水に浄化される、まどろみの旅。瀧川神社〜三嶋大社へ

仕事とプライベートの境目がない生活をしていますので、今年の盆休みも特に定めていませんでしたが、8/11山の日がちょうど関東出張の前日ということもあり、静岡県の三島に途中下車して一泊し、以前からお参りしたかった瀧川神社に行こうと計画しました。

瀧川神社の話は、六甲比命神社の大江先生から瀬織津姫様の生誕地であるとお聞きしていたことや、神社境内の横に山田川が流れていて、山の斜面から滝が川に流れ落ちていることなど、川好き、滝好きの自分としては絶対に行ってみたい場所だったのです。

三島駅でレンタカーに乗り、ナビを頼りに向かうと、畑の向こうに小さな社殿が見えました。この社殿、2003年に火災で消失したそうですが、奇跡的に御神体は無事で、その後、伊勢神宮から式年遷宮の古材を譲り受け、神宮の饗土橋姫神社(あえどはしひめじんじゃ)を移築して無事再建されたそう。神宮から古材が提供されるとは、内宮の饗土橋姫であり、荒祭宮の天照大御神荒御魂たる瀬織津姫様の御神縁でしょうね。

20年前に再建された社殿

到着した日は昼前ということもあり、次から次へと参拝者が途絶えることなく訪れていました。中にはお盆休みを利用して来ましたという、自分と同じような観光客もいて、小さな神社ながら各地から参拝者を集めているような雰囲気でした。

想像通りとても気持ちの良い場所だったので、これは是非、朝の空気も感じてみたいと思い、翌朝も参拝させていただきました。境内には誰もおらず、朝の新鮮な空気の中、一人、滝の前で目を閉じていると、前日の雨で増水した川がごうと流れる音、滝のざーっという音だけしか聞こえず、心身共に浄化されるようでした。本当に時間を忘れるかのような感覚で、身体が軽くなるような浮遊感を感じました。

しばらくすると、車が二台到着しました。
地元の方々が朝拝と清掃に来られたようでした。兵庫県から来ましたというと、遠いところからわざわざ、と歓迎してくださいました。六甲山の瀬織津姫様の磐座がある六甲比命神社のこともご存知で、ご親切に文字岩(弘法大師が書いた文字が残るという伝説)に案内していただいたり、滝の正面のベンチがベストポジションですよ、と教えてくださいました。そして、山の斜面から流れる滝は、川から流れ落ちるものではなく、湧水を源にしていて、箱根水系の水が湧き出ているとのことでした。

「箱根の九頭龍神社の湧水と同じ水なんですよ」

そうか。三島は富士山を源とする富士山水系と、箱根を源とする箱根水系の二つの水が出ると聞いたことがありましたが、瀧川神社は箱根水系なんだと知りました。

フレンドリーで、ニコニコとうれしそうにお話して下さるお二人の表情から、この神社を心から愛していらっしゃる様子が伝わってきました。派手さはないし、社務所もないし、小さな神社だけれど、控えめな中に芯の強さを感じる、地域の方々に大切に管理されている素敵な神社。ここ、冗談抜きで何時間でもいれます。なんとなく、これから毎年来るんだろうな・・・と感じました。

滝の上には不動明王が鎮座

三島は柿田川や源兵衛川など、湧水がとにかく有名です。なにげない住宅街の軒先にも湧水が湧くような水の町。

その後、東京から三島に移住した友人と合流して、高田屋で鰻を食べてから、三嶋大社や間眠(まどろみ)神社にも参拝させていただきましたが、どこ行っても「水」を感じることができました。

人間の身体は60%が水で出来ているといいます(厳密には、体重の55%〜60%が水分量)。水って人間にはなくてはならないもの。

生存のために必要であることはもちろんのこと、心身の浄化にも必要ですね。毎月、和歌山県の「ゆの里」に水を汲みに行っているような自分ですが、これからももっと水を大切にしたいと再認識した旅になりました。そういえば、7月には愛媛県西予市の樽滝にも行きましたし、ここ二ヶ月で偶然にも水場へ赴くことが重なりました。

友人との再会もとても楽しく、相変わらずマニアックな話題で盛り上がりました。間眠神社の境内地だった場所に建つ築100年の古民家を購入して絶賛改装中だそうで、完成後は「まどろみハウス」としてオープンするようです。ぜひ、Instagramのアカウントをフォローしてみてください。

また、僕自身もInstagramで神社巡り等の写真を掲載しています。こちらもぜひフォローしてください。

源頼朝ゆかりの、間眠神社(まどろみ神社)御祭神は、あの豊受大神です。びっくりしました。
三嶋大社 御祭神は大山祇神と積羽八重事代主神。瀬織津姫も大山祇一族の出身です。
人気店、高田屋のうなぎ
三島駅前の源氏で、桜海老の天丼と蕎麦の定食を

余白と間

先日、ある方との会話で「余白」という言葉が出てきました。
日々の暮らしの中で余白を作ることの大切さを実感しておられるとのことでした。

時間の余白、気持ちの余白。

余白があると、道端の草花に目を向け季節の移ろいを感じ、散歩の途中で神社に手を合わせ、目を閉じて呼吸をし、今この瞬間に生きていることに感謝できます。畑や庭の土を触り、植物に触れ、森の中を散歩していると、いかに人間という生き物が自然の中で生かされているかを実感し、目の前に当たり前のようにある山や木々、変わりゆく空の色の美しさに感動します。手仕事の中にも、自然と調和しながら生きてきた先人の知恵を感じることができます。味噌、醤油、納豆、糠・・・時間とともに変化する発酵の過程に生命を感じます。

先日の白秋ホワイトクラブで参加者の方と話していた時に、素敵な言葉に出会いました。その方は、最近、御夫婦でトワイライト・エクスプレス瑞風に乗って山陰本線の旅に行かれたそうですが、車窓から見える田園風景があまりに美しく、豪華な料理や個室の内装もさることながら、車窓からの景色に見惚れていたといいます。なんてことのない日本の田園風景に改めて感動したと。

「年を重ねれば重ねるほど、日本人になっていくんですよね」

と、その方はおっしゃいました。
「日本人になる」・・・なるほど。

日本人と「間」についても考えさせられました。
白黒をはっきりさせず、新旧、異物を積層的に融合し、和合する。言葉の向こう側にある意味を感じとり、曖昧を良しとし、矛盾をそのまま受け入れる。不完全すら美とし、完成を目指さない無常の先に永遠を感じる。

恐らくこういう感覚は西洋にはないのでしょう。それをすることに意味があるかないか、儲かるか儲からないか、敵か味方か、勝つか負けるか、効率的か非効率か。受容か排除か。

間の文化は、そういう価値観とは無縁の世界。
ただ在ることを良しとし、調和し、時間の流れの中にある変化と移ろいに身を任せる。目に見えるものより、見えないものに価値を置き、静かに生と死を見つめる。

最近ようやく梅仕事が一段落しました。

大して世話もしていない庭の梅の木ですが、たくさんの実をつけてくれました。実りを収穫する時間、黙々と梅仕事をする時間に考えていたことは、グローバルという均質化された価値観がいかに浅はかで、格差を生み、文化を破壊してきたかということです。

区別する、分類する、名付ける、仕組化する、理論化する。

それらが生んできたものは、争いであり、優劣の区別であり、進歩という名の退化であり、効率化という奴隷制度であり、理論という名の押し付けであったのかもしれません。

自分の生活の中に、余白と間を意識的に作ることで、本当に大切なことは何なのか、生きるということはどういうことなのかを考えさせられます。それと同時に、こういう話が出来る仲間たちが周りに増えてきていることもうれしいことです。

猛暑日が続きます。
どうぞ皆様お身体ご自愛くださいませ。

土用干しの梅