海外のマブダチ


二夜連続飲み会で寝るという失態。
そして今も終電の新快速待ち。

夜がすっかり弱くなりました。
神経を使う仕事が多く(海外とのやりとり)、まあ仕方がないというのは言い訳ですが、諸々のアライアンスの話は有り難いし、遠く海を隔てた米国に「マブダチ」と言わせていただくような大企業のネイティブのエグゼクティブがいるという幸せ。


こちらは昨夜、取引先にお連れいただいたスペインバルのワイン。二日酔いをしないというワイン。何本あけても、翌日に残らないんだから!

個に対する個としての共感


僕個人はは決して強いとは言えないにも関わらず、「個」としての力が、これからの時代を生きる上でとても重要なファクターになってくることについて以前から暑苦しく書いています。例えば最近の記事では・・・

どこかの企業に就職すれば「一生安泰」と思っている人などいるのだろうか(2014/12/25記事)

個人メディアの時代に最終的に残るものはなんだろう(2014/10/15記事)

あくまでレベルの低い、稚拙な持論ですが。

しかし最近、為末大さんのブログでも同じような事をアスリート目線で書かれていてとても共感したので、ご紹介したいと思います。こちらの方が経験則に基づく「ちゃんとした」内容です。笑

「個の実力」(http://tamesue.jp/ より)

肩書や組織に頼らず、自分の実力について客観的に評価するということはとても大切。それでいて、組織の中でも個を意識しつつ、しっかり生きていくことも同じように大切ですよね。

「能力は如何ともし難いとしても、集団に貢献する意識を持って機嫌よく人に接していれば、個としてはそれなりに重宝されると思う」(ブログから抜粋)

本当に、その通り。


さて、ちょっと別の話題を。
「COSTCOに行くと必ず欲しくなる品」の写真です。

アメリカのレンタルハウスの庭には、必ずありますよね。
こんなの家にあったら、毎晩肉焼いてるだろな。

道に通じる話 〜 カミーノ・デ・サンティアゴ


上半身裸で陽射しをジリジリと身体に感じつつ、したたる汗も気にせず走っていると、ああ、狩猟時代の人間はみんなこうだったんだろうな、今みたいに高機能なランニングシューズもなく、どこでも気軽に水分補給できる訳でもなく、ただ獲物を仕留めることだけを考えながら、裸足で走り続けてたんだろうな・・・と、狩猟時代に思いを馳せることがあります。

そこまで遥か昔に遡らなくても、ほんの100年前、旅客機や自動車や鉄道がなかった時代は、当たり前のことですが、人は徒歩か馬で移動していたんですね。改めて考えるとすごいことです。


先日飲みの席で「一ヶ月休みがあればどこに行くか」という話題になり、大体ヨーロッパ周遊で意見がまとまったのですが、僕の場合はヨーロッパはヨーロッパでも、フランスからスペインに至る「カミーノ・デ・サンティアゴに行く」と迷わず答えます。

「カミーノ・デ・サンティアゴ」は訳すと「サンティアゴへの道」。

これは世界遺産に登録されているキリスト教の巡礼路(ヨーロッパ版お遍路さんですね)ですが、宗教的な背景はさておきフランスからピレネーを超えてスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラに至る道をただひたすら歩くというこの経験、いつかしてみたいと以前から思っているのです。もちろん、なかなか実現はしないのですが。

カミーノ・デ・サンティアゴのことを知ったのは、今から7年前。

その時のことはブログにしっかりと残していて(過去記事:El Camino de Santiago 2008年4月29日)、今でもたまに見返すことがあります。その当時、この巡礼路を実際に歩いたある女性から話を聞き、本まで貸してもらって読んだ時に何かが心に刺さり「行きたい!」という強い気持ちが芽生えたことは、7年前の文章にも表れているようです。

一人、日常から離れて目的地を徒歩で目指す。このような経験をした時に人は何を考え、何を感じ、自分の中でどういった変化が起きるのか。

いつかは実現したいことの一つです。

カミーノ・デ・サンティアゴを検索すると、たくさんの旅行記や本がヒットしますので、興味のある方は調べてみては。歴史もさることながら、文化的にも、景観的にも、とても素敵な道です。

「世界遺産 サンティアゴ巡礼路の歩き方」

「夢」という言葉には力がある


心身共にエグゾーストな帰り道。

たまたま見たFBタイムラインに、キャプテン翼の大きなイラストの前に「夢は無限大」と書かれた壁画の前で撮った写真が掲載してあるのを見て、改めて感動しました。

「夢」っていいな。

「夢に向かって一直線」とか「夢を追いかけろ」とか、夢にまつわる元気な言葉はあまりに使われ過ぎてありがたさを実感しないけれども、それでも「夢」には大きな力がある。アラフォーの今だからこそ、夢っていいなと、なんだか背中を押されている気がしました。

電車の中でハイボールを飲むオッサンだけど、夢に憧れてもいいではないか。

そんなことを思いながら帰宅すると、修学旅行から帰ったばかりの娘が起きていました。

「東京で一番どこが良かった?」と聞くと、「国会議事堂とスカイツリー」と言うので、「なんで?」と言うと、通っている小学校の先輩に自民党の大物議員が数名いて(ノーベル賞受賞者も二人輩出している・・・知らなかった)、母校の生徒が修学旅行に来るとのことで、わざわざ二名の議員が顔を出してくれたとのこと。

誇らしげに、見せてくれたサインにはなんと、

「夢」

と書かれていたのです。
すごい偶然!

やっぱり良い言葉ですね。夢という言葉には力がある。
今夜はこの余韻をアテに、少しだけ飲むことにしたいと思います。

ブログを書き続けて10年が過ぎ、11年目に入りました


毎年6月は本ブログの誕生月。
この時期には、この一年と今まで積み上げてきた年月の振り返りをすることが多くなります。

一回目の記事を投稿した2005年6月10日、当時僕は29歳、長女は生後6ヶ月の赤ちゃんでした。あれから書き続けて丸10年が経過し、11年目に入りました。長女の年齢とブログの年齢がほぼ同じなので覚えやすいですね。小学生でいうと5年生。娘もブログも大きくなったなあ、としみじみ実感します。


ブログを書く目的と、書き続けてよかったなと思うことは年月を経てもあまり変わりません。一年前に書いた記事を読むと、ブログを書く目的について上手にまとめていることに気づきました。幾つか文章を抜粋しながら、リライトしてみます。

書く内容は年齢によって変化しているようです。仕事の領域も行動する範囲も随分と広くなったと思いますが(一年に4回もアメリカと日本を往復するなんて10年前は考えられなかった)、変に「こなれた感」と「くたびれ感」があり、昔の勢いや、尖った気持ちや、若さゆえの「無敵感」などは最近全く衰えてしまいました。たまに昔のエントリーを読み返すこともありますが、アツ苦しい事を書いていたりするのを見ると、ああ、もっと頑張らないとな、もっと攻めていかないとなと思うことも多いです。

僕にとってブログを書くことは、一日一日を丁寧に塗りつぶすこと。

時間に流されたり、目先の事に追われて、ただ漫然と日々を過ごすということだけは避けたくて、一日一日を丁寧に塗りつぶすということだけはずっと意識しています。その他の目的は、備忘録であったり、反省であったり、ニュースのレビューであったり。

その日に何を感じ、何を考えたのか。それを記録として残すこと、そして書くことによって考えを整理すること。聞いたことや学んだことをアウトプットすることで、インプットした情報がメモリーされるので、書いたことは良く覚えています。そう考えると、少なくとも、書くことによる悪い影響はなかったかな。出来る限り毎日書くことを自分にコミットすると、常にインプットを意識することになります。インプットした情報を頭の中で整理して、書く。この作業が習慣化しているので、伝える、書くということに抵抗はありません。

「習慣化」というのは、自分の中で大きなキーワードです。特別なスキルも才能も持たない人間にとっては「コツコツと積み上げること」が唯一成長するための手段だと思いますし、そのためには習慣化することが必要です。でも実際「言うは易し、行うは難し」で、習慣化するのって結構大変だったりします。まず面倒くさい。仕事や学校ならまだしも、人から「やれ」とも言われていないことを、自分で勝手に決めて行うことに何の意味があるのか。しかも、ほぼ独り言。面倒くさいなー思うことも多々ありました。

そのハードルを乗り越えるためには「その事を好きになる」ことが一番早いですよね。好きになれば勝手にやる。これは仕事も同じで、やっていることを好きになると(ジョブズは「好きなことを仕事にしなさい」と言っていますが)、人間って勝手に動くものです。義務命令ではなく、能動的かつ積極的に動く。そういうものだと思って、今まで続いています。

自分が始めた当初は、ちょうどブログが流行り始めた頃で、みんながFC2やアメブロやライブドアブログなどで書き始めていた頃です。今はその中の何割の人が残っているのか分かりませんし、無料ブログ=アフィリエイトという要素が強いので、拙ブログのような何の利益も生まない(むしろドメインやサーバ代などで赤字)、本当の意味でのプライベートブログは段々と数が減ってきて、SNSのタイムラインに移行している訳ですが、これから益々「個の時代」が加速すると、特定の企業が提供するSNSプラットフォームではなく、独立したプライベートサイトやプライベートブログが、逆にどんどん増えてくるような気もしています。
 
そのように時代が変わったり、流行り廃れがあるかもしれませんが、いずれにしても、僕はここで、これからも何かを書いていくつもりです。

という訳で長くなってしまいましたが、11年目に入った「analog-web」。
これからも、ゆるくお付き合いくださいませ。

技術が進歩しても、人間そのものはそんなに変わらない


崎陽軒のシウマイ弁当はどうもシウマイの数が多くて、僕のような変化球を投げたがる人間にとってはむしろ唐揚げと炒飯が入った「炒飯弁当」が良い。

四日間の東京出張を終えて新幹線に乗って帰る時に思うことは、技術が進歩したとしても、人間そのものは大して変わらないだろうなということです。

例えば30年後の2045年にリニアが開通して、70歳になった僕が東京から帰る時にリニアを使ったとしても、やっぱり崎陽軒の弁当を食べながらビールやハイボールを飲むという構図は変わらないと思うのです。

世の中はますます便利になり、経済構造も変わっていくでしょう。でも、人間そのものや文化はそんなに変わらない。その証拠に、100年、200年前の絵画や音楽や文学を今でも普通に見聞きしている訳だし、もっと言うと、2000年前に起こったキリストの生涯を聖書を読んで学び、ブッダの教えを仏教として信心している訳です。衣食住も、そんなに大きく変わっていないと思うんですよね。

展示会では、色んな企業がこぞって新技術や新サービスを披露します。当然のことです。でも、実はそんなに変わっていないとも思います。

大切なのは、きっと「思い」です。

どうせなら何かを生み出そう


「仕事」という言葉を定義する時に、よく前提条件として「受」か「能」かのどちらかに分類されます。

通常、仕事の多くは物理的には「受」のものがほとんどです。リクエスト、リクワイアメント、レギュレーションがあらかじめ定められており、それには大抵「納期」というものがあり、それらが重なってくると否応なしに生産性を上げなければなりません。精神的には「追われる」「忙しい」という状態になります。とにかく処理能力を向上させ、効率的に品質を保ちながら生産しなければなりません。当たり前のことです。

しかし、それが果たして良いことなのかどうか、未来に繋がるかどうかという点については疑問符がつきます。仕事=処理=生産性ということであれば、そこにクリエイティビティ(創造性)が存在する余地は極めて小さくなるから。それが受動的か能動的かと分類されるのであれば、処理は「受」で、クリエイティブは「能」と言えるかもしれません。仕事に取り組む時、創造性を意識しながら行わなければ、それは単なる作業で終わってしまいます。

とはいえ、その中でもクリエイティビティを意識することはできる。どんな仕事でも「工夫とアイデアと創造性」を持つことはできますよね。ちょっとした工夫。プラスアルファの提案。一歩踏み込んだテクノロジー。僕も常にそういうことを意識しようとは思いつつ、なかなかそうはできないのが反省点です。常にクリエイティビティを意識しながら取り組めば、「羽のない風力発電機」も発明できちゃうんですよね。

未来の風力発電機には「羽がない」(Wired.jp)

どうせ一日に10時間以上仕事をするのであれば、その中から何かを生み出さなければもったいない。そう思っています。

美人薄命


敬愛するwhitney houstonが亡くなったのは、2012年2月11日。
美人薄命、天才短命というのはまさにその通りで、今夜もBARでビジネスモデルを思考している時に思うのは、天才は受け入れられないということ。仮に受け入れられたとしても、本人が苦労するだけ。僕も願わくば天才でありたいと思うのだけど、薄命ではどうか思う辺り、小物感を否めません。

その証拠に結露した白州のグラスがいいと思っているくらいなんですから。

Whitney Houston – Exhale

飛んで行きそうなものに紐を結びつけておくような感覚


昨夜地元で飲んでいる時に、何かがきっかけで誕生日の話になり、そういえば自分は「辰年、水瓶座、ペガサス」という属性の持ち主であることを思い出しました。

もちろん生年月日がその人の性格や人生に何かの影響を及ぼすというのは非科学的だとは思うし、そちらの世界には興味がないのですが、たまに社会で生きていくことに窮屈さを感じるような時に、ああ自分はもしかすると架空の生き物なのかもしれないと考えると、気が楽になる時があります。

とにかく自由が大好きで、束縛や制限が嫌いで、浮世離れしていることばかり考えているような性格ですから、社会や組織に適合するかしないかで言えば「しないタイプ」だと思います。しかしそうは言っても生きて行かなくてはなりませんので、どこかで折り合いを付けながらやっていくしかありませんね。

ちょっと目を離すとどこかに飛んで行ってしまいそうになる自分を御するのは案外大変なものです。だから今日のように週の半ばに休みがあると(たとえ家で仕事をしていたとしても)、かなり助かります。

今週あった楽しかった出来事を色々と回想しながらの休日は、娘の授業参観に、大掃除のゴミ捨てに、仕事に、コーヒーに、忙しくも充実した一日でした。

GW前の残り二日、仕事をちゃんと納めることができるか、明日からまたタイムアタックです。

帰巣本能と弾性


季節柄、タスク山積にも関わらず飲みの機会が多くて嬉しい悲鳴を上げている今日この頃です。

さて、飲みに行くといつも思うのですが(今夜もそうでしたが)、酒のメリットをあげるとすれば、それは「戻ってくる力」ということができると思います。上手に言えませんが、帰巣本能と同時に働く弾性とでも言いましょうか。

飲んでいる最中は緩む。緩んでいる内は身を任せるが帰巣している間、つまり帰途につく間には、その緩んだ「遊び」の部分を必死で戻そうとする弾性が働きます。この弾性が働いている時の思考が、まったく馬鹿にできないんです。

帰巣も弾性も、基本的にとてもプリミティブな働きですよね。ですから余分なものが一切ない、とても純粋な思考が働きます。普段は色んなしがらみや事情や都合が前に来て隠れがちな考えも、必要のないベールが一切排除される訳ですから、その瞬間に考えていることはとても純度が高く、根源的な考え方だったりします。これを大事に出来るかどうかですね。

酒を飲むメリットはこんなところにあるように思います。