夏ってイベントが多い季節ですよね。
毎週のように暑気払いや会合など、仲間たちと集まる機会が多く楽しく過ごしています。
飛脚まらそん大会運営チームの決起集会、社団法人主催のシニアコミュニティの会合、ランニングコミュニティの10周年、所属ゴルフクラブの有志飲み会、三重県ゴルフ合宿・・・毎日のように行事ごとがあり、色んな意味でアツい。皆さん元気で何よりです。
先日のブログで、コミュニティは空気のようなもの、と書きました。
(「新しい文化を作る」2024年7月26日)
様々なコミュニティに属していると感じるのですが、誰もが「ここが心地良い」と思って集っている人の集団なので、やはり根底に、価値観や文化の共通の土台のようなものが横たわっています。先日、そんなコミュニティのある人と、関西エルマガジン社が発行するMeets Regionalの話題で盛り上がりました。
僕はMeetsを20年前くらいに熟読していて、江編集長や内田樹先生、中場利一さん、バッキーイノウエさん、ひさうちみちおさんなど、ちょっと斜めな人たちが書くコラムが大好きでした。街場の◯◯考として、下町や地域に根ざす店などを一風変わった角度で考察したり、時事ネタを面白く扱ったり、とにかく毎号楽しく読んでいたのです。街を知り尽くした賢くカッコいい大人たちに憧れたものです。少しアカデミックな視点が入っているところもあり、読むと賢くなれたような気もしました。
久しぶりに、当時のMeetsがどれだけ面白かったか(もちろん、今でも面白いと思いますが)を共通言語で語れる人がいたのが嬉しかった!そんな話で盛り上がりながら、僕はその頃から地域の小さな経済圏や、文化や、郷土史が好きだったんだな、と再確認できたのも収穫でした。
今、各地の神社仏閣めぐりをしながら、その土地の歴史や文化を学び、地域の産物に舌鼓をうち、道の駅で買い物をして帰るような旅を趣味のようにしていますが、そのルーツは、Meetsにあったのかもしれません。紙媒体や活字が好きなのも昔から。こんなことを書いていたら、図書館に行きたくなってきました。
旅先での街歩き、小料理屋での店主や女将さん、地域の常連さんとの会話。
惹かれるままに、思いのままに。旅行雑誌や機内誌のコラムを地で行くような楽しみを、これからも続けて行きたいと思います。
さて、告知です。
お手伝いしている「服部足祭り」ですが、この度、7月28日(なにわの日)に開催された「第24回 なにわ大賞」の「大賞」を受賞しました!「なにわのいちびりさん」に与えられる歴史ある栄誉ある賞をいただけたこと、関係企業、運営スタッフ、ボランティアの皆さんと一緒に喜びを分かち合えたことが本当に嬉しいです。
そして、8名の審査員の方々が、カッコいい大人の方々なのでした。
服部足祭り、今年は10月5日、6日に開催されます。
ぜひ、遊びにきてくださいね。
投稿者「tmkbase」のアーカイブ
新しい文化をつくる
人の「想い」に触れることが多い今日この頃です。
様々なプロジェクトに携わらせていただく中で、決して派手だったり、目立つわけではないけれど、心の内に秘めた温かさや思いやりをじんわりと感じることができるのは、本当に幸せです。
類は友を呼ぶといいますが、自分が持っている価値観、物事の捉え方、人への接し方、人生に対する考え方などに近しい方々が自然に集まります(不思議なんですけどね)
コミュニティにおけるこのような循環がオートマティックにまわり始めると、集まる人々が醸し出す温かさ、優しさ、思いやりが大気のようにコミュニティを包み、その空気を吸うことが心地良いと感じる人々が集団を形成していくんですよね。僕は優しく、温かく、誰も攻撃したり排除したりしないコミュニティが大好きです。日本の「和合」という文化を大切にしています。
取り決めもルールもなく、目に見えない不文律がゆるやかに包む。同調圧力でも、押し付けでもなく、出入り自由。みなさん、どうぞご自由に。シンプルに、その場の空気が心地良いと思う人々が集団を形成しているんです。
そんなコミュニティから生まれたイベントのひとつが「飛脚まらそん」です。
江戸時代において、飛脚は手紙や書という形で人々の想いを運びました。親が子を、子が親を想う気持ち、愛する人を想う気持ち。少しでも早く、想いを伝えたい。
自分も15年のキャリアを持つランナーなので、多くのランナーさんを見てきました。距離やタイムを追い続けるのも尊いことですが、自分のように体調を崩したり、故障したりして以前のように走れなくなってしまった人、SNSのキラキラ投稿ばかりがタイムラインに流れてきて、他の人と自分とを比べてしまい、走ることの楽しさを見失ってしまった人、参加費の高騰で都市型マラソンに辟易してしまった人。
でも、きっと、走ることは嫌いじゃないんです。
それぞれ、自分と戦いながら、大切な人を想いながら走ることの素晴らしさを知っている。そんな想いを「飛脚」に重ねて走ってみましょう、というのが「飛脚まらそん」です。
距離は、1里(約4km)、5里(約20km)、10里(約40km)の部。
タイム計測はありません。
家族で楽しめるように、親子かけっこ教室もあります。
ちなみに、飛脚まらそん実行委員会は、日本人初6大陸のアドベンチャーレースを走破し、先日もヒマラヤ1700km横断レースを完走された、プロランナー北田雄夫さんを委員長に、全国各地で数々のレースを主催するGRlabさん、「ランナーズ」でおなじみのアールビーズさん、そして足の神様服部天神宮さんが実行委員のメンバーとして名を連ねています。
プロランナーや第一線の実業団ランナーたちが主催しているのに?
なぜ飛脚?
僕はそんな疑問に対して「日本古来の文化を見直し、走ることに対する新しい文化を作りたいから」と、答えています。極限の厳しさを知り、世界を見た人の優しさは本物です。それぞれが自由に新しい文化を楽しんでみませんか?
当日はボランティアスタッフも募集しています。
走る側でも、支える側でも。
ぜひ、一緒に新しい文化を作りましょう。
近況報告〜肩の力を抜きつつ11期目がスタート
7月に入りましたね。毎日暑い日々が続いていますが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。こちらは色んなことが重なり、非常にバタバタしていました。
近況としては、まず、自社の10期目の決算を6月に迎えました。
今期(いや、7月に入ったから前期ですね)は、おかげさまで過去最高益、前年比300%以上増で着地。顧客、取引先には大変お世話になりました。2022年3月に独立してから、ようやくあるべき形やペースが見えてきたこと、良い評判をいただいて色んなルートから仕事を紹介いただけることになったこと、領域がコンサル、マーケ、採用、事業開発以外にも拡大し、ご支援させていただける企業や団体が増えてきたことで、このような結果になったのだと思います。
ペースという意味では、今でも平日休日関係なしの生活をしています。平日でもゴルフや神社めぐりをしているし、予定のない週末は大好きな図書館やカフェで仕事をしています。会いたい人には会いに行き、行きたいところがあれば行く。時間や場所に拘束されないライフスタイルというのが、僕自身の理想であり、そのために一人でフットワーク良く動けるように環境づくりをしています。
弊社は7月から11期目に入りました(実は独立前の役員時代から二足のわらじを履いています)。ありがたいことに今期も既にたくさんのご相談をいただいています。どんなご相談でも恩返し、恩送りと思ってお受けさせていただいていますのでお気軽にお声がけください。
そして、もう一つ。
6月末に、96歳の祖母が亡くなり、通夜葬儀の喪主として見送りました。
昭和3年生まれ、終戦後に若くして嫁ぎ、数え切れないほどの苦労があったことは容易に想像ができるし、夫(祖父)を22年前に、長女(母)を3年前に亡くして寂しかっただろうけど、認知症もなく、家族親族を大切にし、義理人情に厚く、記憶力抜群の聡明な女性でした。おばあちゃんは僕自身の良い理解者で、いつも僕がすることを心配しつつも応援してくれていました。
親戚やご近所の方が弔問に訪れてくれた際、松田さんは本当に賢い人だった、という言葉を何度も聞きました。「賢い」とはどういう意味なのかを考えていたのですが、恐らく、記憶力が良いこと、勘が良くどんなことでも器用にこなすこと、常に周りの人間のことを考えて一歩二歩先の手を打っておくこと、そんな感じなのかなと思います。
おおよそ100年、ひとつの世紀を生きたわけですから、大往生といわずしてなんというのか。我が家としては一つの時代が終わったな、という感じです。戦前、戦中、戦後を強く逞しく生き抜いた昭和の女性の強さはマネできるとは思っていませんが、僕は僕なりに、受け継いだものを守り、祖母を安心させてあげれたら、と思っています。
今週は東京出張からスタートです。
一週間がんばりましょう。
さあ、これから何して遊ぼう
思えば遠いところまでやってきたなあ、というのが実感です。
このブログは2005年の6月に始め、今月で丸19年を迎え、20年目に入りました。
たかだか20年とはいえ、その間、様々なステージチェンジがありました。0歳だった長女は大学生になり、始めた当時は生まれていなかった次女も高校生になりました。僕自身のキャリアも色々と変化がありました。絶好調の時もあれば、絶不調の時もありました。そのような山谷を乗り越えながら、なんとか生きている。結果的に生きてきた。そんな感じでしょうか。
「人生は死ぬまでの暇つぶし」とは、パスカルが「パンセ」の中で書いた言葉と言われています。
この言葉、若い頃は意味が分からず、なんて刹那的な言葉なんだろう、もっと人生には深い意味があるのではないのかと思っていたのですが、今となっては、ああ、人生って確かに死ぬまでの暇つぶしなんだなと素直に共感しています。今生きている人が、それぞれ思い思いに暇つぶしをしている。その手段が仕事であったり、何かの活動であったり、趣味であったり、結婚や子育てであったりするのですよね。「生きがい」というものを見つけ、それぞれがそれぞれの人生をまっとうする。「暇つぶし」とは、時間を無駄にしているような印象を受けますが、時間の使い方と考えると、そういうものだよな、と納得します。
養老孟司先生は、何かのインタビューで「生きることの意味?生まれてきたんだから、生きるしかない」というようなことをおっしゃっていて、腹落ちしたことがあります。生まれてきたからには生きるしかない。そこに意味なんてなく、生まれたからには、死ぬまでどう生きるか、それだけ。というシンプルな答えにたどり着きます。親から受けたバトンを、80年か90年生きて、子や次の世代にバトンを渡して、死ぬ。
その間、自ら問いを立て、その問いにどう答えていくか。
その繰り返しと積み重ねですよね。
仕事柄、人と会うことが多いのですが、色々な人と話をしていると、この人はこういうところで生まれて、このように生きてきたんだ、と、それぞれの今までの人生を想像しています。人それぞれの「暇つぶし」の仕方を聞くのは楽しいですよね。ああ、あなたはこういう方法を選んだんだ、それ、面白そうですね!僕はこんな方法で暇つぶしをしていますよ、というような感覚です。周りの人に寛容になれるし、重たいものを背負う必要もないし、楽しめたらそれでいい、という感覚になり、肩の力が抜けます。
さあ、これから何して遊ぼう。
皆さんの遊びもお聞かせくださいね。
このブログでは、日常生活から日頃考えていることまで幅広く書いていますが、これも一つの暇つぶし。今どきブログも流行りませんが、自分に対する備忘録として、インターネットという海に浮かぶ過疎の島で細々と何かを書いて発信すること、続けられる限りは続けて行きたいと思っています。
20年目もよろしくお願いいたします。
大人の林間学校 広島〜山口
旅の記録が続きます。
先週末、広島県と山口県に一泊二日でゴルフ合宿に行ってきました。自分が所属しているゴルフクラブの提携コースの一つに、山口県の周南カントリークラブがあり、メンバーの皆さんと一緒に一度回ってみましょう、という企画です。
周南CCは土曜日にラウンドすることが決まっていたので、金曜日は広島県の別のゴルフ場でラウンドすることにしました。初日はAM3:30に集合。車で約3時間30分、まずは広島県三原市の白竜湖カントリークラブへ。
最高の天気です!
調べてみると、かつてはポカリスエットオープン(1982年〜1994年)が開催されていたトーナメントコースのようでした。
この辺りは、祖母の家も近く、車で走っていても馴染みのあるところばかりなので、なんとなくホーム感はあるのですが、ゴルフだけの目的で来るのは新鮮でした。コースは平日なのにまあまあの人。コンペでも開催されていたのかもしれませんね。
ホールアウト後は、本日の宿、山口県岩国市へ。
チェックインまで少し時間があったので、錦帯橋へ行きました。
青い空に美しいアーチが映えますね。
そして、翌日は、周南CCへ。
1966年開場、数々のランキングで上位に入る山口県屈指の名門コース(WEB調べ)だそうです。僕たちのメンバーコースである千刈CCが1965年開場ですから、ほぼ同じ年なんですね。だから提携しているのかも。
ここは、JLPGAステップアップツアーの「山口周南レディースカップ」」が開催されているとのことで、クラブハウスには選手のサインがずらり。
木々でセパレートされた庭園のようなコース。
コース内には、巨石もありました。古代の祭祀が行われていた磐座かな?と一瞬思いましたが、マグマが固まったものが長い年月をかけて表層に押し上げれたのだそう。巨石好きとしてはたまりません。
前の週から出張が続き、今回の合宿もなかなかのハードスケジュールでしたが、やっぱり楽しい。一昨年の富士CC、伊豆大仁CC、そして昨年の三重県ココパリゾートに続く、提携コースを巡る旅。
大人の林間学校でしっかりリフレッシュできたので、また今週からがんばりたいと思います。
ご一緒いただいた皆様、ありがとうございました!
(腰痛が悪化しているのでしっかり治さなきゃ・・・)
6月といえば
6月といえば、梅雨。梅雨といえば、紫陽花ですね。
あちらこちらで紫陽花が咲き始めていますが、先日、関西では「花寺」として有名な、奈良県の長谷寺に行ってきました。西国三十三所の第八番のお寺です。
まずは門前町で腹ごしらえ。
このあたりは三輪素麺で有名なところですので、どのお店でも素麺や柿の葉寿司などを楽しむことができます。
お会計の時に、お店の奥さんから「紫陽花はまだ三分咲きくらいかな」と教えていただいたのですが、実際、地植えの紫陽花はまだまだ。でも、鉢植えの紫陽花は満開でした!
たくさん人がいるので、人が入らないように撮影するのは至難の業です。
慌ただしく過ぎていく日々の中で、季節を感じながら生活することを心がけています。自分たちは自然の中で生かされているのだという実感を得ることができるからです。花ってすごいですよね。その季節になったら花を咲かせるのですから。
自宅の温室では、カトレアが咲いています。
庭の梅の収穫も終わったので、これからは梅干しづくり。
日々コツコツと。
水の大切さについて本気で考える
先週の金曜日、和歌山県橋本市にある「ゆのさと」に行ってきました。
ここは「月の雫」という水で有名な場所で、温泉施設でありながら、多くの方がタンク持参で来られて、水を汲んで帰るという場所です。僕たちが行った日は平日でしたが、他府県ナンバーの車も多く(品川ナンバーもあった!)、全国からゆのさとの水を求めてやってくるという話は本当なんだと実感しました。僕も20リットルのタンク2個に水をいただき、毎日飲料や食事に使っています。
人間の身体の水分量は60%と言われていますよね。
水で出来ているとは過言ですが、それだけ水は人間にとって必要不可欠、最も大切なものだと言えます。ゆのさとの訪問がきっかけで水について色々と調べていた時、2年前に熊本で開催された水サミットでの天皇陛下の記念講演を知りました。下記のリンクから全文を読むことができます。
宮内庁ホームページ
第4回アジア・太平洋水サミットにおける天皇陛下記念講演(2022年、令和4年4月23日)
長年、水の研究をライフワークとされている天皇陛下が、ご専門ならではの知見で水に関する民族信仰についてお話されています。先祖代々続く人々と水との関わりが、その地域固有の文化と社会を形成してきたと。あれこれ言わないので、とにかく読んでください。
この話のすごいところは、水=龍神(弁財天や九頭竜)や蛇の神(宇賀神、ナーガ)、亀蛇(妙見祭)など、水と神との関係は、日本のみならず、形を変えてアジア太平洋全域に広がっていることから、わたしたちは一つ、みんな一緒なんだよ、ということを伝えられているということなんですね。だから共存共栄していきましょう、と。まさに大和=和合の精神。水から民族信仰、和の精神に論理を発展されるところが、平和と安寧を願っておられる陛下ならではなのですよ。誰もがこの精神を持っていたら、争いや分断、格差なんて起こらないでしょうよ。
ビジネスマンの僕がいうのもおかしいのですが、資本と技術を追求し続けると世の中は金、物の世界になってしまいます。金、物の世界って、限界があるんですよね。そもそも人口が増え続け、消費が右肩上がりで増え、投資を永遠にし続けることが前提のシステムになっているので、お金を永遠に増やさなければならない。人口が減少している今の世の中では成り立たないし、物を売るためには、「人々が満足しないように」しなければならないわけです。つまり、常に人々を不安な状態にさせること。戦争や疫病は技術を進歩させ、産業が活性化します。ひどい話だけど。でも、そのお金も価値が下がりつつあります(物価が上がっているのではなく、お金が増えすぎてお金の価値が下がっている)。そろそろ限界なんじゃないかな。
一方、生物としての人間としての「在り方」を追求すると、縄文時代の村のように、争いもなく、皆が共に汗をかき、畑を耕し、自然に感謝しながら平和に暮らす世の中になる。どっちがいいのでしょうね。実態のないもの、終わりのないものを、体力気力をすり減らしながら追いかけ続けることに何の意味があるのでしょうね。それだけの体力気力があれば、僕は後者に進路を取って行きたいなと思います。
さて、先の記念講演で、陛下が「奈良県の室生には、龍が棲むという洞穴があり」と、吉祥龍穴に言及されておられたことが個人的に胸アツでした。僕の大好きな室生龍穴神社の奥宮です。知る人ぞ知る秘境のことを陛下が知っておられたとは。ちなみに、竹生島や天河弁財天にも言及されてるんですよ!お分かりになる方はピンとこられると思いますが・・・
というわけで、今日はこのあたりで。
水について、しっかり考えてみましょう。
先達、謙虚さ
「先達」(せんだつ)とは、先にその分野に進み、業績・経験を積んで他を導く人のことを指す言葉です。(weblio参照)元々は修験道の行者が修行のために山に入る際の指導者のことですよね。それが転じて、ある分野において他の人よりも先行し、業績や経験を積んで後進を導くことや、導く人のことを指すようになったようです。
僕は図書館が好きで、週に一度は本を借りに行ったり、自習室で調べ物や仕事をしたりするのですが、その際、膨大な本の数を見て「先達」という言葉を思い出します。図書館にはありとあらゆる分野の書籍が並んでいます。それぞれの分野ごとに必ず「先達」と呼ばれる人が存在し、先行研究がなされ、後進がその先行研究の上に更に研究を重ねていく。その積み重ねが人間の歴史であり、本の数として表れているんだろうなと思うのです。もちろん、本として残らなくても、口伝として伝えられているものもたくさんあります。
同じような意味で、論文検索で有名な Google ScoLar の検索ボックスの下に「巨人の肩の上に立つ」(standing on the shoulders of Giants)という一文があります。
この言葉は「先人の積み重ねた発見に基づいて何かを発見すること」というメタファーで、17世紀のアイザック・ニュートンが言ったという説もありますし、12世紀の哲学者ベルナールの言葉という説もあるようです。歴史に名を刻んだ研究者から名もなき研究者まで、彼らよりも過去に生きた先人たちを、ニュートンやベルナールですら「巨人」と呼んでいることに悠久の時の流れを感じます。
人間の歴史というのは、無数の発見と研究の積み重ねで、それぞれの時代を生きた先人たちの努力の一つひとつの上に、今、自分たちが生きている。それゆえ、自分たちも次の世代のために積み上げ、バトンタッチをしていかなければならないということなんでしょうね。それは研究者じゃなくても、今生きているすべての人に対して言えるのだろうと思います。
たまに、自分が「分かったような気持ち」になったりすることがありますが、図書館の膨大な書籍の数を前に、自分は何も知らないし、何も分かっていないんだろうな・・・と思うと、謙虚な気持ちになります。謙虚さ、大切ですね。それに日々の生活は確かに忙しいのですが、効率的、とか、即効性を求めて情報のつまみ食いをするのではなく、時間を掛けること、回り道すら楽しむこと、むしろ回り道が一番の近道と考えて日々を過ごして行きたいと思います。
図書館、いいですよ。
子供からお年寄りまで、熱心に本を読んでいる姿は尊いな、と感じます。
生きるということは学ぶということなんでしょうね。
持てる武器を増やす
先日、仲間内で話していた話題について、やっぱり良く考えてみるとこれって結構大事なことなんじゃないかなと思ったのでブログにまとめてみます。
題して、
「コピペ社会をどう生きるか」
今の世の中って、コピペ(コピー&ペースト)社会だなと思うことがあります。ネット上に情報が溢れているので、簡単に情報を手に入れて「知った気」になることができるし、それらの情報を簡単にシェアできちゃいます。コピペされた情報が真贋問わずに量産され、それらがSNSやYoutubeを通して無限に広がります。
同じようなノウハウが溢れていると思いませんか?
誰の言うことを信じたら良いのでしょうか。
簡単に言うと、実践経験があり、実績を出している人の言葉のみが信用できるのです。
モテたことがない人がモテ方を教えることができる訳がないし、お金を稼いでない人が稼ぎ方を教えることはできません。会社経営をしたことがない人が経営論を語ることもできないし、組織で出世した経験のない人が組織論を語ることはできません。もし語っている人がいたら、それはウソやと思っています。薄っぺらな情報はすぐ分かりますよね。
でも、このコピペ社会では、モテない人がモテ方を教えてたりするでしょう?
恋愛経験のない人が恋愛相談に乗っていたりするじゃないですか。
そのような、なんちゃって◯◯みたいな人が山のようにいるのが事実です。「なんとなく、できそうに見える」人。やってる感を出している人と、実績が伴っている人は別です。いやいや、実績とか経験とか関係なく、理論に基づくアドバイスもありますよ、という意見もあるかもしれません。確かにそう。でもね、大抵仕事になっていません。なぜなら教える側、サービスを提供する側に結果が伴っていないからです。
ビジネス = 事業をつくること = 売上・利益をあげること は簡単ではない。
特に若い人に、『「ビジネスごっこ」に巻き込まれないように注意して』と言っている理由はそこです。収益が上がっていない会社や事業は、いくらやってる感を出していたとしても「ごっこ遊び」の域を出ません。生成AIの方がはるかに良いパフォーマスを出します。下手したらそこで飼い殺しにされる可能性もあります。誰もが簡単に起業できたり、資金を調達できたり、会社を作れたりしますが、ほぼ失敗していますから。
では、どうすればよいか。
カッコ悪く生きることが大切なのではないでしょうか。
とにかく自分が働ける場所、雇ってもらえる場所で必死に働く。好き嫌いではなく、そこで経験を積み、実績を出し、昇進、出世する。社内外で多くの人と知り合い、ギブファーストで動き、人を助け、助けられたら恩を返し、この人に任せたら安心、と、誰からも信頼される人になること。時間が掛かかりますが、時間が掛かることは当たり前です。最短距離を走れる人なんてほとんどいないのですから。
こうすることで、持てる武器が増えていくと思います。
実践経験を積み、武器を増やそう。そうすれば、ちゃんと相手にしてもらえるし、お客様に価値提供ができるし、稼げる。
なんちゃってごっこ遊びは時間の浪費です。
コピペ社会から脱出しましょう。
上記の文脈とは少し毛色の違う話になりますが、こんなことやり取りを想像してみました。
「あなたのやっていることで世の中を変えることができたか?」
「いや、そんなこと考えたこともありません、私は飯を食うためにやっているのです。」
こういう方がよほど潔いし、僕は好きです。
自分も至らない点ばかりなので、自戒を込めて書いてみました。
旅を通じて「村づくり」について考える
GW明けすぐに東京出張に来ています。駅や新幹線の混雑もさほどなく、社会が日常を取り戻しているようです。個人的には平日休日関係なく仕事をしているので、休みボケという感覚はありませんが、なんとなく「さあ、フルスロットルでがんばるぞ!」という気持ちになっています。
さて、今年のゴールデンウィークの前半は愛媛へ、後半は和歌山に一泊で家族旅行に行きました。それぞれが忙しくしているので家族全員が揃うことがなかなかなく、久しぶりの家族旅行です。
和歌山の黒潮市場では海鮮丼やキスの天ぷらなど海の幸をいただき、現地の海鮮加工品をたくさん購入しました。波間に沈みゆく太陽を見ながらの食事は最高ですね。
山あいの道の駅では、地元産の苺、甘夏、不知火などの柑橘類、味噌や手作りこんにゃく、よもぎ餅やみたらし団子などを購入しました。どれもめちゃくちゃ美味しかった!地産地消と言われて久しいですが、物流コストの上昇や円安による物価上昇が顕在化してくると、身近で手に入るもののありがたさが身に沁みます。
人間は結局、食べる物がないと生きていけませんよね。
政治的理由や外圧、グローバリゼーションの影響で農業が衰退し、食料自給率はカロリーベースで38%の日本ですが、改めて「畑を耕し、物を作ること」の重要性を認識しなければと思います。僕は畑を耕す能力も経験もありませんが、少しでも関心を向けて、安ければ良いというのではなく、地元のものを優先的に購入して消費していきたいなと思うのです。願わくば、自分で野菜くらい育ててみたいな。
コミュニティづくりなどは仕事で手掛けていますが、やはり将来的には物理的な「村づくり」にキャリアが向いて行くのかな。なんて、漠然と考えるきっかけになる旅でした。