The Mayonnaise Jar and The 2 Beers


ちょうど同じタイミングでまつひろさんのブログ、そして、Gori.meで良い話を見かけたので共有します。下記はGori.meから引用させていただきました。

—<以下、引用>—

毎日が一杯一杯で人生が辛いと感じた時、1日24時間が足りないと感じた時。そんな時は、「マヨネーズ瓶と2本のビール」の話を思い出してもらいたい。

ある哲学の授業で教授はいつくかの物を机の上に並べていた。クラスが始まると、教授は無言で大きなマヨネーズ瓶を手に取り、ゴルフボールを入れていった。生徒にマヨネーズ瓶が満杯かどうかを確認した。生徒たちは同意した。

次に、教授は同じマヨネーズ瓶の中に小石を入れていった。入れられた小石はゴルフボールの間の隙間を埋めていった。教授は再度、生徒たちにマヨネーズ瓶が満杯かどうかを確認した。生徒たちは同意した。

さらに、教授は瓶に砂を入れていった。言うまでもなく、砂は空いている隙間をほぼ完全に埋めた。教授は念のため生徒に満杯であるかを確認した。生徒たちは大きくうなずいた。

最後に、教授はビール2本を開け、瓶の中に注ぎ込んだ。残っていたわずかな隙間はビールによって完全に埋まった。生徒たちは笑った。

生徒たちの笑いが収まったあと、教授は言った。

「この瓶は君たちの人生を表現している。ゴルフボールは君たちにとって最も大事なものだ。例えば家族や子ども、健康や友達、君たちが最も情熱を感じていること。仮に君たちが大事なもの以外をすべて失ったとしても、君たちの人生は “一杯” なのだ。小石は君たちが次に考慮すべきこと。仕事とか、家とか、車とか。砂はそれ以外の小さなこと。」

教授は続けた。

「もし砂を先に瓶の中に入れてしまうと、ゴルフボールと小石を入れる場所がなくなる。人生も同じことだ。

小さなことに時間や労力を費やしてしまうと、本当に大切なことを手に入れることができない。

君たちが幸せであるために必要なものを意識しなさい。

子どもと一緒にいる時間を取りなさい。親と一緒にいる時間を取りなさい。祖父母に会いに行きなさい。奥さんをディナーに連れて行ってあげなさい。また18ホールプレイしてきなさい。家の掃除や芝生刈りをする時間はいつでもある。

まずはゴルフボール、つまり君たちにとって最も大事なものを優先しなさい。優先順位をつけなさい。他は単なる砂なのだから。」

すると、とある生徒が手を挙げてビールの意味について質問した。教授はニコッと笑い、こう答えた。

「質問してくれてありがとう。ビールはどれだけ人生が一杯一杯になったとしても、友達とビールを飲むぐらいの余裕はいつもあるということだよ。」

— —

Colorado State University のサイトには原文が掲載されていました。
こちらもよければどうぞ。

for the moment

雑記をダラダラと。


どこにでも、ご当地の名物人がいるもの。
今日mashableで見かけた記事。

10 People You’ll Only See in New York City

最後の一人が、Obviously(言うまでもなく)な、Woody Alenというところに噴きました。そりゃそうだ。NYC良い街ですね。


たまにはTVでも見ないと心が豊かにならないという話。
普段はTVをほとんど見ない生活。しかし今夜、たまたま見たドラマで良いシーンがありました。なくなった人形がどこに行ったのかを聞かれ、

「今ね、どこかに散歩に出掛けているんです。たまにいなくなるんですが、いつの間にか戻ってくるんですよ。だから気にせず待っているんです。」

と。いいセリフだな。
優しくなければ出てこない言葉。柔らかい。
たまには心が豊かになるものを取り入れないとな、と反省。あと、何も考えずにぼーっとする時間も。


Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever.
「永遠に生きるかのように学び、明日死ぬかのように生きなさい」

とは、ガンジーの有名な格言ですが、明日死ぬかのように必死に生きるあまり、刹那的な生き方になってしまう恐れがあるのもまた事実。最近、反省しています。先ほどの優しいセリフじゃないですが、秒速の時間の流れの中では、立ち止まって先のことをゆっくり考えたり、長い尺で物事を見ることが少なくなってしまう。高効率、スピード、即決。遊ぶ時は倒れるまで遊び、飲む時は意識を失うまで飲む。何事も白か黒かで、中間色が存在しないような、そんな毎日を送っている気がします。「立ち止まって」とか「自分らしく」とか、作り笑いで自己肯定を良しとするような風潮はかなり苦手(嫌いとは言わないが)ですが、やはり少しは「黙考」する時間がないと毎日全力疾走のような気がして大切なものを見失ってしまいそうになりますね。気をつけよう。


明日は今日よりも体調が回復していますように。

全てのPVが映画のワンシーン。
Stylish、Elegance過ぎて笑ってしまうくらいのNicola Conteを久しぶりに聴いています。

Nicola Conte – Kind of sunshine

I must be a bookworm.


職場のデスクにも自宅のデスクにも、溜まりに溜まった本の山。
仕事関連本、自身の学び関連本。どれもそこそこのボリュームがあるものばかり。移動中に読むためにカバンに入れている本はA5サイズ300ページ以上の教科書のようなモノだし、今日のセミナーでもらった日経BPリーダーズの本(これは比較的サクッといける)とPLMの専門書もそこそこのページ数。うーん、なかなか追い着かない。

基本的に、一日で読書(あるいは勉強)できる時間というのは限られています。目一杯、時間が取れたとして、通勤の往復30分、ランチの時間30分、帰宅後23時〜2時までの3時間。一日合計4時間程度。内容の軽いものであれば4時間あれば一冊や二冊十分読めるのだけど、線を引いたり、引用箇所をメモしたりコピーしたり、前のページの図を振り返って参照したり・・・となると、下手すると1ページ10分くらいかかるものもあります。

もちろん、速読をすれば冊数は稼げますが、速読で済むものと済まないものとがありますよね。何に重きを置いているかにも寄りますが、僕の場合、小説や自己啓発系は速読でOK。こういう種類の読み物であれば一日に数冊読めてしまいます。しかし、今、手元にあるのは全て速読の不可のヘビー級ばかり。プレッシャーです。笑


しかし、いかにも読書は楽しいものですね。
かのミヒャエル・エンデもこのように語っています。

「同じ本を二人の人間が読むとすると、そこで読まれるものは、決して同じではありません。それぞれが、本のなかに自分を連れ込むからです。自分の連想、自分の思考、自分の経験、自分の感受性、それらすべてを投入して読む。だから本はいつも、ある意味では読者を映す鏡です。」
〜『エンデと語る』〜

物語や小説でなくても、本は読者を映す鏡になり得ます。
例えば、ある分野の専門書について言えば(仮に経済学書にしましょう)、書かれている内容を自身があらかじめ持っていた知識や、スーパーでの買い物のシーン、ビジネスシーンでの実体験などと、無意識のうちに照らし合わせながら読む(あるいは学ぶ)ので、目から脳に入る情報は「自分のフィルターを通して咀嚼し、消化したもの(学んだもの)」とすることができます。同じ本を読んでいても「ストライクゾーン」が人によって違うのはそういうことですよね。

同じように、読書や学びを「楽しい」と思うか「義務」と思うか、意識の違いで大きく取り組みも変わります。幸い、僕は今のところbookworm(本の虫)のようなので、本当に楽しむことができています(タイトルのmust beはちょっと違いましたね)。この気持ちをなんとか維持継続して行きたいものです。

さて、そろそろ寝る時間。
気づけば10月も最終日ですね。

それでは、皆様また明日もがんばりましょう。
Be a bookworm!

日常・非日常


突然の大雨。
ちょうど帰宅したところで難は逃れたのですが、びっくりしました。最近、こういったゲリラ豪雨が本当に多いような気がします。
0時半頃、どうしても物を書くための大学ノートが欲しくなって、車を飛ばして近所のコンビニに行った時が豪雨のピーク。ワイパーが効かない程です。駆け込んだ店の店員さんも外の様子が良く分かっているのか、ノート二冊を袋に入れて、雨に濡れないようにきっちり折りたたみ、さらにその上からコンビニ袋を重ねてくれました。「出す時も気をつけてくださいね」って、良く出来た店員さんです。なぜか大雨の真夜中に車で大学ノートを買いに来る不思議な客にも臨機応変に対応してくれて。こういう気遣いがありがたいですね。


平日に車に乗るということが全くないものですから、ちょっとそこまで買い物に車で出ただけで「非日常感」を味わうことができます(安っ)。良い気分転換になりますね。また、深夜は仕事のメールチェックをしながら、仕事とは全然関係のない分野の本を読んだり勉強したり。これも良い気分転換になり、とても楽しくて、気付くと大変な時間になっていたりするのです。スイッチの切り替えは、意識して点けたり切ったりするのではなく、「何か全く違うことをする」ということで出来るのかも知れませんね。そして、その中からボトルネックだった問題の良いソリューションが見つかったりするのです。

さて、明日は良い天気になるのでしょうか。
また一日、がんばりましょう。