ランナーとしてよちよち歩きだった頃の桜は

誰も歩いていない深夜の芦屋川の夜桜。満開の桜を眺めながらの家路に、ランナーとしてよちよち歩きだった頃の自分を思い出したりして。

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7年前、健康のために走り始めた頃は、ほんの2、3Kmでも自分にとっては達成感があり、今なら最低でも10km走らないと走った気にならないような自分なんて、その当時は全く想像できませんでしたよね。平日の夜であろうが、飲んで帰って来ようが、家の周りをこうしてぐるぐる回って、芦屋川の桜を見て、ちょっと汗かいて満足して。

それが成長なのかどうかはともかく、過去の自分と比べてある意味退化している自分がいるのは事実ですが、一度始めたことは、12年書き続けているこのブログもしかり、走ることもしかり、少なくとも根暗な性格は昔も今も変わっていない。

そのことは、川の流れと春に咲く桜の花と同じくらい不変なんです。

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収穫のための種まき

収穫のための種まき。

そんな感じの一日です。今日はサンノゼからアメリカ人のパートナーを大阪に迎えて4時間会議をし、東京とSkypeを繋いで一時間会議、そして夜は案件の打ち合わせ。

長い一日でしたが、しっかりと種まきを行うことができました。あとは育てて刈り取るだけ。愛情を持って育てれば、きっと豊かな季節を迎えることができますよね。何事も愛情と情熱をもってすれば良い結果が生まれると信じています。

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情報疲れを起こした時には

日々相当な量の情報に晒されていると、たまに疲れを感じることがあります。食傷気味になってしまうというか。そんな時は、眠気を感じて膝に本を置くように、開いているものをパタンと閉じて、深呼吸するか走って脳をデフラグするかします。

このブログでもよく書くことですが、人間のキャパなんて結局のところ、その人ひとり分の器しかなく、どう足掻いたって与えられた一日は24時間しかなく、あれもこれもと手当たり次第手を伸ばしていたらお腹いっぱいになってしんどくなるのと同じ。バイキングで食べ過ぎた時のように、あああんなに食べなけりゃ良かった、疲れてもういいや、となってしまいます。

そういう訳で、今朝は早起きして10kmのジョギングに出掛けました。寒い朝でしたが、頭もシャキッと。やはり早起きランは最高です。

もうちょっと暖かくなってほしいですけれど。

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正しい場所にピースをはめるように

正しい答えに辿り着くまでの過程って、本当にパズルのようですね。

何かの答えを出そうとする時、まず頭の中で分散している断片的なアイデアを拾い出し、並べ、組み合わせて行きます。パチっと音を立ててピースがはまることもあれば、はまらないことは分かっていても「なんとかしたい」という感情が先に走ったり、時間的な拘束があったりして、無理やり形を変えて、ピースを押しこむこともあります。

でも結果として、どんな事でも、「無理やり」というのは正しいことではありませんよね。その時は良かったとしても、必ずどこかで不整合、コンフリクト、ひずみ、ゆがみ、不自然、違和感を生んでしまうからです。今日の夜、取引先で打ち合わせの後に一人カフェで別の課題に取り組んでいた時、ふとそう思いました。

正しくなかったり、言いくるめたり、無理に押し込んだりすることは、必ずどこかで不整合を生む。人の心や感情もそう。
そう感じます。

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この写真は日曜日の須磨海岸。

僕は泣くためにフルマラソンを走っているのかもしれない

今年の篠山ABCマラソンは例年になく好天に恵まれました。気温も高く、4回目の篠山ですが初めて半袖で出走。こんなことあるんですね。今大会は一緒に応援に来てくれた友達の親戚方がご自宅を提供してくださり、駐車スペースだけでなく会場への送迎や暖かいお食事(絶品!)までお世話になり、いつも以上にホスピタリティを実感した大会となりました。感謝感謝です。

自分は何のために、しんどくて辛いフルマラソンを走っているのかずっと考えていましたが、一つの結論が出た気がします。僕はきっと、泣くためにフルマラソンを走っているんだ。そう思いました。

今回のように無私の気持ちで支援してくださる皆さんの愛情に泣かされ、沿道の子どもたちのハイタッチに泣かされ、老人ホームの前で車いすを並べて応援してくださるご老人方の笑顔を見て泣き、吹奏楽や太鼓や地元の方々の途切れない声援の応援にまた泣かされ、30kmを過ぎた後に必ず来る辛さに泣き、膝の痛みに泣き、攣りそうな脚をなんとか抑えこみながら気持ちを切らさずゴールした自分のがんばりを思って泣き、ねぎらいの言葉と共に首にメダルを掛けてくれる地元の学生の笑顔に泣かされ、仲間たちとの宴会で泣き笑いして。

一度でもフルマラソンを走った方なら分かっていただけると思いますが、本当に、マラソンって色んなシーンで泣けてしまうんです。一番こみ上げる瞬間は、ゴール後、しゃがむことすら出来ないランナーのシューズチップを高校生やボランティアの方々が座って外してくれるところでしょうか。大の大人が恥ずかしい話ですが、「ごめんね、ありがとう」と口にすると、必ずぐっと来てしまいます。

何度走っても、どの大会を走っても辛いフルマラソンですが、人の優しさと、感謝と、辛さを乗り越えた自分に泣ける経験なんて、他ではできない。そう考えると、僕はやっぱり泣くためにフルマラソンを走っているのかもしれません。

全てに感謝です。
ありがとうございました。

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最後に残るのは本物だけ

昨夜、帰りの電車の中で親友に聞いた良い話。
神奈川で国政に立候補した方を支援したある人のエピソードです。

その方は自分の友人が立候補すると聞いた時、「自分には金もないし、地位もない。何もできないけれど、彼のことは絶対に支援したい。自分に出来ることは応援することだけだ」と、それから毎朝いつもより三時間も早く起床して都内の自宅から横浜に行き、「いいぞ!そうだそうだ!」と朝立ち演説の応援をしてから、また都内に戻って出勤するということをやっていたそうです。週に一度、とか、週末だけ、ではなく、毎朝です。毎朝三時間を、彼に捧げたと。そこまで出来るんだと、深い人間関係と私利私欲のない行動に感銘を受けました。

この話を聞いた時に、最終的には本物しか残らないんだよねという意見で一致しました。良く聴く言葉ですが本当にそのとおりなんです。人間関係、信頼関係、技術、ものづくり、ビジネス・・・すべてにおいて、最後に残るのは「本物」だけ。では、本物ってなんだろう。信頼の度合い、真剣の度合い、長い時間軸、努力の総量、競争力・・・この辺り、また色々と考えなければなりません。

こちらは淀屋橋のTHE LINKSでのイベント帰りに仲間たちとヒューガルデンのホワイトを。

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安心感とは「肯定」だと思う

いつの間にやら3月に入りましたね。
今年も6分の1が終わり、その分、成長できたということで喜ばしい日となりました。1/6分成長できた。良かった良かった。

安心感というのは、「守られている」というようなネガティブな感情ではなく、「ああ、やっぱりそうなんだ」という自己確認、肯定に近い感情のことを指すのではないかなと思います。「守られている」という言葉の前に「今は」という前置詞を置いてみましょう。一気に先が怖くなりますよね。怯える日々が始まります。でも、「ああ、やっぱりそうなんだ」の後に、「よし、このまま積み重ねていこう」という言葉を続けると、日々前向きに歩めるはずです。ちなみにですが、「自己満足」と「肯定」とは似て非なるものです。「肯定」という言葉の前提条件としては、日々の努力やブレイクスルーやマドルスルー(泥の中をもがいている状態)がありますからね。

そういう環境に身を置けているのはとても幸せなことです。

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使う人が使いやすく、作る人が作りやすいものを設計することが自分たちの価値提供

先日、横浜の某一部上場メーカーさんの研究開発センターに行った時のこと。開発部の方と話をしていると、自分たちは設計者として、これを使う人はどういう風に使うのか、製造の人がそれを作る時はどうしているのか、それを想像しています、いくらスペックが良くても、使いづらいもの、作りづらいものは世に出してはいけないと思っているので・・・という言葉が出てきました。

使う人(エンドユーザ)のことを考えるのは当たり前だとしても、設計工程よりも下流にある製造現場のことを考え、作りやすいかどうかまで考えるのは、当たり前のようでなかなか出来ないことです。なぜなら大抵の場合、工程は縦割りされているので相手の顔も見づらく、自分たちは設計者の論理で良いと思うものを作り、時間に追われながらも納期さえなんとか守っていればそれでOKと思ってしまいがちだからです。

価値というのは、それを使う人が決めること。設計だけでなく、全ての面で同じことが言えますよね。自分が良いと思っていても、相手がそう思わないなら、相手にとってそれは価値がないことと同じ。思いやりを持ち相手の立場に立って、キャッチしやすいパスを投げてあげたり、分かりやすい言葉を掛けてあげたり、そういうことだと思います。

仕事柄、技術者の方と会うことが多く、今日も日本の代表するメーカーのユーザービリティ評価の専門家と話をしていたのですが、どこのものづくりの現場にも、自分の専門分野に誇りと責任を持ち、その技術を通していかに世の中を良く出来るかを真剣に考えているエンジニアがこの国にはたくさんいるなと、毎回実感します。日本の製造業を取り巻く問題はたくさんありますが、現場一人一人のそういうポジティブな精神が何かを変える力になって欲しいなといつも思います。

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”でも、彼女たちの走る姿を眺めているのは、それなりに素敵だ。このようにして世界は確実に受け継がれていくのだなと、素朴に実感する。”

こういう仕事をしているので、一応、日々キュレーションされるテック系のニュースやレポート、ペーパーには一通り目を通しているのですが(Twitterのタイムラインで情報収集しています)、ああ、一部のとても能力の高い人たちがいて世界は回っているんだな、としみじみ実感することがあります。

自分がこうして電車に揺られている間にも、オフィスのデスクでミンティアを食べている時も、イスに腰を埋めて空を見ている時も、新しい論文や技術が生み出され、実証され、製品化され、世の中に出て行きます。人や社会の様々な営みを多角度から観察し、解析し、将来を予測し、ビジネスを解説し、取り組みを紹介している人たちがいます。だから自分もやらなくちゃと焦ることも昔はありましたが、最近は、ああいう人たちはああいう人たち。自分に出来ることは自分にしか出来ないのだからマイペースでがんばろう、としか思わなくなってきました。なんだか、劇場のオーディエンスのような感覚です。

一人のランナーとしても、エッセイとしても大好きな、「走ることについて語る時に僕の語ること」の中で、村上春樹さんがボストンのチャールズ河沿いをジョギングしている時に、金髪のポニーテールを揺らしながら走るハーヴァードの新入生(と思われる)の女の子たちに次々と抜かれていくシーンがあります。その描写の中で、こういう一文があります。

人々を次々に抜いていくことに、彼女たちは慣れているようだ。抜かれることには恐らく慣れていないのだろう。彼女たちは見るからに優秀で、健康で、魅力的で、シリアスで、そして自らに自信を持っている・・・まわりの風景を眺めながらのんびり走るということはおそらく、彼女たちのメンタリティには馴染まないのだろう。それに比べると僕は、自慢するわけではないけれど、負けることにはかなり慣れている。世の中には僕の手に余るものごとが山ほどあり、どうやっても勝てない相手が山ほどいる。

でも、彼女たちの走る姿を眺めているのは、それなりに素敵だ。このようにして世界は確実に受け継がれていくのだなと、素朴に実感する。彼女たちには彼女たちに相応しいペースがあり、僕には僕に相応しいペースがあり、時間性がある。それらは全く異なった成り立ちのものだし、異なっていて当たり前である。

自分に相応しいペース、異なっていて当たり前。
まさにマラソンと同じ。人それぞれ何かのきっかけや理由があって走り始め、辛さを経験し、それを乗り越え、達成した時の喜びを噛みしめる。それは、タイムを競うようなものではなく、極私的な事情に基づく個人的な体験です。僕も負けるには慣れています。今までも勝つことの方が少なかったように思います。だから競うのではなく、自分の良さを生かし、出来ることを最大限にやり、満足の閾値に達することができればと日々考えています。

(写真: 2016年9月 スタンフォード大学にて)
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調子が上がらないと思ったら、発熱していたというオチ

早いもので2017年に入ってもう4日目です。

当社は明日から仕事初め。今日はリハビリがてら自宅でのデスクワーク後に20kmランに出掛けました。今日まで休みの人が多いのか、夕方の住吉川はたくさんのランナーやウォーカーで賑わっていました。

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タイムや体力というよりも、気持ちがまだまだ乗って来ません。2.5kmの上り坂を二回走るだけで心が折れそうになりますし。今月の末にはスピードレースの大阪ハーフマラソンがあるのでもっとがんばらないと行けないのですが、気持ちの追い込みと、走り込みの両方が必要なようです。

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とはいえ、なんとか20kmは走れたのですが、どうも昨夜から身体の調子が悪い。関節が痛くて、熱っぽい。もちろん予防接種は打っているのでインフルエンザは疑わないのですが、どうやら風邪のようです。夜、熱を測ると37.5度。まあ、熱があるのに走っていた訳ですから、調子が上がらないのは当然ですね。

今夜は十分に水分を摂って早めに就寝し、明日の仕事初めに備えたいと思います。気合は十分です。

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