単線の魅力 〜世田谷線と江ノ電〜

乗ったり撮ったり時刻表を研究したりはしないのですが、鉄道の単線が大好きでして。

地元の阪急甲陽園線が、夙川駅から甲陽園駅までの単線というのもあるかもしれません。子供の頃から見慣れた風景にはいつも単線があり、それが理由なのかどうか分かりませんが、単線を見ると異様に気分が上がり、自然と笑みがこぼれてしまいます。(ちなみに、阪急梅田駅や南海なんば駅のようなターミナル駅も好きです。)

先週と今週、たまたまなのですが二週連続で単線に乗るという経験をしました。

先週は東急世田谷線。会食に呼んでいただいた場所が世田谷駅で、滞在しているホテルからのルートを見ると、田園都市線で三軒茶屋まで行き、そこで世田谷線に乗り換えろと指示が出ています。田園都市線はいつも乗っているおなじみの路線ですが、世田谷線は初めての乗車です。もちろん三軒茶屋駅に着くまでここが単線とは知りませんでした。

もうね、改札入ってびっくりですよ。
世田谷線の三軒茶屋駅がターミナルであることで喜び二倍増しです。しかも区間一律料金で、乗る前にバスのようにピッてやるんですね。一般道を横断する時は信号待ちまでするし、ちょっとした路面電車感もあり、素敵すぎます。

ああもうたまらん

そして今週。

日曜日がオフだったので、鎌倉まで足を伸ばしました。鎌倉は好きな街で、海山が近いのも地元阪神間を彷彿とさせるので関東滞在中に海が恋しくなれば鎌倉に行くという感じです。

単線といえば、みんな大好き江ノ電ですよね。
狭い住宅街を縫うように走る江ノ電、最高です。

なぜ魅力的なのか。

電車と人や住宅の距離が近いから良いのかな。自分でも良く分かりませんが、長期出張の良い思い出になったことは確かです。

もちろん、鎌倉ひとり街歩きも良かったですよ。前回来た時には新しいお店ができていたりして。お盆休み真っ最中だからかな、観光客も海水浴客も結構おられました。

夏ですね。

由比ヶ浜で自撮り

海に面しているからという理由だけで、料理もドリンクも映えてしまう

人間というのは不思議なもので、その季節を迎えるたびに「春だからこれがしたい」「夏だからこれがしたい」というように季節ごとのイベントをしなければ気が済まないということってありますよね。

先日は鱧(はも)についての記事を書きましたが、四季がある日本で生まれたからなのか、実は僕も季節事に敏感だったりします。体が欲するというか。京都の人は祇園祭りで夏を感じるのでしょうし、野球ファンは高校野球で夏を感じるのでしょう。

若い頃のように、海水浴に行くことは娘たちが大きくなったのでなくなりましたが(ベトベトする、準備・着替えめんどくさい、長時間運転めんどくさい、日焼け嫌など理由はたくさんあります)、やはり海は見たい、海の側で快適に過ごしたいという思いは残っているようです。

先日、海欲が強くなり、淡路島が見える神戸のカフェを探してランチに行きました。海に面したカウンターに座した時に広がる明石海峡の景色、期待を裏切らない!

これだから神戸好きなんですよね。

こういう景色を目にするとスパークリングが飲みたくなるでしょう。車なのでノンアル・スパークリングです。近頃はノンアル系が充実してきて便利になりましたよね。

このまま暑中見舞いの絵葉書にしたい。

海に面しているからという理由だけで、料理もドリンクも映えてしまうから不思議です。

カフェの定番、タパスとパエリア

ついつい、写真を撮ってしまいますが、ロケーションが良いのでどこを切り取っても絵になるな。

皆さんはどんな夏を過ごされますか?
僕は海水浴は行かずとも、ゴルフとランニングで真っ黒になっています。

旬のものをいただく喜び

関西の夏の味覚といえば、鱧(はも)。

今年二回目の鱧を「落とし」でいただきました。鱧の落としとは、湯引きのこと。天ぷらも美味しいけど、僕はやっぱり落としを梅肉でいただくのが一番好きです。

旬のものをしっかりいただくことで、季節を感じることができる。日本は四季がある国ですので、願わくばこのまま気候変動の影響を受けず、輸入に頼らずに旬のものがその季節にしっかりとれる国であり続けて欲しいと思うものですが、なかなかそうもいかないかもしれませんね。

旬のものを食べるということは、身体の健康にも良いらしいですね。最近はスーパーで旬の夏野菜をたくさん買い込んで、常備菜を作ることを日課にしています。

さて、美味しい鱧とお酒を楽しみながらの話題は「抽象化」について。

抽象化とは複数の事象を並べて汎化することですが、この抽象化スピードが早い人ほど、仕事ができる。課題に対して勘所をすぐに掴むことができる人は一緒に話していてすぐに分かります。

木を見て森を見ずにならず、常に高い視点で物事を見ていきたいものです。

若者世代から学ぶことは多い

今週は東京出張ウィークでした。

コロナ以降、オンラインミーティングが日常の中ですっかり主役になったため、出張中であったとしても、ホテルの部屋であれ、移動中であれ、合間合間に自然とオンラインミーティングを行っています。

最近、はじめましての方からミーティングオファーをいただくことが多く、この出張期間中にも24歳でPR会社を起業した若者からミーティングの申し出がありました。僕は時間が許すなら、できるだけ依頼はお受けするようにしているのですが、その理由としては、様々な企業さんとお仕事をしているとはいえ、一人会社ですのでやはり情報や考え方が偏ってしまうことも多く、バランスを保つためにも色んなジャンルの話が聞きたいという思いがあるからです。

さて期待通り、彼らのPR手法というのはTik Tokの活用や、プライベート・ビジコン・イベントの主催など、自分たちのレガシーな業界ではまず考えられないようなものばかり。でも今の時代はこれが当たり前なんですよね。他にも色々とありましたが、昭和(平成?)の頭でいくら頭を捻っても出てこないようなアプローチの仕方と、その効果に、とても刺激を受けました。

自分が社会に出てからもう二十数年が経過しています。新卒22歳と定年65歳のちょうど中間くらい(やや定年寄りですが・・・)の年齢に位置づけている自分として、昭和の高度経済成長期やバブルを駆け抜けてきた世代の話も分かるし、デジタルネイティブ世代の話も分かる、いい意味で良いとこ取り世代だとは思ってはいるものの、どこかで拘りが強くなって来ている自分もいるし、良い意味でも悪い意味でも、今の時代に絶望と諦めを深く感じているところもあるので、年齢関係なく、様々なジャンルの人の話を聞いて学ぶということの重要性を今さらながら実感しています。気づきもたくさんありますしね。

「我以外皆我師」という言葉にあるとおり、自分以外はみんな先生。
そう考えると本当に新鮮だし、その中でも特に、若者から学ぶことはとても多いですよね。

こちらは東京でお気入りの蕎麦屋さんです

手間暇かかるものに惹かれる理由

今日のランチは蕎麦の名店へ。

古民家を丁寧に改装したお店は人気店らしく、幹線道路から外れた狭い路地奥にあるにも関わらず併設された駐車場もいっぱいで、店の外には並んでいる人もいました。

天ざる蕎麦をオーダー。蕎麦も天ぷらも手作り風の素朴な味で、とても美味しかったです。お野菜は地元のものを使っているのかな。

だし巻きも、濃い卵の味に上品なだしがマッチして、良い意味で素朴なんだけど、こちらも美味しかった。

考えてみると、古民家の手打ち蕎麦なんて、手間暇かかるものの典型といえるかもしれません。毎朝そば粉を引き、打ち、鰹節と昆布でだしを取り、野菜を下ごしらえして調理し提供する。古民家もメンテナンスが必要です。

この合理性の一切ない「めんどくさいもの」に最近、特に惹かれるようになりました。

何かをするのにいちいち時間が掛かるというのは、昔の暮らしでは当たり前。蚕を屋根裏で飼い、糸を紡ぎ、服を作る。野菜にしても、種をまいてから口に入るまで多くの労力と時間が掛かる。身近にスーパーマーケットやコンビニがあるから、いつでもどこでも好きな時に好きなものが手に入ることに慣れてしまっているので、「いちいち時間が掛かる」という当たり前のことを忘れてしまいがちになります。

毎日、自分で庭木を手入れしたり、花を植えて育てたり、野菜を育てていたりすると、何事も簡単かつすぐに手に入るってことはないんだなと感じます。そもそも、人間の暮らしは面倒くさいものなんだよな。でも、面倒くさいことを一生懸命することによる充足感や幸福感というものは、コンビニやスマホからは得られないと思うんですよね。

簡単に手に入るもののおかげで生活は便利になったけれど、便利さと比例して幸福感や心の豊かさも増幅したかというと、僕はそうではないと思うんです。合理的でなく、遠回りと思えることに時間を使う、面倒くさいことを一生懸命やる、これらは現在の生活ではむしろ「贅沢」な領域に入るのですが、少なくとも幸福感や人間らしさを保つ、という意味では絶対に必要なもの。

だから僕は毎朝、自然の中を散歩するのかもしれません。木々は育ち、路肩の花は誰に見られることもなく、花を咲かせているのです。人間だけが、その上でバタバタしているように思えるんだよなあ。



神戸昼の顔、大阪夜の顔を人と鳥の目線から

神戸でのランチミーティングと打ち合わせが日にちを置いて二度続いたことで、大好きな神戸に行く理由があったことは最近の嬉しい出来事の一つでした。

神戸が好きな理由の先頭に来るのが「街の適切な大きさ」です。東京や大阪に比べて人が少なく、レトロな建物とハイテクビルが混在しつつも整然と、海山に挟まれた狭いエリアに並んでいます。昨今の神戸市の人口減少が問題視されていますが、僕個人としては「これでいいんじゃないかな」と思うのです。企業も学校も元気だし、良い店もたくさんあります。

名店というと、先日、ランチにお連れいただいたのは老舗の「グリル十字屋」さんでした。ヨーロッパのような半地下の作りで、上部にある窓から光が入り、それはそれは美しいお店でした。

神戸といえば、六甲山からの夜景が有名ですが、三宮駅の高層ビル、アンカー神戸からの景色もなかなかです。この日は天気も良かったですから。

一方、こちらは新大阪APAホテル最上階のレストランから淀川の向こうに広がる大阪市内を望む景色です。こちらは神戸よりもビルの数が多く、規模も面積も広いですね。

起業祝いで連れて行っていただきましたが、徐々に日が暮れていき、暗くなった時の夜景の美しいこと!



冒頭で「適切な街の大きさ」と書きましたが、それは、人との適正な距離ということもできるかもしれません。

先日、養老孟司先生が坂口恭平さんの「苦しい時は電話して」からの引用で、「2万人くらいの死にたい人の話を聞いてきた坂口さんは、人の苦労というのはすべて他人との関わり合いのなかにあるとしている」と書いておられました。

これはまさに真実だと思っていて、人が多すぎて密になり、関わり合いが深くなることで良いこともあれば、ストレスにもなりうる。職場や学校はもちろんのこと、そういう物理的な場以外にも、SNSの発達によりとかく他の人の主張や生活などの情報が目に入ってきます。そして、知らず知らずの内に人と自分を比べてしまうこともある。ビジネスで成功するためには、とか、社会人としてこうあるべきという主張も当然ある。

それらを日々目にし、耳にすることでストレスが生まれるというのはあると思います。人には得手不得手があるし、何を持って成功か、幸せかの尺度は人によって全然違うのに、そもそも当てはまらないテンプレートに無理やり押し付けられる気がする人もいるかもしれない。がんばってる人はがんばっていていいし、がんばっていない人もそれでいいのではないか。

人は社会的な生き物ですから、社会から孤立して生きることはできません。でも、多すぎるのも良くない。適度に分散し、分散したコミュニティで自立する。広く高い視座で見る人はそれでいいけれど、適度に狭い視点で世界を狭くする方が幸せなケースもある。自分に何が合っているかで住む場所や身を置くコミュニティを選択するのが良いですね。

正しい音を出すために調律が必要なのは楽器だけではなく、人間もなんですよね

GWも終わりに近づいてきました。
皆さんはどのように過ごされましたか?

この連休中、いろんな所を旅行し、たくさんの人と会い、美味しいものをいただきました。天気に恵まれたこの土日は二日連続ゴルフでしたが、それまではラウンドもなく、バラエティに富んでいるという意味ではバランスの取れた休暇だったように感じます。

このような長期休暇は、心身を休め、自分自身を調律するための時間として使うようにしています。実は僕、この「調律」という言葉が好きなんです。

ウィキペディアでは「調律(ちょうりつ)とは、楽器の音高を、演奏に先立って適切な状態に調整すること」と説明されています。正しい音を出すために調律が必要なのは楽器だけではなく、人間も同じだと思っています。自分にとってどの状態が「正しいか」は人それぞれあるとして、普段の生活の中で、知らずしらずの内に考え方が歪んだ方向に向かっていたり、忙しさの中で余裕を持てなくなったり、疲れて目先のことだけしか見えなくなったり。無意識の内に自分が出す音色が乱れてしまっていることがあります。

ではその乱れを直して調律してくれるのは何なのか。これも人それぞれだと思いますが、僕の場合は自然と触れ合うこと、人に会うこと(特に自分のことを良く知ってくれている人)、そして、本を読むこと。自然、人、本、この三つを大切にしています。

自然からは生きている環境と、人の本来あるべき姿を知り、人と会うことによって自分が発する言葉から今の自分が何を考えているかを再帰的に知りつつ、相手からも多方面でアドバイスをいただいたり、ツッコミをもらったりする。小説や学術書などジャンルは様々ですが、本からは客観的なインプットをする。我以外皆我師。知ること、学ぶことは、欠かせません。このようにして調律が完了すると、仕事でもプライベートでもまた良いパフォーマンスが出せる気がしますし、少なくとも、このGWは最高の調律ができたと思います。

また明日から新たな週がスタートします。

来週は火曜日から木曜日まで東京出張もあり、仕事の予定も目白押し。たくさんの方とお会いできるのが楽しみです。肩の力を抜きつつも一つひとつ丁寧に向き合い、ニコニコしながらも一日一日を丁寧に過ごして行きたいと思っています。

余白、間(ま)に美を感じる感性

このGW中、大洲、松山、奈良と、あちこち移動しながら仕事をし、人に会い、美味しいものを食べ、心身共にリフレッシュしてきました。

それぞれの地域ごとに特産物があり、それらを楽しむのはとても満たされるものです。大洲では南予の鯛めしをいただき、松山では甘とろ豚のヒレカツとじゃこ天、夜は居酒屋で地元の野菜などを使ったお料理、奈良ではとろろそば、芦屋では高級江戸前鮨をご馳走になり、という具合です。

自宅を職場にしているので普段は出歩くことも少なく、せいぜい近所のスーパーやドラッグストアくらいにしか行きませんが、その反動もあるのと、また元々出張族で国内海外を飛び回っていたということもあり、出張以外にも月に何度かは思い立ったところに出掛けるようにしていきたいと思っています。そう、短めのワーケーションです。

旅先の文化や歴史を知るのは面白いものですが、意外と盲点なのは、地元の歴史。狭い地域での移動ですが、芦屋から苦楽園に引っ越してきて、メインで利用する電車がJRから阪急に変わったこともあり、自分が生まれ育ったこの地の歴史に改めて興味が湧いてきました。

阪急、JR、阪神が東西に走るこの地域には「阪神間モダニズム」という文化的特徴があります。山と海に挟まれた東西に長いこの地域には、明治から大阪船場の豪商が居を構え、作家などの多くの文化人が育った町でもあります。彼らの作品には芦屋川や夙川や阪急電車などが登場するのですが、その中でも代表的なのは、谷崎潤一郎の「細雪」でしょう。

最近、この細雪を再読しています。そしてそれだけに飽き足らず、細雪が書かれた時代の背景、阪神間という都市としての特徴との関連などを書いたものにも範囲を広げているのですが、スピードと結果を重視し、白黒はっきりさせるという昨今の風潮に自分が嫌気が指している理由が分かったのです。

それは白と黒の「間」にこそ美しさを見出すこの地域の「どちらでもない」文化に自分が生まれて育っているからなのかもしれない。商業都市大阪とモダン都市神戸の「間」の地域、どちらにも属さないという独立心、海と山の「間」の地域、地元の人もいれば、谷崎のように関東や地方から移住してきた人も多いという出身地がミックスされた地域、そして、和洋華折衷の建築。

それは、「中間を好む」という意味ではなく、間(ま)の中にこそ、美しさを感じるという感性。陽も陰もその間のグレーな空間も、余白にすら何かを感じる。キラキラした陽ばかりの価値観は日本人には向かない。自分自身、ビジネス一辺倒で、常に陽を志向していた時期もありましたが、いつしか健康上の問題を抱えるようになり、遅ればせながら、何もない余白や陰の存在意義と美しさにも目を向けるようになってきました。

地方に行くと、その土地が持つ陰の歴史が否応なく目に入ります。

古くは干ばつで雨乞いをした場所、過去に河川の氾濫があった地域、地震や大規模な水害が発生したなど。いつの時代も自然の中で人は生き死にを繰り返してきた歴史があり、今続いているのは、その中で生き残った人たちがいたからなんですよね。陰があるから陽もある。その逆もしかり。

人間ってたくましいなあ。

【ワーケーション中に考えること】テクノロジーのイノベーションだけで経済成長はしないという事実と、その先にあるものとは

愛媛県でワーケーション。
今日は快晴。外を歩いていると汗ばむほどです。

仕事しながら旅をする、あるいは、旅をしながら仕事するというのを、今年は少しづつやって行きたいと思っています。時間が許す限りですが。自分のようにPCとネットとスマートフォンがあればどこでも仕事ができる人間は、インターネットの発達における恩恵をまさしく享受しているのですが、一方、インターネットをはじめとするテクノロジーの進歩は本当に世の中を良くしたのか、という点も考えなければなりません。

こうして地方の城下町を歩いていると、地産地消に代表されるようにそれぞれの地域の小さな経済圏でモノのやり取りを完結する方が、結果的に豊かな社会を実現できるのではないか、と考えざるを得ません。仮にスタバやアップルストアやヴィトンがなくても(この街には全部ありますが)生活するのに困らないじゃないか。

コロナにしても、ウクライナ問題にしても、米国金利引き上げによる円安加速にしても、グローバル化によって社会が複雑に絡み合っているがゆえに関係のない地域まで巻き添えを食らってしまう。こんなことってロクなことないよな、と思っていたので、余計にそう思うのかもしれません。グローバル化がもたらしたあらゆる問題を解決する方法は、地域分散型(自律分散型)経済しかないよな〜ということです。

すいません、インターネットの発達から少し横道に逸れてしまいましたね。
関連することですが、先日、山口周さんがTwitterでこのように言っておられました。

ここで引用されている、2019年ノーベル経済学賞受賞の経済学者のアビジット・V・バナジーとエステル・デュフロは、「絶望を希望に変える経済学」の中で、このように述べています。

フェイスブックのCEOマーク・ザッカーバーグはインターネットの接続性が計り知れないプラス効果をもたらすと信じているが、そうした信念を共有する人は大勢いるらしく、多くの報告書や論文にそれが反映されている。たとえばアフリカなど新興国に特化した戦略コンサルティング会社ダルバーグが発表した報告書には「インターネットが持つ疑う余地なく膨大な力がアフリカの経済成長と社会変革に寄与することはまちがいない」と書かれている。

この事実はほとんど自明なので、あれこれ証拠を挙げて読者を煩わせるまでもないと考えたのだろうか、何のデータも引用されていない。これは賢い判断だったと言うべきだろう。そんなデータは存在しないからだ。先進国に関する限り、インターネットの出現によって新たな成長が始まったという証拠はいっさい存在しない。

絶望を希望に変える経済学

 
インターネットは経済成長に寄与していない。
僕のような一般人でさえ、この言葉はとても良く理解できます。

日本の高度経済成長期には、インターネットもPCもスマホもなく、紙の書類と電卓と電話、テレックスで鉛筆なめなめ仕事をしていたにも関わらず、10%以上の経済成長をしていた時代がありました。物を作れば作るだけ売れた時代です。その後、テクノロジーが進化し、インターネットが普及して「便利な時代」になったこの30年間はどうでしょう。

経済成長率は0なのです。便利になったら生産性が上がって、仕事の速度が上がり、効率よく仕事ができるから豊かな社会になるんじゃないの?と思いますよね。でも、今起こっていることは、逆です。物が行き渡った時代には、物を作っても売れないのです。

下の図は、厚生労働省調査の1990年から2019年までの月収の推移です。

厚生労働省「毎月勤労統計調査」

月収は1997年頃から最低値の2013年頃まで約15年間で15%も減少しています。バブル後の不景気、高齢化に伴う社会保険、厚生年金の増大もあり、可処分所得は年々減っています。では、給料は減ったとして、余暇の時間は増えたか?それが、そうでもない。生じた余白は別の仕事で埋められr、人々の生活はどんどん忙しく、どんどん貧しくなっているという事実があります。

ちなみにAIの発達ついても同様で、経済学者の井上智洋先生は、このように書いておられます。

人工知能(AI)は、経済にほとんど影響を与えていない。それが証拠に、日本全体でAIが生産性を向上させているとか経済成長率を引き上げているといったデータは一切ない。

スマートXのプラットフォームを握った企業が次代の覇者となる

 
このような事実から、昨今叫ばれているDXなどのキーワードも、経済成長には一切貢献しないということができます。モノが行き渡った世の中に、無理やりモノを売るべく、新しい概念を提示して利益確保、雇用創出のため「なくても良いものを無理やり売る」にしか過ぎず、これから先も新しいキーワードが生まれては消え、ということを繰り返し、労働者が疲弊しながら、良くてゼロ、実質マイナス成長をしていく日本の姿を容易に想像することができます。少し乱暴な意見かもしれません。でも、大きく間違っているとも思いません。

インターネットが世界中に行き渡り、グローバル化が促進され、世界が複雑に絡み合う時代においてもたらされたものは、GAFAMを代表とする巨大企業による情報の集権と一部の巨大企業または資本家だけがひたすら儲かるという格差社会です。日本の大企業ですら、GAFAMを前にして下請けにならざるをえなくなりました。日本だけでなく、すべての国は米国や中国に利益を吸い上げられているという構造です。

では、そこから抜け出すためにはどうすれば良いか。

自律分散型の経済圏を確立し、グローバル社会とは一線を画すことは一つの解かもしれません。小さな地域(またはコミュニティ)で、物々交換をしながら、皆で仲良く暮らす。地域通貨があれば、為替の影響を受けずに済む。環境も無茶に破壊しない。安全保障の問題は残りますが、それはまた別の議論が必要でしょう。一例として、どの国もお互い一切干渉しない(全国家、総鎖国状態w)というレギュレーションを作れば安全保障の問題もクリアになるかもしれない。そのようなエコシステムが現実社会で難しければ、メタバース上の世界で新しい経済圏を作る。

先日、大学教授とデジタルアーティストの方と僕の三人で、同じような話題で二時間ほど話していました。自分の場合は数年前から「集団ではなく個としてどうあるか」を働きかたの視点から、自分の身を自分で守ることの重要性を発信してきましたが、そもそもいくら頑張っても、貨幣経済の下で生活することに変わりなく、お金を稼いでも、お金に支配される状態に変わりはないかもしれない。であれば、稼ぐのではなく、価値交換に主軸を置き、貯めるのではなく、回すという循環型モデルの方が良いかもしれない。そう思うようになってきました。

いずれにしても、場所を変えて仕事をすると、新たな気づきを得ることができますね。

今日の記事ではとりとめのない話をつらつらと書いてしまい、だから言いたいことは?と聞かれると答えに窮すのですが、今後、この自律分散というテーマをもう少し地域経済に絞って考えてみたいと思います。

静岡・山梨グルメと富士登山競走の原点

4/16 – 18 まで、チャレンジ富士五湖ウルトラマラソン 4lakes 100kmの部に出場するため、静岡から山梨県を巡りました。チャレ富士は2年半ぶりの出場。前回大会は2019年10月。その時は12時間30分でゴールしたのですが、今回は諸々のトラブルのため70kmでDNFという残念な結果に。ただ、僕としては悔しいというより、今のコンディションで70kmも走れたことが嬉しかったのです。無理して押すということも出来たのかもしれませんが、先々のことを考えて冷静に撤退しました。

スタート前
記念撮影

今回、今まで経験したことのなかった部位を故障したので、今後のウルトラ対策についてイチから考えなければなりませんが・・・このあたりの攻略法を考えるのも一つの楽しみです。

さて、久しぶりの静岡、山梨ですが、食べたものを備忘録変わりに載せておきたいと思います。

静岡といえば、さわやかのハンバーグですよね。

浜松出張の際は必ず寄っていた「さわやか」。今回、新富士ICの近くにお店があるということで行ってきました。げんこつバーグ、やっぱりここでしか味わえない肉々しさとオニオンソースの組み合わせが最高でした。

その後、白糸の滝を経由し、

朝霧高原から富士山を眺め、

夜はおなじみの不動ほうとうでカーボローディング。
山梨といえばほうとうを食べずには帰れませんね。

レース翌日の帰路の途中では、あの過酷な山岳レース「富士登山競走」で有名な北口本宮冨士浅間神社にある、富士吉田ルート登山道の始点に立ち寄りました。正確にいうと、「ここがあの有名な富士登山競走の場所だったんだ」と、後から分かったのです。なんとラッキーな。

現代ではレースになっていますが、大昔から富士講を中心とした修験道の始点だった場所だそうです。ここから行者さんは命賭けで富士山山頂を目指されたんですね。

解説を読んだり、ガイドさんの説明を聞きながら、ふむふむと勉強させていただきました。歴史の重みを感じる場所でした。まだまだ知らない歴史がいっぱいです。

そして、ランチは、お隣にある浅間茶屋で。
雰囲気抜群の日本家屋で、牛肉入りのほうとうを、ラン友さんにご馳走になりました。

二泊三日の旅、多くの学びを得て帰ってくることができました。
さあ、またイチから鍛え直すぞ。

ご同行のJさん、Mさん、楽しいラントリップをありがとうございました♪