抽象化の先にある「ポンコツでも大丈夫」

情報が溢れている現代において、正常な見方と精神を保つためにますます抽象化能力が求められていると感じています。抽象化とは「物事の共通部分を抽出して、把握すること。一般化。上位の概念に物事を昇華して考えること」です。

物事の本質を見極めるためには、抽象化が必要です。出来事を点で捉えているだけでは全体像が把握できないし、言葉を読んだり聞いているだけでは、その背景は見えない。大切なのは、全体像であり、本質であり、背景であり、心理です。WHATではなく、WHYの視点が大切です。

ウクライナ紛争に加え、イスラエルとハマスの衝突など、世界は相変わらず不穏なニュースで満ち溢れています。なぜこんなことが起こるのだろうと心が痛みますが、歴史を学ぶと分かるとおり、人類の歴史=戦争、天災、疫病の繰り返しです。ジャレド・タイアモンドや、ユヴァル・ノア・ハラリなどの歴史家の本を読むと更に理解が深まりますが、人間とは非常に特異な生き物で、愛し合うけど殺し合うし、進歩や技術革新、豊かで便利な社会と称して、強者が弱者を支配するシステムを構築しようとします。

いくら経済学が発展したといっても、世の中の格差を解決し、豊かで平和な世の中を実現することはできていません。つまり、人類の歴史とは「そういうもの」なんだと思います。昔より今の方が良いというわけでもありませんしね。現代の東京よりも江戸の方がはるかにSDGsな街だったことはよく知られています。まあ、進化と退化、増加と減少を繰り返しているわけで、今、また退化の方向に向かっていると感じています。要するに「思ったとおりにならない」のが人間と人間社会なのかもしれません。

「人間は考える葦である」で有名なパスカルは、「人生は壮大な暇つぶしである」という言葉も残しました。

本当にそうだな、と心底納得します。なぜだか分からないけれど生まれてきて、生まれてきたら、なぜだか分からないけれど80年〜90年くらい生きて死にます。では、その間をどう生きるか。抽象化して、人生を積極的な「暇つぶし」と考えることができれば、人と比べることもなく、自分の生きたいように生きて、それが何か人の役に立つことであれば尚良し、くらいの気持ちでいれるのではないか。

良し悪し、優劣をつけようとするのが人間の悪い癖で、物差しはなくていいし、あるとすれば、自分で自分を測るためのものであれば良い。抽象化の先には、「ポンコツですけど、死ぬまではがんばって生きたいと思います」くらいの決意が残り、それだけで十分なのではないのかなと思います。もちろん、何かを見捨てたり、諦めたりするのではなく、少しでも良い方向へ、期せずして同じ時代に生まれた身近な人を少しでも幸せにできれば、その小さな努力だけでも立派なことだと思うんですよね。

ポンコツが階段を一段一段登っていく図

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