正しい方向に導いてくれる羅針盤


普段の生活の中で生じた誤差を調節する方法は人それぞれに違うと思いますが、僕の場合は、それがランニングとブログです。

10km、20kmを一人で走っている時って、結構「暇」なんです。イヤフォンで音楽を聴いても、人間ウォッチングをしても暇つぶしにはなりません。かと言って、スマフォやPCや本を見ながら走る訳にもいかない。そういう状況だからこそ、普段は時間がなくてゆっくり考えることができないようなこと、例えば、仕事や今後の方向性といった中長期の問題から、一週間あった出来事までを、熟考し、評価し、反省するのに良い時間になるのです。

不摂生な生活が続くと、ダイレクトに走りに影響が及びます。ランナーは誰もが「楽に走りたい」と願っているので、辛い走りになると「ああ、飲み過ぎたかなあ、もっと節度ある生活にしないとなあ」と反省します。今週は仕方なかったけれど、来週以降はちゃんとしようと思ったり、仕事のことでも、ああしよう、こうしようと熟考します。

時間がないというのは、悪ですね。
物事を考える時間がなければ、成長もありません。成長がなければ成功もあり得ない。一週間のうちに、数時間でもそういう時間を取ることは絶対必要だと思います。そして、考えたことをアウトプットするための手段、それがブログなんですね。

またひとつ学ばされた


12月に入りましたね。

今年も12分の11が過ぎ去った訳ですが、そろそろ今年の振り返りと同時に来年の絵も描かなくてはなりません。年齢と共に一年の経過がどんどん早くなっていくことは既成の事実で、その速度と共に本来であれば成長速度も上げて行かなければならないのですが、まあ、一日一日が勉強という感じで遅々とした歩みではありますが、一歩一歩がんばって行きましょう。


そんなこんなで、11月最後の日曜日は今シーズンのフルマラソン初戦でした。場所は加古川。独立系の非公認大会ですが、陸連公認コースを走るので初戦の足慣らしとしては問題なし。今年3月の篠山ABC以来の「42.195km」を久しぶりに体験して来ました。

しかし結果は・・・自己ワースト記録。
マラソン初参戦以来、ずっとサブ4(4時間以内で走ること)を自慢にして来たのですが、マラソン初参戦の時よりも35分も遅い、4時間30分でゴール。個人的には今まで走った中で一番過酷なレースとなってしまいました。

しかし、マラソン大会というのは良いものですね。
幾らレースが過酷なものになったとしても、大会の雰囲気が大好きです。

気温が高くて軽い熱中症になったことも、25Kmから両足が攣ったことも、コンディションの悪さと準備不足ですね。走る前から「明日はヤバイかもな」と思っていたのが的中。無事に完走出来ただけでも良かったと思っています。

次回は年明けのハーフマラソン、そしてメインに据えている3月の篠山ABCへとシーズンは続きます。これだけしんどい思いをしても、まだ走りたいと思うのが「始めにくく、やめにくい」マラソンの魅力かもしれませんね。

またひとつ、マラソンから学びを得ることができました。

ウサギとカメの二択であれば、カメを選択すべき理由について


今日は新幹線の中で更新。

当社は毎年社員旅行があります。

旅行積立は毎月3,000円。基本的に旅費は会社と従業員で半額づつを負担。旅行先によっては過剰積立が発生し満了月で超過分のキャッシュバックがあります。毎月積立か一括払いかは個人の選択に委ねられているのですが、僕は毎月積立を選択しているので、今回は15,000円のキャッシュバックがありました。これがね、小さい話ですが嬉しいのですよ。現地でのゴルフ代に充当できるし。


ウサギとカメの話があります。

僕は毎月コツコツと定額を貯蓄する方を選択したからこそ、小さな喜びを手にすることが出来た。これを一括払いにしていると、「はい、3万円徴収でーす」と総務から声が掛かった時に「重たいなー」となる訳ですね。キャッシュバックという臨時ボーナスもゲットできない。大きなことをするには体力がいるけれども、小さなことを積み重ねることは誰でもできます。

これは仕事でも同じだと思います。

スティーブ・ジョブズがスタンフォード大学の卒業式で残した言葉のとおり「好きなことを仕事」にして成功できれば最高の人生だけれども、一体どれだけの人がそうすることが出来るでしょうか。ほとんどの人は今出来ることをコツコツと続けながら、その仕事を好きになるか、その中で得意分野を見つけて伸ばしていくかしかありません。

ICHIROYAさんのブログに「好きだから上手くやれる」のではなく「上手くやれるから好きになる」というエントリーがあり、大変共感しました。

ICHIROYAさんは、「「好きなこと(パッション)」を探すのではなく、さまざまなことをとにかくやってみて、「上手にできそうなこと」を探すことが、与えられた人生をもっとも楽しく生きるコツになるのではないかと思う。」と書いています。逆に言うと、探さなければ見つからない。何かが急に降りてくるようなものでもありません。


よく成功者の言葉として「自分の人生に後悔はない」「諦めずにやることが成功の秘訣」というのがあるけれど、斜に構えた見方をすると「それは、あなたが(結果として)成功者だから」です。成功を何とするかはそれぞれ異なりますが、「成功」というのはごく個人的な体験でしかない。だから、すでに成功している人の言葉は、個人として色々試した結果、成功したのであって、万人に共通する手法ではない。

例えば、毎年、プロ野球選手が何百人とクビになりますよね。プロ契約出来ただけで「好きなことを仕事に出来た」無数の野球人のヒエラルキーの頂点です。しかしそんな素質を持った彼らでさえ、毎年、色んな理由でクビになるというのは、彼らが「諦めた」からなのでしょうか。いや、そうではないはずです。限界までがんばったけれども、それ以上に野球を上手になることが出来なかっただけです。成功するまで諦めないというのは難しいことですね。

宝くじに当たって億万長者になるか、東証の鐘を華々しく鳴らすことができる起業家になれるかで言うと、確率はほぼ同じです。有名な社長や起業家、投資家として億万長者になる人間は、本当にごく一部です。宝くじとの違いは、本人の努力(運やタイミングも含む)次第でどうにでもなるという点でしょう。

では、圧倒的大多数の凡人は何が出来るでしょうか。

それぞれのゴールイメージによって異なりますが、今できることをコツコツと積み上げることしかないのですね。先にも述べたとおり、誰にでも出来る唯一のことは、努力と継続です。うまく行けば、その中でポンと飛び出ることができるかもしれない。それを手中にする人はラッキーな人。極論ですけれど、そいういことのような気がします。とにかく、今出来ることをコツコツと続けよう。

今回の積立の件はとても小さいことだけれど、色々と学ばされることがありました。

サイボーグのようにはなれないけれど


サイボーグのようになれたら良いなと思う時がある。

過去の記事の中で、マリッサ・メイヤーのガリ勉ぶりに注目したことがあったが「ガリ勉のススメ」(2013/9/6更新記事)、引用元の日経ビジネスの中で言う「ガリ勉」とは「猛努力家」のことをいう。本来持つものに加え、あれほどまで努力をすれば世界の誰もが知るビジネスエグゼクティブになれるのだろうかと思う。これはイチローや孫さんなどの有名人だけでなく、エグゼクティブに共通する性質だということは言うまでもない。

常に泥酔し、煩悩の固まりである僕からすれば、まさにサイボーグである。


あくまで手段としての話だし、前述とは矛盾もあるかもしれないけれど、成功のゴールイメージに到達するためのプロセスは千差万別だとも思う。何が良い、悪いの話ではない。そこに到達するための最短距離が、ガリ勉が良いのであればガリ勉になるべきだし、感情を殺して黙々と一つのことに集中し、滅私奉公するのであればそれも良いだろう。プライベートやライフワークバランス(死語)を重視して最短距離で行くのであればそれも構わない。

しかし、ことビジネスに関して言えば、「ガリ勉タイプ」の方が成功確率が上がるのは恐らく事実であろうと思う。自分が思っている以上に、この世には「天才」と呼ばれる人が山のようにいる。しかも規格外の天才だ。何が天才かというと、持って生まれたものに加え、人の何倍も努力をする。勝てる気がしない。一部のそのような人たちと幸いにして一緒に仕事をする機会があるが、彼らのビジョナリーぶりはすごい。

そして、大切なのは、過去の成功体験を捨てて、覚悟を決めるということだとも思う。言い換えれば、臨機応変、柔軟性、チャレンジ精神。成功したいのなら、小さい自分の世界観と、こだわりを捨てて行こうと思う。

クレイジーな発想は「常識」という無価値な壁をブレイクスルーする


ハフィントン・ポストから。

クレイジーな人々が新しい時代を創る!「ダム撤去」を常識に変えた”ダムバスター”

ダムが環境に及ぼす影響を懸念する人々がダムを撤去し「川を開放する」という運動のドキュメンタリー。実際に過去20年で約850基のダムが撤去され、生態系が取り戻されつつある。クレイジーと言われる人々の発想が、今の時代だからこそ必要とされる。これは僕も常日頃考えている「シュリンク」と「散らかしたものを片付けるというビジネスモデル」とも(比べるのは恐れ多いけれども)リンクする。また、「環境経営」のお手本として、MBAの教科書に必ず載るパタゴニアの経営戦略も思い出される。(参考:「ぶれない環境経営がブランドになったパタゴニア 時代が会社に追い付いてきた」– 2014/6/2 日経ビジネス)

時代は変わる。今「常識」と言われていることは、いつどの時代に設定されたものなのか。その時代背景と、今の時代とは同じなのか。

貨幣価値は?
人口は?
街は?
ワークスタイルは?
家族構成は?
経済は?
インフラは?
産業構造は?
市場規模は?

多角度的かつ比較して考えるなら、今、「そんなの常識」と言われていることが、いかに古いかがよく分かる。僕達が子供の頃と、自分達の子供が生活する環境は全然違う。たかだか30年で、全然違う。違いに気付き、個人で責任を取らないための言い訳となる「常識」と、集団主義的な固定観念などの、余分かつ不要な要素を取り除き、濾し取り、最終的に残るであろうものは何か。それは、社会でも、仕組みでも、人間でもなく、「自然のサイクル」である。数百年後に人間が「絶滅危惧種」として認定されないという保証はどこにもない。

そういうことを学ばされる気がする。


今日は久しぶりに鈍重から開放されたので、帰宅前のカフェ勉タイム。
従って、ノンアルコール。

ポール・クルーグマンの視点から


現代ビジネスで久々にグッと来る記事があったのでリンク。個人的には必読の記事だと思います。

本誌独占インタビュー ノーベル賞経済学者クルーグマン 「日本経済は消費税10%で完全に終わります」(現代ビジネス)

プリンストンのポール・クルーグマン教授。恐らく、現在で最も有名なノーベル賞経済学者です。少し経済学やっている人なら誰でも知っている超有名なマクロ経済学者ですね。

で、彼の主張を一言で言うと、アベノミクスの金融、財政両面の効果で日本経済がせっかく持ち直してきたのに、なんでそんな早くに消費税アップしたの?しかも来年には10%に引き上げると言っている。まだ状況は脆弱なのに、そんなことしたら日本完全に終わるよ?バカじゃないの?今からでも遅くはないから、消費税を5%に戻しなさい!ということ。

普通に考えてみると、消費税アップは消費の冷え込みに繋がりますよね。みんな節約しようとするから財布のヒモが固くなる。お金を使わない。購買意欲が低下する。ただでさえ今は、円安の影響、原材料の高騰で物価が上昇しているのに。

でも、一方で企業の業績が良いから、給料もアップしてるんじゃないの?という意見もある。確かに、大企業を中心にベアアップしたので賃金は上昇傾向にあるし、経済効果の影響で企業が採用に走り、人手不足、人件費は上昇傾向。

でも実際はどうでしょう。
今、心底「豊かになった!めっちゃお金増えた!」という人っています?

ポイントはそこなんですね。

末端まで「景気が良い話」は降りてこない。多少、額面が増えたとしても、地味に税金は(消費税だけじゃなくても)上がっているし、厚生年金等の保険も少しづつアップしている。肌感覚で感じないくらい少しづつです。だから、いつまで経っても「あれ・・・なんでお金増えないんだろ」という人が多いんですね。つまり「実質所得」は減少しているんです。だから、まだまだ景気回復は脆弱なんですね。

また、人件費がアップすると、それが物やサービスの値段に転嫁され、更に物価は上昇しますよね。そんな時に消費税を更にアップすると、もうモノは売れなくなり、売るための価格競争が生まれ、かつてのデフレに逆戻りという訳です。だから、もう少ししっかり景気が回復するまで待とう、時期尚早!と言っているように僕は解釈しています。

経済は感情で動く。感情というのは、「物を買おうかな、それとも我慢しようかな」という人々の購買意欲です。購買意欲が刺激されるかどうかは、感覚的に財布にお金があるか、ないか、使っても良いと思うくらいの余裕があるか、ないか、です。肌身に景気回復を感じない人が大多数のまま、消費税アップに踏み切ればエラいことになるということです。

もちろん、経済は複合的な要素がたくさんあるし、クルーグマンが言っていることが100%正しいとも限りません。誰も、将来を予測することなんて出来ないし、クルーグマンも百発百中ではないからです。これからどうなっていくかは、神のみぞ知るというところでしょうか。

まあ専門的はことはさておき、僕が言いたいことはただひとつ。景気を回復させるためには、僕のように、お金があれば使う、なくても使うという「宵越しの金は持たない主義者」ばかりの世の中になれば、即OKということ。可処分所得を使い果たす人には、国から援助が出て欲しい・・・。笑

同じような内容の記事を、今年の5月に書いていたのを思い出しました。この時は泥酔状態でのエントリー、支離滅裂な内容に苦笑するかしかありません。

「可処分所得を使い果たす人間の思考パターンについて」(2014/5/1)

無数の本の前を、百科事典が歩き回っているような光景


図書館に来るといつも思うこと。

びっしりと本が並んだ書棚の前を人が歩いている。

本とは、文字による情報が印刷されて製本された物だけど、それを手に取って読む人間も、実は情報の固まりだったりするんですね。人の体を形作っているのはDNAで、遺伝子には10万種類、60億文字の「人体の設計図」が刻まれています(出典:NHKスペシャル 驚異の小宇宙・人体 3 遺伝子・DNA)。

その遺伝子情報を本にすると百科事典で数百冊分とか。書棚の前を人が歩いている光景は、あたかも本の前を数百冊の百科事典がのそのそと歩いているようなもので面白いですね。今、隣に座っている子供達も、細胞の中では唯一無二のDNAがせっせせっせとタンパク質を作って成長を続けている。もちろん、遺伝子情報は文字でも何でもなく、4種類のアミノ酸に、A、T、C、G と記号を振っただけのものを「情報」と呼んでいるだけなのですが、この情報という定義を考えてみても面白いと思います。


メモリを増設するかのように、脳も拡張できれば良いのに。

一昔前は人間は脳の数パーセントしか使っていないから可能性は無限大って、自己啓発界隈で安っぽく使われていたけれど、今の研究によると、人は日常生活においても脳の大部分を使いながら生活しているらしいです(定義の仕方にもよるが)。でも、もし記憶力に限界がないのだとしたら、この書棚にある書籍を片っ端からストレージできるくらいのポテンシャルは余裕であるに違いないし、実際にあるのでしょう。

結局、筋肉と同様に刺激を与え続けることが必要なのであって、何も考えずに過ごすか、紙とインクと文字の世界にダイブして委ねてみるか、ということなのだろうと思います。


「Questo mondo immenso」というイタリア語は、「この大きくて素晴らしい世界」と訳せるのだと思いますが、図書館もある意味では世界。そして、その一冊一冊を開くと、また新たな世界が広がっている。まさに、Questo mondo immenso です。

Questo mondo immenso – STUDIO APARTMENT

今まさに帰阪中なので、帰阪という言葉について出来るだけ浅く考えてみる

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一週間の横浜滞在を終え、鉄路にて帰阪中です。

ちなみに「帰阪」というのは「大阪に帰ること」ですね。

厳密に言うと、僕の家は兵庫県の阪神間に位置しているので「帰兵」や「帰神(神戸)」(聞いたことない)が正しい表現なのかもしれないけれど、少なくとも新幹線で「新大阪駅」に帰るので、「帰阪」という言葉を使うことにします。

東京や大阪などの大都市は、「上京」「帰京」「来阪」「帰阪」「入洛」などという言葉を割と良く使うと思うのですが、興味を持って調べてみると、各地域により地名の最初の文字や後ろの文字を取って「帰◯」「上◯」「来◯」などということは良くあることなのだそう。

【参考】『帰名』とは…こういうこと?(OK wave)

(例)
帰名=(名古屋に帰ること)
来福=(福岡側から見て相手が来ること)
帰仙=(仙台に帰ること)
来沢=(金沢側から見て相手が来ること)

などなど。
もちろんこれらは地域毎に便宜上使っている言葉でしょうから、全国的レベルで認知度が高い訳ではないでしょうけれど、各地域毎に調べてみると面白い結果が出そうですね。

という訳で、今日はこの辺で。
 
 

 
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消しゴムはやっぱりSTAEDTLER


一人でいると、自然に規則正しい生活になります。

しなければならないことが決まっているし、イレギュラーが発生しないので、オンタイムよりもシステマチックに動ける感じ。仕事中はイレギュラーが発生しまくりますからね。「この次はこれをして、その後はこの打ち合わせをして・・・」というスケジュールなんて、一通のメール、一本の電話でいともたやすく崩れてしまいます。

こちらでは夜に帰ってくると、ジョギングをして、近所でご飯を食べるか買うかしてホテルでPCをカチャカチャする。飲む前にセンシティブな案件は先に片付けておき、それが終われば、好きな音楽を掛けてお酒を飲み、リラックスしてこなせるような仕事や書き物は寝るまでの時間に行う。

ああ、規則正しい!!

たまにFBをのぞいては、お盆休みの楽しそうな写真を見て癒やされたりね。

もちろん、取引先の中ではお盆休み関係なく動いているところも多いので、普段と変わらずメールもバンバン飛んで来て、いきなりその対応に追われるということもありますが、ピリッと効いたスパイスのようなものと思えば、それも味わい深いものです。

夏の風物詩:一家離散


お盆休みに入っているところも多いのではないでしょうか。
今年の我が家は一家離散。パパは東京で大学の講義のため一週間一人暮らし。娘たちは、祖父母に連れられて八ヶ岳の山荘へ行き、家内は地元で悠々自適という構図。いかにも我が家らしい離散ぶりです。

出張や海外など、一週間単位で娘たちと会えないことは良くあるとは言え、それはそれでなかなか寂しもの。今は、facetimeやLineなどでWeb-conが出来るだけ良い時代になったという感じでしょうか。

ちなみに、一人暮らし中のアイテムとして、やはりどこに居ても良質の音が聞ける「A33」を持参しています。これ、本当に良いわ。

ちなみに、A33のレビュー記事はこちらから。


8月は「人の命」について考える機会が多くあります。

終戦、日航機墜落事故。
最近では、エボラ出血熱から今朝のロビン・ウィリアムスまで(泣)。

この人は明日も生きているはず。
今日と同じ日が明日も続くはず。

これらのことすら改めて考えることもないくらい、人間って意識のどこかで、今日と同じような一日が明日も過ごせると安心しているところがあると思います。でも、誰が明日のことなど予想できるでしょうか。たった一日、たった一晩で、平和な日常が一転してしまうこともある。だから、家族や仲間や友人たちには、いつも感謝の気持ちと愛をもって接していたいと思います。

明日死ぬかのように生きろ、永遠に生きるかのように学べ

上記の有名な格言があります。
自己を奮い立たせるための言葉としてはとても素晴らしいし、僕も座右の銘にしている一つではありますが、いつでも死ぬ覚悟を持って生きられるというのは、まあ、残される可能性がある人々にとっては辛いものですね・・・

それでは、また明日。