その街の幸せを、その街の住人が決めていく

窓を開けてコーヒーを淹れていると、外から金木犀の香りが漂ってきます。夜、少し肌寒くなるこの頃が一年で一番好きな季節です。

昨夜は久しぶりに六甲道をスタートしてHAT神戸を周って帰る神戸ランを楽しみました。走った後はもちろん、銭湯で汗を流し、ラン友さんたちとトリキで金麦メガを流し込む極楽コースです。

神戸は海も山も美しい街です。海沿いのランナーのメッカ、HAT神戸の夜景はまた格別です。

海辺の夜景が美しいHAT神戸

神戸は人口減少や衰退やらなんだかんだ言われていますが、僕としてはこの手頃でコンパクトな街のサイズが大好きです。夜、三宮に飲みに行っても閑散としていますけど、健全といえば健全だし、ライフスタイルが大きく変化して、そういう時代に突入したんだろうなと思っています。

最近特に思うのは、規模や順位になんの意味があるのだろうかということです。

サイズや数を気にするということは、それを良し(あるいは正義)としているからですが、脱成長時代においてはむしろ質を気にするべきです。株価や売上や人口はもちろん大切ですし、観客動員数も、利益率も、人口増加率も、経済成長率も、高ければ高い方が良いと、子供の頃からずっと教わってきました。でも、それを追いかけるのはほぼ不可能です。新しいビルが建てば、どこかのビルが空く。梅田が再開発されると本町が閑散とする。どこかの街の人口が増えると、どこかの街の人口が減る。総数が増えず縮小しているのだから、限られたパイを奪い合っているだけです。

そこで質の話になるのですが、大きければ良しというのではなく、個人としての幸福度をどう上げて行くかが問われているように思います。割とドラスティックに考え方を変えることと、本質を見極める力を養わなければなりません。生きるとは、働くとは、国家とは、文化とは、歴史とは。ただ働いて金を稼げば良いというのではなく、一見ビジネスとは無関係の要素と向き合い、自分の幸せを自分で決定していくことが求められるし、街も同じだと思っています。

その街の幸せを、その街の住人が決めていく。
「よそのことは知らない。ぼくらはこれが幸せなんだよ」

そんなことをさらりといえる大人になりたいものです。

【閲覧注意】自己責任でしか生きることができない厳しい時代の到来

年金65歳引き上げ問題がここ数日の大きな話題になっています。

国民は馬鹿ではないので、そんなこと百も承知なんですけどね。そんなこと分かってるのに国が公に年金制度が破綻していると認めてこなかったことに、僕はものすごく憤っています。アラフィフの僕たちがトバッチリを食うのはまだいいわ。今の若者、そして、これから生まれてくる子供たちのことをどう考えているのか。子供たちに負担を負わせて、少子化問題を解決?東大卒の官僚や政治家はこんな無能でしたか。

子育て世代はみんな実感していると思いますが、子育てってものすごくお金が掛かるんです。少なくとも日本では。子供一人年間100万円と思ってください。大学生の子供がいたら、年間200万円です。普通の人、子供持てますか?今の日本で年収2000万円の人、どれだけいます?無理でしょう。

僕が政治家なら、そして、もし、こんなことがまかり通るなら、子供に負担負わせるくらいなら、人生にも定年を設けなければならなくなるといいます。80歳までは面倒見るけど、それ以降は年金なし。あとは好きにやりなさいといいますよ。タンス貯金崩しなさいといいます。タンス預金がない人は働け。その時に仕事があるかないかは知らん。国はアンオフィシャルにこう言っています。老後は自分でなんとかせえ。死ぬまで働け、仕事があるかどうかは知らん。と。

むしろ子供一人あたり出産したらご祝儀として1000万支給したいですよ。今の制度は逆です。子供生んだら、お金かかるんです。子供は贅沢品なんですよ。どんな社会やねん。衰退無能国家の典型ですよ。

子どもたちがワクワクしながら未来を待つような社会にしたいです。今のままでは子供たちがあまりにかわいそうです。必死で勉強して、必死で大学行って、必死で就活して、手取りわずか20万の半分が税金と社会保険に持っていかれるなんて。人生なんのために生きてるのかと思いませんか。夢も希望もない時代が、今まさに来ています。

皆さん、この問題をどう考えますか?マジで政治家を呼んでちゃんと議論したいです。これから先、経済成長が見込めないなら、消費税撤廃、もしくは、BI(ベーシックインカム)導入しかありません。衰退社会、シュリンキング・エコノミーというのはこういうことなんです。右肩上がり成長は2008年を境になくなったんです。なぜ認めないのか。

久しぶりにブチ切れてます、僕。

日常使っている何気ない言葉の意味について

毎日忙しい日々ですが、できるだけ集中力を高めたい時、締め切りに追われてお尻に火がついた時、「よっしゃ、気合いや!」という言葉が勝手に出てきます。毎日「気合い」という単語を何度つぶやくことか。それほどまで「気合い」は日々の生活と共にあります。

でも良く考えてみると「気合い」の意味について良く知らなかった自分がいました。さらに悪いことに「気合いじゃ〜」と言ったところで、やる気がでない時は何も起きないことも日常茶飯事です。そこで今一度「気合い」の意味について調べてみることにしました。

Weblioを見てみると以下のように定義されています。

き-あい 【気合(い)】
読み方:きあい

1,精神を集中させて事に当たるときの気持ちの勢い。またそのときの掛け声「_がこもる」「_をかける」

2,呼吸。いき。「_をはかる」「_が合う」

Weblio辞書 

 
なるほど、気持ちの勢いか。あるいは呼吸。非常に抽象的なのでちゃんと理解できたかというと良く分かりませんが、言葉には力がありますので、それを口に出すことで精神が集中され、事に掛かる時に勢いが生まれるのかもしれませんね。

あなどることなかれ。騙されたと思って、これからも使い続けよう。

同じように「癒やされる」という言葉も日常的に使用しています。この「癒やされる」も実はあまり意味を知らずに使っていました。ということで同じweblioで調べてみると、

癒やされる
読み方:いやされる

それとの関わりを通じて、辛い思いなどが和らぎ、穏やかな気分になること。ストレスが軽減されること。

Weblio辞書

 
そういえば、仕事で煮詰まった時、ホームセンターのペットコーナーに行くことがあります。僕は動物全般、特に猫が好きなので、猫コーナーでじーっとにゃんこ達を眺めていると自然と目尻が下がり、笑顔になっています。

同じことが自然の中でも起きます。森の中を散歩する、空を見上げる、砂浜から海を眺めるといった行為を通じて、自然と肩の力が抜け、こわばっていた表情が緩むのです。

「癒やされる」という言葉について深く考えた時、それは「これでいいんだ、大丈夫」という気持ちなることと同意義なのかもしれません。日常に追われているとどうしても近視眼的になりがち。人との関わりも多いので、余計に視点が狭まってしまいます。でも、自分が生きている世界なんてちっぽけなもの。

自然の中に身を置いたり、猫を見たりしていると、「これでいいんだ」と思うし、自己肯定感が高まります。忙しい時ほど、苦しい時ほど、自分が生きている多様な世界に目を向ける。人間から離れる。

見る対象を変えることは大切ですね。日々、勉強の繰り返しです。

口角を上げて笑顔でいることって想像以上の良い効果がありますよね

普段、小難しいことばかり考えていることが多く、知らずしらずの内に険しい顔つきになっているなあと、ふと気づきました。

確かに生きていると良いことばかり起こる訳でもなく、たまにガッカリすることもあるのですけどね、世の中全然捨てたもんじゃなく、毎日の生活の中で笑顔になるようなことがたくさんあります。

例えば、仕事部屋からは緑がたくさん見えるし、毎朝、近所の植物園までジョギングして、マイナスイオンたっぷりの新鮮な空気の中で深呼吸する。これって本当に今自分が手にしている生活の中の素晴らしい一面です。それに、眉間にシワを寄せて考えている小難しいことだって、結局は社会を良くすることであったり、対象となる会社を成長させることだったり、人を笑顔にすることだったり、ビジネスであろうが、ボランティアであろうが関係なく、楽しいことばかりです。そう考えるとPCに向かっている時も、MTGの時も自然に笑顔になれることに気づきました。テンションが低い時は、無理やりにでも口角を上げると自然に笑顔になるんです。

で、なんでこういうことをわざわざ書いているかというと、元々、自分がかなりのネガティブ思考でして。しかもタチの悪いことに、ロジカルなネガティブ思考なんです。どういうことかというと、ダメだと思うことは、ダメな理由をロジカルに考えて、ダメなエビデンスを参考文献と共にレポートにまとめて提出してしまうくらいのロジカル・ネガティブシンキングな持ち主なのです。

でもね、過去の経験から理解しているのですけれど、これって何もプラスのものを生み出さないのですよ。何も良いものを生み出さないのであれば、最初っから陽転思考でニコニコしながら、どうにかなるさーって考えてる方がよっぽど良い。怒りや失意からは何も生まれないのと同じですよね。最初っからニコニコしてるといいよね。

それとね、自分のことばかり考えていると笑顔になれないです。人って、自分のためではなく、他人のために動く時に幸福を感じるのだと思います。

というわけで、最近は、ねじり鉢巻を頭にまき、一升瓶抱えて「かまへん、かまへん、ガッハッハッハー!!!」というオッサンを頭の中でイメージしながら、常に笑ってる自分でいるようにしています。

極端か。笑

最後に、近所の北山植物園のバラをおすそ分け。百花繚乱、咲き乱れていますよ。平日の早朝の植物園は人もほとんどいなくて、貸し切り状態。ゲートが開いている時はいろんな植物や花を見ながら歩いています。

口角を上げる練習。


年始には想像もしなかったような素晴らしいギフトをいただいた一年

今年を振り返った時に、自分が見ている景色がまったく違うものに変わったように感じます。特に今年の後半は仕事面でもプライベート面でも、身の回りが大きく変化し始めました。

昨年はコロナ禍による変化の中で、今後のキャリアや人生そのものをどう舵取りすれば良いかを自問自答し、その選択の中でどのように自分が社会に役立てるかを考えつつ、一方で体調の激的な不調も相まって悩み苦しんでいたのですが、今年は「ようやく道が開けた」と感じる出来事が多くありました。それらの出来事の一つひとつを書く前に、今年の振り返りを行ってみたいと思います。

2021年、年始に立てた目標の一つに「お金にならないことに全力投球」というものがあります。今年の元日のブログにはこのように書きました。

「所有よりもシェア。密よりも疎。囲い込みよりも開放。物質的な幸福より精神的な充足。管理よりも信用。お金よりも人とのつながり」

新しい時代を作るために同じ価値観を共有する人たちとの繋がり、コミュニティを益々大切にしていきます。いろんな意味で今年が資本主義のグレート・リセット元年になりそうです。

二つ目は、僕は変わらずここにいるよ、という安心感を与えることが出来る存在になりたいと思っています。VUCAの時代、不安が渦まく時代において、帰る場所という普遍的安心の場に自分自身がなる。そのためにはまず自分が強くならねばなりませんからね。組織という単位だけでなく、自分自身が強い個となることを目標としています。

【2021年】事業は30%成長、プライベートではお金にならないことに全力投球(2021/1/1 ブログ記事)

今年を振り返った時に自分が個として強くなれたかどうかは分かりませんが、「同じ価値観を共有する人たちとの繋がり、コミュニティ」は信じられないくらい強くなりましたし、本当にこの一年、今までにないくら新しい人々と出会うことができました。自分が大切にしたいコミュニティの数が増え、それはマラソンやゴルフといった趣味のコミュニティから、社会課題にどう向き合っていくか、対処していくかを真剣に考える産学官民が一つになった社会人の学び場であったり、政治・経済に関する意思決定に関わっていく部分であったり、多方面に広がりました。

濃い人間関係ができる一方、薄まっていく関係も当然ありました。それは自分が次のステージに向かうための「棚卸し」のようなものだと思っています。利害を求めて人間関係の取捨選択をしているわけではもちろんありません。自然に淘汰されて行ったという感じです。次のステージに上がるためのダイエットのようなものかもしれません。ちなみに「利害関係、金儲け」を優先することは、僕が今、一番距離を置きたい考え方です。それもあって「お金にならないことに全力投球」を例年以上に真剣に実践してきました。すると本当に不思議なんですけれど、過去最高にお金まわりが良い一年になりました。これは結果論であって求めてそうなったというわけではありません。

自分から広げよう、動こうと思っていないのに、ありがたいことに多方面から様々なお声掛けをいただくようになったのが今年の後半です。周りが動いてくださったということなんでしょう。多くの方々と出会い、学ばされることが本当に多い一年でした。感謝しかありません。それぞれの活動についてはまたゆっくりとご紹介したいと思います。

 
今年の1月に母が亡くなり、心に大きな穴が空いたままでいることに変わりはありませんが、渦巻いていた様々な感情が吹っ切れ、ただ純粋に、自分の持てる物で社会の役に立つためにはどうすれば良いかということをひたすら考え、追求した一年でした。そして、振り返ってみれば本当に素晴らしい一年になりました。100点満点、いや、それ以上を自分に与えてあげたいと思います。本当によくがんばった、自分。

今年は、たくさんの種を撒くことができました。
撒いた種を来年2022年に育て、大きく刈り取って行きたいと思っています。

どうぞ皆様にとっても、来年が素晴らしい一年になりますように。

情熱とビジネスの相関性について

12月に入りました。
PDCAサイクルが早い人は年末に限らず、常に振り返りを行っているかと思いますが、なぜだか12月と聞くと習慣的に一年の振り返りモードに入ってしまいます。

今年は自分としても大きな変化の年でした。そして周りを見回してみても、不確実な世の中における「自分のあり方」を模索している人が多いことに気付きます。大きな変化の中で自分自身の最適化を求め、思い切って住む環境を変えたり、転職したり、独立する人も多いですよね。

大きな情熱を持ってなにかに取り組むのは素晴らしいと思います。じゃあ自分はなにかに情熱を持っているだろうか。こと、ビジネスや会社という枠組みに対して。

残念ながら、年々低下しているように感じます。今となっては、ほぼ0に近い。あまりに多くを見過ぎたのかもしれない。「情熱とビジネスに相関性はない」というケースを嫌というほど見てきたからかもしれない。ちなみに「情熱とビジネスに相関性はない」という真実は、学歴と仕事ができることとは比例しないことや、お金と幸せはリンクしないことなどと同様、大人になって気付いたことの一つです。

ビジネスのアイデアを考える時、こうすればうまくいく、これは絶対売れる、これは多くの課題を解決する、と色々と思い浮かぶし、絶対こうあるべきだと強い確信も抱きます。でも、それはあくまでそのアイデアを求めている人がいるかどうか(=市場)でビジネスとして成功するかどうかが決まります。

自分がやりたいことと、それを飯の種にできるかどうかは別、ということです。

良くデータとして引き合いに出される「起業してからの生存率」ですが、創業から1年後は40%、5年後は15.0%、10年後は6.3%。 20年後はなんと0.3%の会社しか生き残っていません(←まあこの数字もほんまかいな?と思いますけどね、周りで起業した人みんな5年10年やってますからね)。

スタートアップの場合ですが、失敗して撤退する理由の第一位は「市場が存在しなかった」というものです。次に資金枯渇、人材不足、競合に負けた、などと続きますが、僕の肌感覚としても「市場がない(あるいは小さすぎる)」というのがほとんどだと思います。これはスタートアップだけでなく、企業の新規事業も同じです。

逆に今市場がなくても今後拡大しそうだ、という分野には資金が集中します。例えば、ロボットや自動運転、今流行りのメタバースなどですね。でも、ヒット製品を生み出さなければいずれ撤退の第二位である「資金枯渇」に繋がって行きます。

いずれにしても、情熱や想いだけではなんともならないということが良く分かります。市場の有無とマーケティングがとても大切です。そこを見ずに情熱と想いだけで「これやりたい」という人が多いので、ちょっと困ってしまっています。確かに成功者の本なんかには「情熱と想いが一番大切」とどこにでも書いてますけど、それは成功したから言えることですね。「諦めるまでやめない」というのも同じです。最終的に成功したから結果として報われたということです。

一方、そういう人のことをうらまやましく思うこともあります。自分が「情熱」に対して食傷気味とはいえ、やはり情熱がないと成し遂げられないこともたくさんある。今年の振り返りとして冷静沈着になり、「拡げるよりも畳む」方にシフトしつつあるとはいえ、種はいくつかある。来年は小さくても「これ」というものに出会いたいと思っています。

お願いです、できれば中身だけください

ゴルフってまだまだ昭和レトロな文化が色濃く残っているスポーツだと思います。どんなスポーツでも気軽にできるようになったのに、ゴルフ場によってはハンディキャップの申請や会員権、クラブ競技などこれから始めようという人から見たらハードルが高いことが多い。もちろんネットで簡単に予約は取れるようになり、プレーするだけなら気軽にできるのですが、正式なハンディキャップをもらおうと思うと、どこかのクラブに所属しなけれがなりません。

元々は社交クラブのようなところからスタートしているからだと思いますが、未だにメンバーは男性限定のところもありますもんね。

先日、ゴルフ仲間からの紹介で、あるゴルフクラブの会員になりました。それ以外に、元々メンバーになっているクラブは別にあり、そこをホームコースとしてハンディの申請をしているのですが、まあホームコース以外にもうひとつくらいメンバーになっているクラブがあっても良いかな、くらいの気持ちです。仲間の方もたくさんいらっしゃいますし。

通常、あるクラブのメンバーになったら、キャディバッグに付けるためのネームプレートが送られてくるのですが、これがまた立派な化粧箱に入ってくるのです。もちろん、由緒あるクラブの場合はそれなりのステイタスというか、そこまでひっくるめての体験の提供なのだと思います。高級なクレジットカードが宝石箱のような箱にワインと一緒に入って送られてくるのと同じようなイメージでしょうか(今はそんなんないんでしょうかね)。

僕がメンバーになったクラブは比較的カジュアル志向だとは思うのですが、それでもこんな感じ。

でも、僕のような「ミニマリスト」からすると、できれば中身だけ欲しいのです。だってこの化粧箱、取っておいても使わないでしょ。もうね、僕の場合は中身だけ出してすぐに廃棄してしまうのでエコじゃないというか、もったいないのです。

今後は、こういうところも含めて、「箱付きで欲しい人」と「中身だけ欲しい人」で選択ができるようにすれば良いですね。ショップなんかでも簡易包装を選択できる場合もあるし、賛否両論ありますがエコバックなどは大賛成です。なぜなら、自宅に山のように紙袋とかビニール袋が溜まっちゃうから。結局、大掃除の時に全部処分しちゃいますからねえ。

何がエコでそうじゃないか、効果はあるかないかの議論はさておき、自分の場合はできるだけ物を持ちたくなくて常に身軽でいたいので、今後は自分から「もし可能であれば中身だけください」と働きかけて見ようと思います。そういう場面がどれほどあるか分かりませんが・・・

ただ、問題はAmazonなどの通販なんですよね。どんな小さなものでも絶対ダンボールに入って届きますもんね。

(そんなに)がんばらない生き方

前回の投稿から一週間空いてしまいました。
相変わらず体調の方は低空飛行が続いていましたが、おかげさまで仕事の方は忙しく、出張の予定なども次々と入ってきてアレンジや調整に追われています。

嬉しいことに今朝、いつものように体温を測ると平熱になっていました。おお!二週間ぶりの平熱!底は脱したか!経験された方は良くご存知と思いますが、毎日37度〜38度あるのって本当にしんどいんです。ボディブローのように体力と気力を奪って行きます。薬でしか下がらない熱、先が見えないトンネル。

こういうことが定期的に起こるのですが、今回も日々、自分の身体と向き合う中で、いろんなことを考えました。

僕の場合は持病が顕在化しているので、もう、ある限界値以上のがんばりをすることができません。要するに無茶できない。なんとかこの状態を維持し、動ける時を見計らって、動く。そんな感じでだましだましの生活を送っています。

一度身体を壊してしまうと、元には戻らないものです。ではどうするか。僕が多くの意識高めの若い人たちに言いたいことは「細く長く働くのも大事だよ」ということです。

特に、ストレス耐性が強くない、あるいは体力がそんなにないと思う方は、仕事に関して「細く長く」続けていくことをおすすめしたいのです。そんなにがんばらなくて良い。このブログで10年前に投稿している記事の内容は「倒れるまで戦え動け働け」的内容だったのが、随分考えも変わりました。エリートビジネスマンを標榜し、とにかくバリバリ働いて遊んでむちゃくちゃ動くというのを良しとしていたのが恥ずかしいです。

自分がそうだったのですが、今思えばとにかく無茶な働き方をしてきました。意識も高かったので、いろんなことに挑戦し、学び、寝る間を惜しんで人に会い、呼ばれたら断らず、ホテルや空港に住んでいるんじゃないかというくらい国内外を飛び回っていました。多い年では、一年のフライト距離が地球二周以上になったこともあります。休みの日は家族サービス、マラソンにゴルフ、研修会、セミナー。当然、その分の責任もありますので、常にヒリヒリした環境の中で仕事をし、相当なストレスを感じていたと思います。実際、眠れない夜を何度も過ごして来ました。

もちろん、そのおかげでたくさんの人に出会えたし、仕事の幅も広がったし、様々な経験もさせていただきました。でも結果的に、30代半ばから40歳にかけて次々に病気が出てきて、そこから薬漬けで長いこと苦しむことになります。子供もまだ中高生だし、40代半ばで今流行りのリタイア(FIRE)することもできませんので、これからはだましだましの生活を送らなければなりません。これもなかなか受け入れがたい事実なんです。だって、自分はまだまだ出来る、動ける、走れる、登れる、飛び回れるって思っているでしょう。そうしたいし。仕事外のオンラインミーティングや勉強会も夜がほとんどですが、夜に発熱するから参加もできないもどかしさ、です。こういう「したくてもできないこと」が指折り増えて行くのですから、たまりません。

とにかく、身体は壊すと元には戻りません。

ですので、今がんばっている皆さん、忙しいのも、がんばるのも素晴らしいことですけれど、身体は壊さないように。たまにストレスなんて1mmも感じず、血液の代わりにリポビタンDが流れてるんちゃうかというほど元気な人もいますけど、ほとんどの人はそうではありませんので、ほどほどに、まあまあで。

70歳、80歳まで働けるように、「あまりがんばらない生き方」で、長く楽しくやるのも一つかと思います。

出来ないことを嘆くのではなく、出来ることを喜ぶという修行

上皇后の美智子様は、昔のようにピアノが弾けなくなったことについて、

「今までできていたことは『授かって』いたもの、それができなくなったことは『お返し』したもの」

とおっしゃったそうで、これは本当に素晴らしい言葉だと思うのですが、まだ「自分は出来る」と思っていると、なかなかそうは思えないものです。

なんでこんなに身体が言うことを聞いてくれないのだろう、あれだけ出来ていたのに、どうして出来なくなったのだろう。どうしてもそう思っちゃうんですよね。

自分ごとですが、先週から高熱が一週間続いていて、ああ、またかという感じ。今のところ下がる気配はありません。昨年は4月に一ヶ月発熱が続きました。こうなると長引くのは分かっています。仕事に支障はありませんが、薬漬けになるし、走ると熱がぐんと上がるので、この最高の季節に走ることもできません。

一年のうち、半分は体調不良なので、もういい加減受け入れようよ、これが普通だよ、良い意味で諦めようよと自分に言い聞かせようとするのですが、まだまだ美智子様の境地には達することができず。焦るし、落ち込むし、しんど過ぎて辛いし、修行が足らんなあ。

こういう時は、今出来ることを書き留めるようにしています。
どんな小さなことでも、当たり前のことでも出来ることを書き出す。

意外とたくさんあるものです。
今できることに目を留めて、それを喜ぼう。

信念があれば越えて行ける。

それがたとえ高過ぎる山だと感じても。
信念を信じて、越えて行く。信念があれば、越えて行ける。

今日はそんなことを考えさせられた一日でした。

まずは、ドイツの最長トレイルレース「megarace 2021」に出場され、10日以上かけて今日の夕方にゴールされたアドベンチャーランナー北田雄夫さん。なんと総距離1001km (実際は1003kmとも1004kmとも・・・) のトレイルを無事完走されました。本当におめでとうございます。

毎日、GPSと連動したマップで位置を確認していましたが、とてつもなく長い距離を少しづつ、少しづつ、しかし着実に進んで行かれる姿を見、さらに今日の感動のゴールを映像で目の当たりにして、人間の持つ強さを垣間見た気がします。


さて自分はどうか。自分ならどうするか。

人は誰でも目の前に大きな山が立ちはだかった時に悩み、尻込みするものです。

真剣に生きていれば、越えれそうにない壁に直面することもあるし、登り始めるとあまりのしんどさに途中で止めようかと思うこともある。見えない明日に不安になって寝れないこともある。それでも前に進まなければならない時がある。

気が狂いそうなくらい悩みつつも、なんとか自分を信じ、自分の信念を信じて進む。たとえ人にどう思われようが、反発を受けようが、身体がどれだけ痛かろうが、信念を持って突き進む。

自分もこれからが人生の勝負どころ。

自分はどこまで出来るだろう。
さて、やってやろうじゃないか。