものが見つかりそこから紹介状を持って色々な専門病院で検査続き。すべての結果が出るのはGW明け。

仕事も出張もトレランもゴルフも会食も、発熱と入院で全部キャンセル(関係各所ごめんなさい)。また今年もか・・・

落ち込もうと思えばいくらでも落ち込める。

予定のキャンセルや延期の連絡をさせていただくのは本当に申し訳ない気持ちになるし、5月のウルトラトレイルに向けては体調が悪いなりに昨年末から順調にトレーニングを重ねてきたのに、体重はこの2週間で5kg減り、体力も筋力も落ち、今は1kmも走れない。一ヵ月後のウルトラトレイルなんて想像すらできない。

でも、これが僕の人生だ!!

大丈夫。全部そのまま受け入れよう。僕の場合はありがたいことに持病の色々で心を鍛えていただいてる。健康じゃない人の気持ちも分かるし、動きたくても動けない人の気持ちも痛いほど分かる。人生、思い通りに行かないことの方が多いのも知っている。命は儚いし、いつどうなるかも分からない。だから、もし身体では負けても、心と想いだけは負けないように。そして、今出来ることを一生懸命するように。

幸い、今年は桜満開の時期が元気のピークだったので、近所の名所を何度も花見ランすることができたし、今回、色々と見つかったお陰で、徹底的に調べて治療してもらおうと思っています。そして、かならず復帰するし、一ヵ月後も、絶対走ってやる。

ベッドに横たわり天井を見上げながら、そう思って腐らず、たまに庭に出て、日ごとに開く花の数が増えていくモッコウバラにパワーをもらってます。何かを主張するわけでも求めるわけでもなく、必ず春には花を咲かせてくれる植物の強さってすごいですよね。あと、ずっと寝ているのもしんどいので、少しづつ仕事をしながら明治維新の本ばかり読んでいるのですが、今が令和だということを忘れそうです。(PCを打つのもしんどいので、このブログもかなりの時間を掛けて書いています)

お取引先や仲間たちにはご迷惑、ご心配をおかけしておりますが(激励のメッセージ、ととても励みになっています!)、必ず復帰しますので、もうしばらくお待ちください!!

思い(想い)の役割とは

どちらかというとロジカルに物事を考えてしまうタイプなので、精神論とか「思いの強さ」という考えは苦手だったんですね。でもWBCなどを見ていて思ったのは、思いの強さが最後は勝つということなんだなと。

というのも、ここ一番の勝負どころって誰にでも色々とあるじゃないですか。大切なプレゼンであったり、商談であったり、テストであったり、レースであったり。それに向けて事前にしっかりと準備して本番に備えるわけです。でも、当日になって体調不良やなにかしらの不可抗力が起こり、思い描いたような「完璧な状態」で臨めることの方が少ない。そこで、がっかりして意気消沈するか、諦めずに挑んでいくかが勝負の分かれ目になると思うんですよね。思いの強さは、ここで出てくるんだなと感じています。すごく漠然とした言い方ですが、思いが強いか弱いかでその先の未来が決まるんだなと思うんです。

4月という時期は、個人的に体調を大きく崩す時期でして、今年も先週末からガクンと来てしまいました(ブログの更新ができなかったのはそのためです)。今までと違うのは、単なる高熱だけではなく、精密検査の結果、来週から別の病院で検査入院までしなければならない事態になってしまったこと。病院の先生方が本当に親身になってくれて、早めに動いていただいて良かったなあと思っています。関係各所には予定のキャンセルや調整で多大のご迷惑をおかけしています。

なんだか予想もしないようなことが次々と襲ってくると、気持ちが前向きになれないんですよね。もともと計画どおり動きたい性格だし、キャンセルとか延期とかすごく嫌なので、なんでこうなるんだろと意気消沈して腐ってしまいそうな自分の気持ちと格闘しています。ここで冒頭の話に戻りますが、今こそ思い(想い)の強さが大切だなと。ピンチはチャンスといいますが、良い機会だと思って、自分でしっかり気持ちを前に持って行きたいと思っています。身体は仕方ないとして、心を鍛えることはどんな状況でもできますもんね。

目指すは珍味

我が家は父方も母方も祖母が健在でして。
ふたりとも95歳前後なのに、特に病気をすることも、認知症もなく、本当に健康に暮らしています。おばあちゃんたちを見ていて長寿と健康の秘訣について思うことは、「土に触れること、良く食べること、良く寝ること」この3つだと思っています。あとは、友達がどれだけたくさんいるか。技術やITやエコノミクスとかはどうでも良くて、ただ毎日を生きる。たっぷり寝て、ご飯つくって、働いて、食べて、寝る。なにかのタイミングで生活がドラスティックに変わったり、科学技術の革新によって考え方が変わったわけでもない。戦前から戦中、戦後の混乱期、高度経済成長期、バブル、失われた30年・・・それぞれの時代の中で、なるように生きてきた。

僕はそれだけですごいことだよな、と感心すると共に、人間の本質って基本的に変わらないとも思うのです。

最近、福沢諭吉先生の自伝を読み返しているのですが、150年前でもその当時と昔を比べておられますし、文豪・谷崎の戦前の随筆の中でも、いまどきの若い子は言葉使いが変わってきた、とか、服装が変わってきた、とか書かれているんですよね。つまり、いつの時代も同じということなんでしょう。

今週も様々なニュースが飛び込んできました。SVBやCSなどの銀行破綻による金融不安、米国IT企業の大規模リストラ。その間にもGPT-4やBardなどのレビューも相変わらず絡みあって、これからの時代はどうのこうのという論調が目立つんですけど、はっきり言って「そんなもん」でしょう。良い悪いをただただ繰り返すのが人間の歴史です。

ここ30年という短い間だけでも、ドットコムバブルの崩壊、リーマンショック、コロナショックがあり、なにかある事に大規模リストラが行われ、景気が良くなると大規模雇用が行われてきました。今はインフレ抑制のための金利上昇による株安とリセッションを見越してのリストラなわけで、一通り落ち着いたら、また雇用が促進される。一喜一憂したり、起きている事象を分析して論評したりするのではなく、自分の生活を自分なりに、コツコツと積み上げていくことが大切なのだろうと思います。

そうそう。
先日、産学官民連携団体KNSの定例会が関大梅田キャンパスで行われたのですが、僕も含めて多くの方が社会課題解決のために「ローカル」と「共助」と「人間らしさ」をテーマに活動されていることが分かりました。やっぱりそうだよね。大切なのは半径数メートルの人間関係と思いやり、そして、自分らしく意思決定しながら人生を歩むこと。儲からないことを一生懸命やるところが日本人らしくて良いなと思っています。

日本全体としていえることだと思いますが、世界のスタンダートを目指すのではなく、やはり「珍味」になることが大切だと思うんです。目線を上に上げすぎても下に下げすぎてもだめで、バランスの良さを保ちながら、ハンバーガーやピザではなく、珍味を目指す(笑)グローバルニッチというのか、土地に根ざす文化というのか。島国という土地に根ざす文化から出てくる製品やサービスが海外で受け入れられるわけないじゃんという割り切りも大事なのではないでしょうか。

いずれにしても、何が起きても動じず、そうそう、こんなもんだよね。人間の歴史って山あり 谷ありだよね、と思えるようになれたら楽ですね。うちのおばあちゃん達のように、健康長寿の秘訣はそれだと思います。

先日の中華ランチ美味しかった

黙って静かに暗闇の中でこそ輝く美に目を向けよう

体調不良のために文字通り「寝正月」になってしまったおかげで、たくさん本を読むことができました。今年に入って、もう四冊目に突入しています。我ながらハイペースですが、スマホから離れて庭木を眺め、日の陰りを感じている時に、久しぶりに読みたいなと思って引っ張り出したのが「陰翳礼讃」です。

谷崎の作品の中でも、何度も読み込んでいる「陰翳礼讃」ですが、この本も、先週紹介した村上春樹さんの「走ることについて・・・」と同様、マーカーだらけになっています。

しかし改めて、今の時代に必要な本だよな。いや、今の「自分」に必要なのかもしれない。1933年に書かれ、日本の美を暗闇と影に見出すこのエッセイは今の時代にこそ見直されるべき日本の美学ではないかと思うのです。

昭和初期、西洋で発明された便利な「文明の利器」が押し寄せる中、谷崎はその便利さを認めながらも日本家屋にはおおよそフィットしないそれらを見て、明るくピカピカのものではなく、陰翳によって生かされるのが日本の美であると語っています。

照明にしろ、暖房にしろ、便器にしろ、文明の利器を取り入れるのにもちろん異議はないけれども、それならそれで、なぜもう少し我々の習慣や趣味生活を重んじ、それに順応するように改良を加えないのであろうか

西洋の方は順当な方向を辿って今日に到達したのであり、我らの方は、優秀な文明に逢着してそれを取り入れざるを得なかった代わりに、過去数千年来発展し来った進路とは違った方向へ踏み出すようになった

美というものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを余儀なくされた我々の先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに至った

陰翳礼讃

 

その国や地域の文化、言語、慣習、住居などは、その土地の地形や気候、作物、手に入る材料などによって形成されています。しかし文明が進み、現代のようにグローバルな社会になれば、面白くもなんともない画一的な製品に囲まれ、同じようなサービスを同じような値段でどこの国でも入手できるようになりました。

経済も同じで、GAFAMのような巨大世界企業が世界を席巻し肥大化する一方、すべての国の住人がそれらが提供するサービスやテクノロジーに従属するような形になっています。海外から様々な経営手法や管理手法が輸入され、それが合うか合わないか関係なく、日本の会社にも導入されていき、それが「最新の手法」としてもてはやされます。確かに生活は便利になった。でも、そもそも全然違う文化人種に対して、テンプレのように何かを当てはめるのはどうなのかな。そこに「らしさ」みたいなものはあるのかな。日頃から、そんな風に考えています。

谷崎の陰翳礼讃は、それが書かれてから90年後の今、まさに自分が抱えるモヤモヤをスパッと解決してくれるバイブルのように感じます。

おもりを外そうとするのではなく、おもりを抱えて生きていく

信州から帰って来てからの年末年始はひどい風邪を引いてしまいまして、文字通りの寝正月になってしまいました。持病を何個も抱えている身として健康の大切さは誰よりも分かっているつもりですが、やっぱり健康第一です。

年末年始には、なぜか村上春樹さんの「走ることについて語るときに僕の語ること」が読みたくなります。この本は10年以上前に走り始めた頃からずっと手元に置き、事あるごとに開く本で、村上さんのエッセイの中でも一番好きな本です。

“日々走ることは僕にとっての生命線のようなもので、忙しいからといって手を抜いたり、やめたりするわけにはいかない。もし忙しいからというだけで走るのをやめたら、間違いなく一生走れなくなってしまう。走り続けるための理由はほんの少ししかないけれど、走るのをやめるための理由なら大型トラックいっぱいぶんはあるからだ。僕らにできるのは、その「ほんの少しの理由」をひとつひとつ大事に磨き続けることだけだ。暇をみつけては、せっせとくまなく磨き続けること。”

「走ることについて語るときに僕の語ること」村上春樹

ここ2年ほど、持病がひどくなり、先々の計画を立てることが難しくなりました。レースにエントリーしていも当日どうなるか分からない。練習の計画を立てていても、そのとおりにできるか分からない。うっかりバッグに薬を入れ忘れて外出すると、その日一日は恐怖で落ち着かない、そんな毎日です。でも、やっぱり箱根ランナーのように走っている人を見ると元気が出るし、自分も走りたいと思う。同じランナーのコミュニティでの会話は本当に楽しいし、そんな仲間たちが周りにたくさんいることが財産になっています。

であれば。
やっぱり自分も走ることを諦めないでおこう。遅くても、短い距離でも、昔のようにガンガン走れなくても、走ることは素晴らしいことで「たとえ長く生きなくてもいいから、少なくとも生きているうちは十全な人生を送りたい」(「走ることについて語るときに僕の語ること」引用)と考えている自分にとって、自分を律するためにも必要なことだから。いくつかある持病についてはずっと付き合っていくしかないので、無理におもりを外そうとするのではなく、おもりを抱えて生きていく覚悟です。抗わず、人生の旅の友として一緒に生きていく。その方が気楽ですよね。

というわけで、今年に入ってからまだ一度も走れていませんが、完治した暁には少しづつ再開したいと思います。今年はウルトラ一本、走りたいなと思っています。というわけで皆さま、2023年もどうぞよろしくお願いいたします。

12月に入りましたね。皆さまお元気ですか。

今年は本当に紅葉が美しくて。どこに行っても紅葉の色の濃さに目を見張ります。下の写真は早朝のゴルフ場。朝日が差してきれいですね。

12月に入ると同時に一気に冷え込みました。秋が過ぎて冬が来たという感じですが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。

私の方はというと、先日投稿した記事(現在の仕事の話」 2022年10月26日 )のとおり、日々忙しく仕事をさせていただいています。今年の3月に会社を退職してまだ8ヶ月しか経っていないというのに、こんなに目の前の景色が変わるものなのか。そしてこんなにあっという間に時間が経つものなのか。今年の春先がもう遠い昔のように感じます。

目の前の当座の仕事と、未来をつくる仕事。

自らの感覚の中で現在と未来を行ったり来たりしながら、日々走り回っています。出会う人たちの種類も少しづつ変わってきて、やはり類は友を呼ぶというか、点と点がしっかり線で繋がるというか。非常に刺激的で、そういうことを日々実感しながら、街を歩き、季節の移ろいを感じています。

そう、季節をしっかり感じることって大切ですね。

11月後半から忘年会もどんどん入って来ました。やあ、久しぶり。元気でしたか?そう声を掛け合い、久しぶりに顔を合わせる人たちと酒を酌み交わす。ついつい飲みすぎてしまうこともありますが、お互いの近況を確認し合うことの大切さを年々感じるようになっています。

我が家の紅葉もがんばっています。
その年、その年で、色の濃さが変わるのが面白いですよね。

いつから生えている木々か分かりませんが、慌ただしく動く人間を尻目に、悠々と生き、季節ごとに色を変える木々には力強さと余裕を感じます。ビジネスにはスピードが求められますし、日々目の前を膨大な情報が行き来していますが、誤解を恐れずにいうと焦ったり急いだり一喜一憂したとしても、結果はほとんど変わらない。そのことを木々は教えてくれているようです。

今年のお気に入りはこの一枚。↓

その街の幸せを、その街の住人が決めていく

窓を開けてコーヒーを淹れていると、外から金木犀の香りが漂ってきます。夜、少し肌寒くなるこの頃が一年で一番好きな季節です。

昨夜は久しぶりに六甲道をスタートしてHAT神戸を周って帰る神戸ランを楽しみました。走った後はもちろん、銭湯で汗を流し、ラン友さんたちとトリキで金麦メガを流し込む極楽コースです。

神戸は海も山も美しい街です。海沿いのランナーのメッカ、HAT神戸の夜景はまた格別です。

海辺の夜景が美しいHAT神戸

神戸は人口減少や衰退やらなんだかんだ言われていますが、僕としてはこの手頃でコンパクトな街のサイズが大好きです。夜、三宮に飲みに行っても閑散としていますけど、健全といえば健全だし、ライフスタイルが大きく変化して、そういう時代に突入したんだろうなと思っています。

最近特に思うのは、規模や順位になんの意味があるのだろうかということです。

サイズや数を気にするということは、それを良し(あるいは正義)としているからですが、脱成長時代においてはむしろ質を気にするべきです。株価や売上や人口はもちろん大切ですし、観客動員数も、利益率も、人口増加率も、経済成長率も、高ければ高い方が良いと、子供の頃からずっと教わってきました。でも、それを追いかけるのはほぼ不可能です。新しいビルが建てば、どこかのビルが空く。梅田が再開発されると本町が閑散とする。どこかの街の人口が増えると、どこかの街の人口が減る。総数が増えず縮小しているのだから、限られたパイを奪い合っているだけです。

そこで質の話になるのですが、大きければ良しというのではなく、個人としての幸福度をどう上げて行くかが問われているように思います。割とドラスティックに考え方を変えることと、本質を見極める力を養わなければなりません。生きるとは、働くとは、国家とは、文化とは、歴史とは。ただ働いて金を稼げば良いというのではなく、一見ビジネスとは無関係の要素と向き合い、自分の幸せを自分で決定していくことが求められるし、街も同じだと思っています。

その街の幸せを、その街の住人が決めていく。
「よそのことは知らない。ぼくらはこれが幸せなんだよ」

そんなことをさらりといえる大人になりたいものです。

【閲覧注意】自己責任でしか生きることができない厳しい時代の到来

年金65歳引き上げ問題がここ数日の大きな話題になっています。

国民は馬鹿ではないので、そんなこと百も承知なんですけどね。そんなこと分かってるのに国が公に年金制度が破綻していると認めてこなかったことに、僕はものすごく憤っています。アラフィフの僕たちがトバッチリを食うのはまだいいわ。今の若者、そして、これから生まれてくる子供たちのことをどう考えているのか。子供たちに負担を負わせて、少子化問題を解決?東大卒の官僚や政治家はこんな無能でしたか。

子育て世代はみんな実感していると思いますが、子育てってものすごくお金が掛かるんです。少なくとも日本では。子供一人年間100万円と思ってください。大学生の子供がいたら、年間200万円です。普通の人、子供持てますか?今の日本で年収2000万円の人、どれだけいます?無理でしょう。

僕が政治家なら、そして、もし、こんなことがまかり通るなら、子供に負担負わせるくらいなら、人生にも定年を設けなければならなくなるといいます。80歳までは面倒見るけど、それ以降は年金なし。あとは好きにやりなさいといいますよ。タンス貯金崩しなさいといいます。タンス預金がない人は働け。その時に仕事があるかないかは知らん。国はアンオフィシャルにこう言っています。老後は自分でなんとかせえ。死ぬまで働け、仕事があるかどうかは知らん。と。

むしろ子供一人あたり出産したらご祝儀として1000万支給したいですよ。今の制度は逆です。子供生んだら、お金かかるんです。子供は贅沢品なんですよ。どんな社会やねん。衰退無能国家の典型ですよ。

子どもたちがワクワクしながら未来を待つような社会にしたいです。今のままでは子供たちがあまりにかわいそうです。必死で勉強して、必死で大学行って、必死で就活して、手取りわずか20万の半分が税金と社会保険に持っていかれるなんて。人生なんのために生きてるのかと思いませんか。夢も希望もない時代が、今まさに来ています。

皆さん、この問題をどう考えますか?マジで政治家を呼んでちゃんと議論したいです。これから先、経済成長が見込めないなら、消費税撤廃、もしくは、BI(ベーシックインカム)導入しかありません。衰退社会、シュリンキング・エコノミーというのはこういうことなんです。右肩上がり成長は2008年を境になくなったんです。なぜ認めないのか。

久しぶりにブチ切れてます、僕。