春を目一杯楽しんでいます。
梅の花が散った後は、桃、桜と続き、庭の鉢植えや宿根草も次々と花を咲かせてくれています。家庭菜園では、ほうれん草、春菊、人参、大根などの種まきも終わり、それぞれが小さな芽を出してくれています。モッコウバラの蕾も膨らみ始め、ゴールデンウィークには満開のバラを楽しめそうです。
前回のブログ「上昇志向モンスターから、晴耕雨読の日々へ」には多くの反響をいただきました。自分でも、これからの人生をどう生きていくか、さらに思考を深めています。思考を深める際には、草花の成長や木々の芽吹きを眺めながら、古代から変わることのない自然の悠久のいとなみに思いを馳せています。できるだけ、社会から遠いところに身を置きたいだけなのかもしれません。
NHKで「第28回 菜の花忌シンポジウム」を視聴しました。
菜の花忌とは、司馬遼太郎さんの命日に合わせて開催されるイベントで、今年のテーマは「空海の風景を読む」でした。「空海の風景」は司馬遼太郎さんの代表作の一つです。平安時代に生きた知の巨人、空海の一生を小説化したもので、その思想のスケールの大きさに目眩を覚えます。

真言密教の総本山である高野山は僕も大好きな場所ですが、密教そのものは難解であるものの、空海が留学先の長安で感じた「人間を人種でみず、風俗でみず、階級でみず、単に人間という普遍性としてのみとらえた」(空海の風景より)という点は、無限に広がる宇宙と、始めがなく終わりがない時間の中で繰り返される、生命の誕生と死、わずか数十年という寿命の中での「人間の営みそのもの」を肯定し、衆生済度を説きました。
僕自身、世俗の色々や社会システムや己の限界などに辟易して、ついつい厭世的になりがちな自分がいる中で、煩悩やあらゆる欲を含めて人間そのものを寛容に受け入れ、人間を自然と同化し、宇宙の一部にさえ同化していこうとする壮大な試みは、たいした知識も学も持ち合わせていない自分でも、その偉大さと覚悟くらいは分かります。人間を自然の一部とし、「ただ、在るだけで良い」のかな。もしそうだとすると、これは個人的に生きる上で大きなモチベーションになりそうです。
庭木を見ていると、肥料もやらないし世話もしないのに、夏の暑さと冬の寒さに耐えて、春になれば花を咲かせる。それを毎年毎年黙って繰り返す。咲かせる花や、実が本当に美しいのです。生きているということは美しいことですね。
