雲を跳ねのけて


オホーツク海から来る強力な低気圧と、南方の夏雲の間に挟まれて、日本列島はおろかベトナムまで伸びる巨大な秋雨前線にやられっぱなしの今日この頃です。しかしどうにかならないか、このジメジメは。一週間に晴れ間が除くのがこれ程少ないなんて、この際、オホーツクでも熱帯でもいから、どっちかにがんばって欲しい。はよどっちか勝て!見てくださいよ、この前線を。もはや嫌がらせにしか思えない。

画像はデイリーポータルZから
yabai

昨夜は京都泊、今朝は6時の電車で神戸まで帰ってきて、ほぼ終日外出。種々の打ち合わせで取引先の会議室に5時間半閉じこもっていました。偏頭痛なんて酒で飛ばしてしまえ!まだまだ疲れてませんよ!もっと議題もってこーい!

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夜は東京のものづくりの皆さんと梅田で会食兼ディスカッション。深く考えている人、現実志向の人、明るい未来を考える人。みんな違ってみんないい!

現代社会は真面目になり過ぎたのかもしれない


お盆休みに入っているからか、都内の電車も空いています。ホテルに戻り、PCをカチカチしながら横目でTVを見ていると、植木等さんの特集番組がBSで放映されていたのでタスクそっちのけで思わず釘付けになってしまいました。

その中でもとても興味深かったエピソードが、僧侶であった父、植木徹誠さんの話です。よく知られたことなのかもしれませんが、僕は知りませんでした。
彼は戦時中にも関わらず、

「どれだけ卑怯な手を使ってでも、逃げて隠れても、行きて帰って来い」
「戦争は集団殺人」
「人に当たらないように鉄砲を打つこと」

と一目はばからずに説いてまわり、刑務所と寺とを行き来していたという。そんな自由奔放ながら本質を見据える父の影響を植木さんも随分受けたといいます。植木等さんがスーダラ節を歌う前、「俺は二枚目で売り出したいのに、こんなふざけた歌を歌わないといけないんだ」と徹誠さんに愚痴った時、こう言ったそうです。

「地球が存在して人間が生きている限り、この”分かっちゃいるけどやめられない”という生活はなくならない。これは言い得て妙だ。そういう物を真理という。時代が変わっても変わらない。これは素晴らしい!」

人間って、善かれ悪しかれそういう生き物だと思います。仕方がない。それが真理と言われれば、それが真理なんでしょう。僕も健康なのか不健康なのか、ストイックなのかレイドバックなのか訳の分からない生活をしている訳ですが、これもすべて「分かっちゃいるけどやめられない」ってことなんですから。さて、僕のことはどうでも良いのですが、植木さんの名言をご紹介します。

「実現しそうにないことを口にして、もがく。その時、生きているって実感があるんじゃないの?」

色々と口にするだけして、もがき、しんどい思いをしている時って、確かに生きているって実感はありますね、嫌っちゅうほど。たまにはマドルスルーの渦中にいる自分も褒められたい、肯定されたい。人に褒められなくても、自分で自分に「お疲れさん」と言ってあげたい。

現代社会は、きっと真面目になり過ぎたんだろうと思います。意識が高くなり過ぎた。がんばるのは当たり前、稼ぐのも当たり前、飲むのも当たり前。その当たり前のことをするのすら難しく、複雑になってきたのかもしれません。

もっと単純であっても良いのではないか、そういうことを学ばされているような気がします。

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雲の一部に夕焼けが映る


用事で来ている病院で、短時間に二度も「お見送り」の場面に遭遇しました。

どちらもとても高齢の方で寿命を全うされたかのように見受けられましたが、親族や病院スタッフに見送られている様を見、生と死は隣り合わせ、死ぬと物質的な肉体は電池が切れたロボットのように動かなくなるのだという当たり前の事実を改めて考えさせれました。昔の人はその様を見て、魂だけが肉体を抜け出してどこかに浮遊することを想像したり、あるいは死後の世界に思いを馳せたりしたのでしょう。命は儚い。だから尊い。そんなことを考えさせられました。

待合の時間に外を眺めていると、竜の巣のような、巨大な入道雲の一部に夕焼けが映り、とても不思議で、幻想的な光景を目にしました。

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爆弾を花火に変えるチャンスなど幾らでもあっただろうに


神戸の花火大会。

海上で打ち上げられる花火をメリケンパークから観覧するのが毎年のイベントです。迫力満点の花火を見ていると、人類の歴史上、爆弾を花火に変え、戦争を競技に変えて競い合おう、むやみやたらに人を殺すのはもうやめよう、そういう動きにならなかったのが不思議でなりません。

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闇雲に平和主義を唱えている訳ではなく、軍事力はあくまで安全保障上の抑止力として必要かもしれない。あるいは、世界的に武器をすべてなくし、核拡散防止条約の代わりに、核や爆弾を花火に変える条約をすれば、人はもう残酷な仕方で死なずに済むと思うのです。理想主義なのは理解していますが。ただ、戦争はあまりに悲惨すぎる。 でも人類史上、世界はずっと、平和であり得たことはないのです。

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なんとかならんのか。

しかし、花火は美しい。
花火大会を支えている行政、スポンサー企業、スタッフ、ボランティアの方々に感謝です。

No pain No gain というより、Much pain Little gain


少し早めに帰宅できたので、ランニングへ。

一昨日に15kmを難なく走れたのは「良く食べたおかげ」なのか、それとも単にコンディションが良かったのかを確かめるためです。ちなみに今日も良く食べましたよ。朝はカツサンドにスムージー、昼は肉そばとおにぎり一つ、そして夜はボールいっぱいのチキンサラダと魚のフライ、そしてご飯二杯。

少し前では考えられないような食生活です。蕎麦はともかく、おにぎりやご飯なんて!

デスクワークがメインとはいえ、平日の夜はそれなりに疲れて帰宅しているので、週末に比べてコンディションが良いとは言えません。それでも結局、10kmをなんなく走ることができました。大量発汗で気持ちいい!!

しかし身体ってすごいですよね。15km走り、中一日でまた10km。一番走りこんでいた数年前のようなペースです。二週間前までは5kmでへばるほど体力が低下していたのに。これはきっと、良く食べているからだ。良く食べ、良く飲み、良く働き、良く学び、良く走る。よし、この夏はこれで行こう!


走りながら考えていたのですが、No pain No gain という言葉がありますよね。

「痛みなくして、得るものなし」という英語のことわざです。いつも近くに置いている言葉なのですが、考えてみると、痛みなくして得るものがないのは当たり前で、人生って、ほとんどがしんどいことばかりで、得るものはほんの少しだよな、と思うのです。言い換えるならば、

「Much pain Little gain」(痛みは多いけれど、得るもの少ない)

ですね。

カスのような存在の僕でさえ、「こんなことが出来て良いですね」と言われることがあります。しかし、もし僕が今出来ていたり、持っていたりするものがあるとして、それをどのように手に入れたかと言うと、時間と、金と、血ヘドと汗と引換えに得たものばかりです。辛いことや、誹謗中傷、悪口、村八分にされたこともありましたっけ。

特別な才能なんてこれっぽちもない凡人以下の人間にとっては、日々が「pain」です。痛みを感じながらも努力をコツコツと重ねるしかない。もう、それでやっと、なんとか社会の邪魔にならないように、やりくりすることが出来るんです。

マラソンもそう。42kmもあるのに、タイムを5分縮めることがどれほど大変か。鬼のように練習しても、当日のコンディションによってはリタイアしなければならないこともある。必ずしも、努力が報われる訳ではないのは、マラソンも人生も同じではないのかなと思います。

それでも。

それでも、見えないものを見ているかのように、日々何かを重ねることだけしか出来ないのが人間なんでしょうね。しんどい。でも、やるしかない。願わくば、そこに楽しみを感じながら。

仕方ないなー、やるか。


(写真は今年2月のサンフランシスコ・バーリンゲームでの朝ラン風景)

海外のマブダチ


二夜連続飲み会で寝るという失態。
そして今も終電の新快速待ち。

夜がすっかり弱くなりました。
神経を使う仕事が多く(海外とのやりとり)、まあ仕方がないというのは言い訳ですが、諸々のアライアンスの話は有り難いし、遠く海を隔てた米国に「マブダチ」と言わせていただくような大企業のネイティブのエグゼクティブがいるという幸せ。


こちらは昨夜、取引先にお連れいただいたスペインバルのワイン。二日酔いをしないというワイン。何本あけても、翌日に残らないんだから!

個に対する個としての共感


僕個人はは決して強いとは言えないにも関わらず、「個」としての力が、これからの時代を生きる上でとても重要なファクターになってくることについて以前から暑苦しく書いています。例えば最近の記事では・・・

どこかの企業に就職すれば「一生安泰」と思っている人などいるのだろうか(2014/12/25記事)

個人メディアの時代に最終的に残るものはなんだろう(2014/10/15記事)

あくまでレベルの低い、稚拙な持論ですが。

しかし最近、為末大さんのブログでも同じような事をアスリート目線で書かれていてとても共感したので、ご紹介したいと思います。こちらの方が経験則に基づく「ちゃんとした」内容です。笑

「個の実力」(http://tamesue.jp/ より)

肩書や組織に頼らず、自分の実力について客観的に評価するということはとても大切。それでいて、組織の中でも個を意識しつつ、しっかり生きていくことも同じように大切ですよね。

「能力は如何ともし難いとしても、集団に貢献する意識を持って機嫌よく人に接していれば、個としてはそれなりに重宝されると思う」(ブログから抜粋)

本当に、その通り。


さて、ちょっと別の話題を。
「COSTCOに行くと必ず欲しくなる品」の写真です。

アメリカのレンタルハウスの庭には、必ずありますよね。
こんなの家にあったら、毎晩肉焼いてるだろな。

道に通じる話 〜 カミーノ・デ・サンティアゴ


上半身裸で陽射しをジリジリと身体に感じつつ、したたる汗も気にせず走っていると、ああ、狩猟時代の人間はみんなこうだったんだろうな、今みたいに高機能なランニングシューズもなく、どこでも気軽に水分補給できる訳でもなく、ただ獲物を仕留めることだけを考えながら、裸足で走り続けてたんだろうな・・・と、狩猟時代に思いを馳せることがあります。

そこまで遥か昔に遡らなくても、ほんの100年前、旅客機や自動車や鉄道がなかった時代は、当たり前のことですが、人は徒歩か馬で移動していたんですね。改めて考えるとすごいことです。


先日飲みの席で「一ヶ月休みがあればどこに行くか」という話題になり、大体ヨーロッパ周遊で意見がまとまったのですが、僕の場合はヨーロッパはヨーロッパでも、フランスからスペインに至る「カミーノ・デ・サンティアゴに行く」と迷わず答えます。

「カミーノ・デ・サンティアゴ」は訳すと「サンティアゴへの道」。

これは世界遺産に登録されているキリスト教の巡礼路(ヨーロッパ版お遍路さんですね)ですが、宗教的な背景はさておきフランスからピレネーを超えてスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラに至る道をただひたすら歩くというこの経験、いつかしてみたいと以前から思っているのです。もちろん、なかなか実現はしないのですが。

カミーノ・デ・サンティアゴのことを知ったのは、今から7年前。

その時のことはブログにしっかりと残していて(過去記事:El Camino de Santiago 2008年4月29日)、今でもたまに見返すことがあります。その当時、この巡礼路を実際に歩いたある女性から話を聞き、本まで貸してもらって読んだ時に何かが心に刺さり「行きたい!」という強い気持ちが芽生えたことは、7年前の文章にも表れているようです。

一人、日常から離れて目的地を徒歩で目指す。このような経験をした時に人は何を考え、何を感じ、自分の中でどういった変化が起きるのか。

いつかは実現したいことの一つです。

カミーノ・デ・サンティアゴを検索すると、たくさんの旅行記や本がヒットしますので、興味のある方は調べてみては。歴史もさることながら、文化的にも、景観的にも、とても素敵な道です。

「世界遺産 サンティアゴ巡礼路の歩き方」

「夢」という言葉には力がある


心身共にエグゾーストな帰り道。

たまたま見たFBタイムラインに、キャプテン翼の大きなイラストの前に「夢は無限大」と書かれた壁画の前で撮った写真が掲載してあるのを見て、改めて感動しました。

「夢」っていいな。

「夢に向かって一直線」とか「夢を追いかけろ」とか、夢にまつわる元気な言葉はあまりに使われ過ぎてありがたさを実感しないけれども、それでも「夢」には大きな力がある。アラフォーの今だからこそ、夢っていいなと、なんだか背中を押されている気がしました。

電車の中でハイボールを飲むオッサンだけど、夢に憧れてもいいではないか。

そんなことを思いながら帰宅すると、修学旅行から帰ったばかりの娘が起きていました。

「東京で一番どこが良かった?」と聞くと、「国会議事堂とスカイツリー」と言うので、「なんで?」と言うと、通っている小学校の先輩に自民党の大物議員が数名いて(ノーベル賞受賞者も二人輩出している・・・知らなかった)、母校の生徒が修学旅行に来るとのことで、わざわざ二名の議員が顔を出してくれたとのこと。

誇らしげに、見せてくれたサインにはなんと、

「夢」

と書かれていたのです。
すごい偶然!

やっぱり良い言葉ですね。夢という言葉には力がある。
今夜はこの余韻をアテに、少しだけ飲むことにしたいと思います。