最近の出来事をつらつらと書いてみます。
■衆議院選挙と投票所について
先週末に行われた衆院選。我が家に指定された投票所は、なんと僕が卒業したK小学校!前回選挙の時は歩いてすぐの公民館だったのですが、激坂を20分登る山の上の小学校が投票所になったのです。もちろん車で行けなくもないのですが、坂道の多い近所を散歩する機会もないだろうから、と、選挙権を持つ19歳の長女と妻と一緒に散歩がてら登っていきました。
実に数十年ぶりに入った母校ですが、古くなったなあという実感です。そりゃそうか、卒業してから35年以上経ってますもんね。
懐かしさに浸る一方、投票所としてこの立地はどうなのか?と疑問に思いました。まず、車移動できる人はともかく、徒歩で行くには僕たちでも正直キツい。となると、お年寄りは投票にいけたのか?と、近所に住む高齢世帯のおじいちゃん、おばあちゃんたちの顔を思い浮かべていました。老人ホームなどに入居しているお年寄りは不在者投票などの仕組みを利用できますが、投票所によっては、これから益々足が遠のくお年寄りが増えるのでは。僕たちが投票に行った時間帯でも、お年寄りはまったく来ておらず、同じ世代の大人ばかり。結構高齢化している地域なんですけどね。
なにかと話題になる「シルバー民主主義」ですが、人口の多い高齢者の意見がとおりやすく、若い人の意見がとおりにくいという議論があり、まあ確かにそうかもしれない。でも、僕が見えている景色では、むしろ物理的に投票に行けないお年寄りが増えているのではないかと思うのです。祖母が生きている頃も「自分はもうしんどいから投票には行けない。若い人に任せる」と言っていましたしね。まあ、これに関してはかなり地域差はありそうですが。
そして、逆に若い人たち(長女のような10代の若者含め)は結構みんな投票に行ってるのです。たとえば、高校3年生の次女。彼女は3月生まれなので今回投票権はなかったのですが、18歳を迎えている部活の同級生は、みんな投票行ってたよ〜と言っていました。確かに人口は少ないかもしれないけど、政治に対する関心は高いのかもしれません。親の教育ももちろんあるでしょう。それが、20代に支持されたといわれる国民民主党の躍進に繋がったのかもしれませんね。
とにかく、社会や暮らしを人任せにせず、自分ごとにするという意識は大切です。文句を言う前に自ら動こう。義務を果たそう。若い人たちを見ていると、大人よりも真剣に将来のことを考えている気がします。
こんな記事もありました。若い候補者に投票したい、というお年寄りも多いようです。
「シルバー民主主義は本当? 実験で見えた高齢者の意外な投票行動」
■神社仏閣めぐりと「成長」について
先日、和歌山の丹生都比命神社と高野山に行ってきました。高野山は久しぶりだったのですが、開山1200年の奥の院、苔むした墓所には戦国大名の墓もあります。信長の墓所、秀吉の墓所。古いなあと思っても、今から450年前。高野山の歴史の中では、比較的新しい方なのかもしれませんね。
このブログでいつも書いていますが、僕は時間を100年単位で見るようにしています。特に神社仏閣めぐりをするようになってから、よりその意識が強くなりました。神社の歴史に比べると、自分たちが生きている数十年なんてたかだか一瞬。だからおろそかにするというのではなく、ちゃんと務めを果たして次世代にバトンをつなぐのが役目だと思うのです。
昨日、白秋共同研究所が主宰する企業人事向けの研修「HCT Hakushu Career Transition」が開催されました。その中で、成長のメカニズム四象限があり、
【1】成長体験(成長を経験したエピソード)
【2】成長の定義(成長を自分なりに言語化)
【3】成長の図化(2を踏まえて、成長を図や絵で表現)
【4】行動習慣(成長するための行動習慣3つ)
これらを書いて話し合うというワークがあったのですが、自分は最後の「成長のための行動習慣」3つを、①居心地の悪い場所を探して飛び込む ②常に大局観に立つ(物事を100年単位で考える)③でも、無理はしない を挙げました。
物事を百年単位で考えると、経済でも政治でも大きな流れの中での「今」として捉えることができ、右往左往せずに済みます。今、この状態があるのは、いつ、何が起点だったのか。歴史の中でどういう転換期があったのか。この感覚を常に持っていたいものです。
月別アーカイブ: 2024年10月
少なくとも自分が見えている範囲では暮らしやすい社会になってきた
我が家の庭も秋の雰囲気。金木犀の香りが漂い、タマスダレも満開になりました。秋は大好きな季節です。
つくづく、良い時代になってきたな〜と実感しています。
というのも、人々が自立に向かっているし、みんなで助け合って生きていこうよ、という思いが強くなっているように感じるんですよね。
特に若い人を中心に、このような考え方が広まっていると感じます。社会そのものが成熟してきて、人は人、自分は自分というスタイルが強くなり、同調圧力のようなものが薄れてきています。少なくとも僕が見えている世界では、違いに対するリスペクトがまず最初にあり、自分も他人も大切にするという考えと共に、地域の役に立ちたい、社会に貢献したいという人が増えています。良い時代になってきました。
自立に向かうというのはとても大切なことですよね。ウェルビーイングの要素のひとつに「自分で決定する」というものがあります。仕事や学びの選択、人や社会との距離感、住む場所、一日の時間の使い方、お金の使い方。誰かに指示されるのではなく、「自分で決める(自己決定)」ことが、幸福度に繋がるのですよね。
情報に対しても同じで、SNS、マスメディアや大企業、政府の情報を鵜呑みにしないのはもちろん、医療の選択、食べる物、着る物も自分で吟味して決定する人が増えてきました。僕もそのうちの一人です。無添加のものやスーパー、コンビニの出来合いのものは極力購入せず、できるだけ自宅で作れるものは作って生活しています。TVもほとんど見ません。必要な情報は自ら検索して取りに行く。そのために、自分の審美眼を養い、真贋を見分ける力を身につけることが大切です。一見すごいように見えることでも、中身がなかったり、ハリボテだらけのものが多いですから。(過去記事「コピペ社会をどう生きるか〜持てる武器を増やす」2024/05/14参照)
政治に対する関心が若い人の間で高まっているのも事実で、「自分ごとにする」という考えが強いので、人や国任せにせずに、自分たちでなんとかしなければならないという思いの元、選挙に行く若者が増えているのも嬉しいことです。今月の衆院選は、僕も19歳の長女と一緒に投票に行きます。まあ、国民として、自分の生活だけでなく、今の選択が子どもや孫の将来にも直結するので、当たり前といえば当たり前なんですけどね。
先ほどの「思いやり」でいうと、信号機のない横断歩道でも一旦停止をして、歩行者を優先させる車が増えてきました。元々日本では、信号のない横断歩道では車が優先で、渡りたい歩行者は車の往来を待ってから渡るというのが一般的でした。
自分の仕事先だったアメリカでは全く逆で、横断歩道は歩行者優先で車は一旦停止しなければならない(あるいは、バンプが設置されていて減速を余儀なくされる)のに、なんで日本は車優先なの?と帰国する度に違和感を感じたこともありましたが、最近、街中に高齢者がぐんと増えてきたこともあり、信号のない横断歩道でも一旦停止をし、歩行者を先に渡らせる車が増えてきました。高齢の人や身重な人に優しい社会になってきたなと思います。
人が足りないのも承知の上、様々なサービスが手薄になってきたり、コンビニの営業時間が短縮されたとしても、あるもので満足したり、自動化できるものは自動化したり、みんなで助け合えばいいじゃないかという感じですね。良い社会です。ただ、まだまだ過渡期。一部、昭和の残り香を身にまとっている方々もいて、価値観が混在しているのは事実ですが、それはそれで良いでしょう。歴史を振り返ればそういう過渡期は数十年単位で発生しています。徐々に徐々に、自然の流れで変わっていき、最適化されていくものなのです。
あくまで、自分が見えている世界だけの話ですが、こうして、人と社会と距離を置きながら客観的に観察していると、経済的、安全保障的問題は多々あれど、ミクロ視点では本当に良い社会になってきたな、と実感するのです。
気張るな、というメッセージをいただきました
いろんな方から悩みや相談をお聞かせいただく中で、共通して感じるのは人の根底にある「不安」です。
人って、先が見えない時や、自分がコントロールできない時、見たことのないものが目の前に表れた時に不安を感じるものです。特に、自分のコントロールが効かない状況になった時に、不安になり、恐れ、攻撃的になる傾向があるように思います。
幼い時から、目標を持つこと、なりたい自分像を明確にすること、夢に日付を書き、逆算して行動することなどを徹底的に教え込まれて来ましたので、そのとおりにならないと、やばい、どうしてだろう、と焦ったりもします。不安だから、人の評価も気にします。人からどう思われているだろうかという不安が根底にあるので、キラキラ投稿をしたり、ビジネスやってますアピールをしたり、はたまた世の中を分かったかのように憂い、批判する投稿をしてみたりするんですよね。かまってほしいんですよ、不安だから。
最近、不安を感じるのって「自分がずっと生きている」ことを前提にしているからだよな〜と気づきました。なんとなく、いつかは死ぬとは思っているものの、それがいつか分からない。分からないことを分かろうとするからがんばるんです。分からないことはリリースすれば良いのにね。
自分の人生にとっての時間は有限かもしれませんが、時間そのものは無限です。
神社仏閣巡りをしていると、物事を千年から二千年の単位で考えざるを得ません。このブログでは何度も書いていますが、時間というのは、歴史の年表のように左から右へ直線的にリニアに繋がっているもので、それが何万年と続く中で、たまたま今生まれて来た人が80年かそこら生きているだけのことなんですよ。それに、今目に見えている世界がすべてでもなく、この80年そこらで一旦地球という「バーチャルフィールド」に降りてきて、ちょっと色々と経験して、また別の世界に飛び立つということで、現世は修行の場、という仏教的な考え方もあれば、現世は感謝の場、という神道的な考えもあり、いずれにしてもテンポラリーな「場」としての捉え方もできるということなんですね。
みんな違ってみんないい。
心配事の99%は起こらない。
大丈夫、気張らなくてもなんとかなる。
世の中の経済の仕組みを知れば分かるけど、自分の稼ぎは誰かの借金。
一人で豊かになっている人は、その他大勢を貧しくしているということ。
そういえば、最近「気張るな」というメッセージを尊敬する方からいただきました。そうか、自然体でいいんだ。無理に仕事もがんばらないし、無理に付き合いを広げることもなくなったし、そのおかげで周りには価値観の合う気持ちの良い人だけが残り、ストレスとは無縁の生活を送ることができるようになりました。
幸せになるのは、未来ではなく、今の自分の心なんですよね。
目の前にあることを感謝して生きることが大切ですね。