梅雨空を切り裂いてひとっ飛び

まだ人が少ない伊丹空港。
手荷物検査場も全く待たずに通過できました。

ANAの搭乗口はすっかりリニューアルされていましたが、久しぶりとはいえ身体はやっぱり導線を覚えているようでスムーズに搭乗口まで。

それにしても久しぶりに飛行機に乗りました。2月にサンフランシスコから帰って来て以来、約5ヶ月ぶりです。

何かあれば意見を聞き、的確な言葉をくれる親友とフレンチの名店へ。料理はもちろん、ロケーションも最高でした。

コロナもまだまだ。というより勢いを増して来ている気がします。

予想していたとおり一過性のものではなく、待ったなしで新しいワークスタイル、ライフスタイルへのトランスフォーメーションが本格的に求められるようになりつつありますね。

7月1日からエコバッグを持参しはじめました

訪問や出張はオンラインに置き換わりましたので昼食はいつも社内で食べています。時短に繋がるし、食後に30分ほど昼寝できますからね。

毎朝コンビニに立ち寄ってお昼に食べるものを買うのですが、7月1日から買い物袋が有料化されましたよね。これを期にエコバッグ生活に入りました。どこまでエコに協力できているのか分かりませんが、そこは考えないようにして。

やってみて思ったことは、品物を入れる時に結構手間取ってしまうということ。代金の支払いをピッと完了してから、購入したものをエコバッグに自分で入れなければなりません。

大体僕が買うものといえば、ざる蕎麦、冷やしとろろ蕎麦、ざる蕎麦といなり寿司のセットのいずれか(ローテーションしてます)、それに、ゆで卵とおにぎりをつけるかつけないか、というラインアップで、入れるのに困りそうな細かいものや、変な形状のもの、壊れやすいものなんてないはず。

ところが、それまで店員さんが袋に入れてくれるのをぼーっと待ってるだけだったのが、逆にバーコードスキャンという自分の仕事が終わった店員さんに「待たれている」という逆の立場になった時、不慣れな作業に加えて、焦りも出てくるんでしょうね、きっと。

これからは、もっと、決済から袋詰め(なんか違うな)までの作業をスムーズに行えるようにしてエコバ・プロを目指したいと思います。

【全部推量】目の前にあるもののほとんどは、幻想なのかもしれない。自分で考えた答えが唯一頼れる哲学なのかもしれない

7月に入りましたね。

今年も後半戦に入りました。色んなことが起こる年です。これから先、台風や洪水が来るかもしれませんし、大不況が訪れるかもしれません。お金を刷り過ぎてハイパーインフレが起きるかもしれません。コロナに加えて今度は新型豚インフルエンザも流行り始めて、ますます疎化が進むかもしれません。

不安要素も多いですが、僕はそれをあまり不安とは思っていません。歴史を振り返れば、人間はいつの時代も曲りなりに生き伸びてきました。つい100年前までは平均寿命なんて40歳そこそこだったんです。あくまで平均、生まれてすぐ亡くなることも多かったですしね。でも、今は人生100年時代。恵まれた世の中です。

ただ、時代によって価値観は変わります。生んで、増やして、働いて、豊かになって、という時代はそろそろ終わりを迎えそうです。

これからの時代に必要なのは何ですかと問われた時に、僕なりにどう答えるかなと色々と考えてみました。一言で、と問われたら「哲学です」と答えるかもしれません。

哲学。

人間はどうあるべきなのか、どう生きるべきなのか。少し広げて、社会はどうあるべきなのか、イデオロギーのアップデートは必要ないのか。機械化、AI化が進むところまで進んでしまえば、人間は極端な話、働かなくても良くなるわけです。人類史上、こんなことはなかった。そうなると、人間は生きる上での別の意義を見いださなければならなくなります。それは何でしょうか。

機械とAIは人間がインプットしたプログラムとデータで動きます。そこで重要なのが哲学です。ノア・ハラリ先生が言っているように、自動運転車をコントロールしているAIはトロッコ問題(トロッコのジレンマ)のようなことが現実に起こったらどう判断するのだろうか、ということになるわけです。

ミクロ視点に話を戻すと、一人ひとりは「自分の生き方を、自分の頭で考える」ことがますます重要になります。目の前にある選択の一つひとつは、周りの人間や勤め先の会社から与えられるものではありません。自分の頭で考え、設計し、行動すること。何にも縛られるものはありません。

先の質問「生きる意義」や「機械化社会の哲学」などの答えに、正解は(恐らく)ないと思います。だからこそ、自分で考え、考えた結論を自分の答え(=哲学)として持ち、行動の指針とすべきなのです。

自分の頭で考えた時に、自分は何が向いているか、苦にもせず出来ることは何か、お金のために働かないとすれば何をするだろうか、しがらみがなければ何をするだろうか、というような自問自答につながるかもしれませんね。

目の前にあるもののほとんどは、幻想なのかもしれません。
自分の心を深堀りして、見えた景色を考えに落とし込むことがとても大切だと思います。

国別対抗・芝談義。ゴルフとランから人生を学ぶ

天気に恵まれた週末でした。

土曜日は、第二回国別対抗マッチ。
ニュージーランド、南アフリカ、奈良、兵庫の、それぞれの国(笑)を代表して芝の上で腕を競いました。この人たちと回っていると毎回ほんと勉強になります。ちゃんとゴルフと向き合っているし、本当に上手。それに何より楽しい!

ラウンドの後は、別のクラブに移動してキャプテン面談。こうしてゴルフに対して長年向き合っておられる方々、真剣な方々、伝統あるクラブの皆さんから、今年は色んな刺激をいただく年のようです。そろそろ君も真剣に向き合いなさい、と言われているような気がします。

夜はアドベンチャークラブの定例会。
こちらはマラソン、トレランと真剣に向き合っている素晴らしい方々とのオンラインミーティング。それぞれのランに対する思い、本当に素晴らしかったです。こちらの活動もこれから益々拡大して行きたいと思っています。

ゴルフもマラソンも趣味とはいえ、僕は人生そのものだと思っています。

諸先輩方、同じく趣味を共有する仲間たちからの学びを得ながら、自分も人としてさらに深みを目指して行きたいと思っています。

慣れないことをすると身体が驚いてしまう

東京の方は新型コロナウイルスの感染がまだ収まらないようですが、大阪は今は少し落ち着いているようです。

予防と感染に対する様々な取り組みがなされている中で、徐々に日常が戻りつつあり、飲み会や会食も復活してきました。今週の後半は連日飲んでいます。平日は飲み、週末はゴルフとランニングという、おっさんの鏡のような生活が戻って参りました。

こちらから客先に訪問することはまだ控えていますが、徐々に来客も増えてきました。来客が増えるとなると、会食も増えるわけです。ビジネススタイルは、オンラインでのカンファレンスコールなどが主流になりましたが、今後はどうなるんでしょうね。

さて、今日の帰り。
お酒が入っていたこともあり、そういえば、かなり久しくラーメン食べてないなと思ってシメの一杯を求めて天一へ。

一言でいうと、調子に乗ったらダメでした。

久しぶりの天一の味は美味しかったのですが、普段していないことをすると胃がびっくりしてしまいます。笑

なんやなんや、となるわけです。

こういうところも含めて、徐々に復帰となるんでしょうかね。

フィルターの精度を高めることと、記憶との関係性について

己のフィルターの精度を高めることは多くの人にとって大きな関心事の一つだと思いますが、ちゃんとそのフィルターが働く時ってどういう時なのでしょうか。今日そんなことを考えていた時に、一つの答えにたどりつきました。

それは、不純物を取り除き、本当に大切なものだけを濾し取ること。フィルターだけにね。そしてその濾し取られたものって、不思議と記憶の中にとどまり、忘れないんです。

人って普段、大したことから大したことじゃないことまで、本当にいろんなことを考えて生きているものです。歩きながら、ジョギングしながら、通勤電車の中でも仕事中でも。その時々でテーマは違えどいろんなことを考えていると、新しいアイデアが思い浮かんだり、困っていることの解決方法が見つかったり、スパゲッティになっている思考がスッと解けたりするものです。でもね、残念ながらそのすべてをちゃんと覚えているわけではないんですね。

ブレストのアイデアラッシュのような、これもいいんじゃない?あれもいいんじゃない?というレベルのものは、日が経つと忘れてしまうものです。でも、何かを思いついた時に、ああそうか、こういうことだったのか、と、本当の意味で腹落ちしたことって、酔っ払っていても、その直後に寝たとしても、起きた時にはちゃんと覚えているんです。自分の中のフィルターをちゃんと濾し通って、ポトンと落ちた混じりっ気なしのアイデアなり考えは、ちゃんと残ります。そして、その「記憶に残す」という大切な働きが「フィルター」にあるんですね。

普段からフィルターの精度を上げようと努力している人は、記憶に残ったことが自分にとって腹落ちすることであったなら、自分の精度に自信を持って良いと思います。

逆に、何も出てこない日もある。

そんな日は焦らず、がんばらない。出てくる時はふっと出てくるものです。明日が素敵なものを携えて来てくれることを信じて、待ちましょう。

父の日とは知らずにゴルフから帰宅すると、愛娘たちから素敵なプレゼントが

千刈カンツリーでの定例ラウンドを終えて帰宅すると・・・

愛娘二人からお手紙とプレゼントが!
そうか今日は父の日だったんだ。

なんかメッセージを読んでいると、パパ色々と心配掛けてるなあと思い反省。いつも元気でかっこいいパパでいれるようにがんばります。

愛娘二人は高校生と中学生になりましたが、未だに抱っこーとかおんぶーとか言ってくれるかわいい子たち。よく勉強はするし、二人で仲良く料理しながらキャッキャッいって楽しくしてるし、パパにしては出来過ぎる娘たち。もらった手紙は定期入れにそっと忍ばせました。

夜ご飯も、僕の大好きな竹園のメンチカツを用意してくれて、ハイボールと一緒にいただきました。

梅雨の合間のご褒美のような週末でしたね。

昨日のラウンドは、月例会と研修会とキャプテン杯と、のじぎく予選が重なって大変な混雑でしたが、湿度も低くてからりと気持ちよく、涼しくて最高に快適なラウンドとなりました。

何が起きてもその時その時でがんばるしかない。起きる出来事に対する受け入れと覚悟を感じた今週の酒場。

今週から飲み会も順次再開。

久しぶりにリアルの場で会う皆さんと、やあ、久しぶりです、お元気でしたか、などと声を掛け合って近況報告ができるのはやっぱりいいものですね。

馴染みのお店にも順番に顔を出し、お互いの生存確認をしながらこんな事になってねと話をしていると、日本人の中に、どこかしら「何が起きても仕方がない、その時その時でがんばるしかない」という自然現象(疫病含む)に対する受容と覚悟ができているように感じました。もちろん何事もないのが一番良いのですが、自然には勝てないという、地球に住む生物の一種類である人間の、ある種の受け入れも大切だなとも思います。

今日は朝のうちにゴルフ練習場、そして、涼しくなった夕方に10kmラン。空気がからりと乾いていてとても快適に走ることができました。

外飲みだけでなく、家飲みも復活です。
KALDIのちょっとひねったおつまみが大好きです。

皆様も素敵な週末を。

ゴールはどこにあるんでしょうね。 ゴールなんてないのかもしれませんね。呼吸をしっかり整えてこのブログも16年目に入ります。

このブログを書き始めたのが、2005年の6月。

誕生してから丸15年を迎え、16年目に入りました。思えば長いことやってるなあ。書き始めた当初、自分が20代だったなんて信じられません。あの頃、僕は29歳で、長女は6ヶ月でした。それが今や、ね。月日が経つのは早いものです。

元々怠惰な人間が、「日々成長」ということをどれだけ意識して実践できるか、ささやかな挑戦の日々が15年続き、16年目に入ろうとしています。何かを書くということは、何かを取り入れるということ。先日の呼吸の話「生きることは、はくこと。息をしっかりはく。(2020/06/11)」ではありませんが、インプットとアウトプットはもはや完全に習慣になり、ようやく質を意識できるレベルになったように思います。

年齢と共に得るものもあれば、失うものもあります。

2月2日生まれの僕にとって、今年2020年は「飛躍の年だ」と思い込んでいたのですが、出だしから体調面で盛大につまづいてしまいまして、今まで当たり前にできていたことが出来なくなるという非常にもどかしい現実に直面しました。もがき苦しみながら、得たものもあります。それは「受け入れる」ということ。100kmは走れないけど、5km走れるだけでも感謝じゃないか、80台では回れなくなったけど、100で回れたら上出来じゃないか。どういうわけか、そんな考え方にシフトしています。出来ることをコツコツと。そして、与えられたものに感謝すること。真理は普遍ですね。

ブログを書き始めてから今に至るまで、ずっと大切にしている言葉があります。

それは「日々を丁寧に塗りつぶす」ということ。

ビッグニュースがあった日も、何もなかった平凡な日も、その日を悔いなく生きれたか。生き切れたか。誰かの役に立てたか。明日をワクワクしながら寝床に入れたか。ほんの少しでも、1mmでも成長できたか。

ゴールはどこにあるんでしょうね。
ゴールなんてないのかもしれませんね。

でも、見えないゴールを見ているかのように、自分をぶらさず、目を見開いて一心に進んで行きたいと思っています。

相変わらず独り言のような日記に過ぎませんが、日々感じていることや思いや考えなどを稚拙な文章で少しづつ書き溜めた結果が、2万本以上の記事になりました。そして、僕はこれからもここで何かを書いていくつもりです。

16年目もどうぞよろしくお願いいたします。

あの日の憧れが日常になった時の現実感は、成長なのか退化なのか

言葉の響きだけで、興味を引き立てられるものって多いと思います。

例えば、「ボストンのチャールズ河沿いでランニング終わりに飲むキンキンに冷えたサミュエルアダムス」や、「京都の老舗豆腐屋で醤油だけで食べる汲み上げたばかりの湯葉」などは、もうイメージだけで、ああ、めっちゃいいなあとなるわけです。

僕の場合、子供の頃から「夜間飛行」という言葉の響きにとても強い憧れを抱いていました。

飛行機が点滅する夜空を見上げて、行き先はパリかな、ニューヨークかなと想像し、それは家族旅行のフライトとはまた違う大人なイメージでした。

それなりに大きくなっても「夜間飛行」のイメージは変わらず、頭の中で考えるのは、離陸前の空港でのひとときや、ラウンジで飲むウイスキーのソーダ割りや、フライト中の薄暗い機内で子守唄代わりに聞くステファン・ポンポニャックの音楽など、勝手に想像しては、夜に空港を離陸して、朝には異国の地に降り立つというこの「夜間飛行」の独特な優雅さ、お洒落なイメージがどんどん膨らみ、夜間飛行への憧れが強くなるのです。

しかし、ここ10年ほど実際に海外出張に頻繁に行くようになると(そしてほとんどが夜間飛行)、そのお洒落なイメージはどこかに行ってしまいました。

確かに離陸前にビールやハイボールは飲むものの、そこに優雅さのようなものはなく、直前までノートPCでバタバタと仕事をしていたり、搭乗前にゲート前のコンビニで柿の種やバターピーナツ、レトルトの味噌汁など生活感溢れるもの、かつ、海外であると嬉しいものを買ったり、イヤフォンから流れる音楽はステファン・ポンポニャックのようなラウンジミュージックではなく中島みゆきだったりするわけです。

機内ではビールを飲んで着陸後の仕事に備えてがんばって寝ようとするし、そこには優雅にワインを飲みながら映画を見るなんてものはあまりありません。

どんなものでもそうだと思いますが、あの日の憧れが日常になってしまうと、それはとても現実的な意味を持ちます。夜間飛行と同じで、毎日ランニングした後にチャールズ河のほとりでサミュエル・アダムスを飲んでいると、「かつての憧れ」を実現しているにも関わらず、きっとその次の予定のことを気にするでしょう。

その現実的な何かを知るということは、成長なのでしょうか、退化なのでしょうか。それとも、単純に「慣れ」なのでしょうか。成長であれ退化であれ、またそのうちに次の憧れが出てくるのでしょうか。それとも、かつてのイメージと現実は(夜間飛行の優雅でお洒落なイメージと、柿ピーを携えた実際の夜間飛行)乖離したまま、並行に走って行くのでしょうか。

どうなんでしょうね。
ちょっと考えてみると、寂しいような面白いような。

みなさんはどう考えられるでしょうか。