少しの+αが嬉しかったりする


少しバックデートします。

先週の金曜日の夜、近所にある馴染みのBARで〆の一杯をと思いドアを開けるとお客さんが一人もいませんでした。それもそのはず。時間は閉店間際の午前2時前。

女性マスターのYさんに「一杯だけ大丈夫ですか?」と聞くと、ええ、もちろんと、カウンターに座らせていただきました。先週、角瓶の復刻版を飲まなかったことを少し後悔していたのでリベンジしたかったのです。

瓶の底に溜まる最後の一杯を、サービスしますね、とすべてグラスに注ぎ入れてくださいました。たまに瓶が空くタイミングに居合わせることがありますが、小さな幸せを感じます。

味は聞いていたほど雑さはなく、角の深い味わいを感じることができて美味しく飲むことができました。落ち着いた時間の中、静かに飲む復刻版の角。更けていく時間の過ごし方としては最高の時間でした。


月末の月曜日。今週もスタートしました。

朝の会議に始まり、ジェットコースターに乗った気分で時間に追われつつ仕事を進めていると夜に頭痛が。最近ほんと疲れやすい。山を歩いたり、走ったり、図書館に行ったりしている時は疲れないのに。

仕事が嫌い?

いや、そうではない、むしろ仕事は好き。ではなぜ・・・と自問自答していると、一つ分かったことがあります。

何かに追われるのが嫌い
縛られるのが嫌い
好きなことを能動的にしていたい

なーんだ、ただのワガママでした。

いやはや、生まれながらの自由人やなあ、という訳で、今日も一日お疲れ様でした。

「何もしない」ということをする


気力がない時に無理やり何かをすることは、泥の中をもがくようなもので、なけなしの気力と体力だけを無駄に浪費して空回りをするようなものです。

そういう時は、漕いでいる自転車のペダルから足を離すように惰性に身を任せてみるというのが正解なのだと思いますが、僕の場合は、何をそぎ落としても、アイロンと靴磨きと片付けだけはやってしまいます。ある意味「何もしない」というレベルにこれだけは入ってしまうのです。空を見つめてアイロンをしている姿もシュールなものです。

自分が頑張らなくても、世界は回る。

今日もどこかでものすごい技術が生まれたり、国家予算レベルの額のディールが成立したり、スーパーハイテンションな人々や組織が寝ずに動いていたりして、世界を回しています。スロバキアのAeroMobil社が空飛ぶ自動車を2017年に発売予定と発表したり、Boeing社が電磁バリアの特許を取ったりする訳です。

村上春樹さんも「人口全体の5パーセントが本当の本好きであれば、世の中はなんとかなっていくものです」と言っておられますが、まあ世界ってそういうものなんだろうと思います。

だから極東の一国の地方都市の片隅でボーっとアイロンを掛けている男がいたとしても、何でもないのですよね。時々、そういう考え方をしてしまいます。

そう、何をどうしたとしても、何でもないことなのですよね。

戻れる場所があるという幸せ


いくら忙しくても、戻れる場所があるという幸せ。
それは自分だけの時間です。根暗かもしれないけれど、そういうものだとも思います。

お気に入りのスタバで仕事から離れ、自分が知りたい、学びたいことだけを思う存分に行る時間と場所。一日に何杯飲むか分からないくらい飲んでるコーヒーだけれど、それでも美味しく感じられる場所と時間の過ごし方。それが週に一度のスパイスオブライフです。

こんな回りくどいことをしなければ精神衛生を保てないという器量の小ささに辟易しつつも、それすら受け入れ、また明日から実生産の作業に向かう準備が整うのであれば、それもまた、良しです。

良かった記憶は残し、悪い記憶をデリートすることの意味


人間って、本来は「失敗」によって学ぶ生き物です。嬉しかったこと、楽しかったことよりも、辛かったことや、失敗してひどく落ち込んだことの方が、記憶に鮮明に残るといいます。

そう考えると、今日の記事タイトルは逆に「悪かったことは残し、良かったことはデリートする」の方が正しいのかもしれませんが、僕はそこまでストイックに自分を追い込むことができないので(心身共に疲弊してしまう)、素直に良かったことだけを覚えておくようにしています。悪かったことや失敗は、どのみち自分の意思に関係なく人間の生理現象として、深く脳の記憶に刻まれるのですから。


TVで「京都マラソン」の番組をやっていました。

その中で、出場している人に「なんで走るんですか?」と問いかけることによって、走ることの意義、ランナー心理、マラソンの魅力を浮き彫りにしようという企画がありました。僕もランナーの端くれですので、芸能人から一般の人までマラソンの魅力に取り憑かれたランナーの言葉は心底理解できます。

その内のある一人のランナーは、走る理由について「脳がスッキリするから」と答えていました。そう、まさに日頃ランニングしている理由の一つがこれ、「脳のデフラグ」なんです。

海を見ながら走りつつ今週を振り返る。
良かったことと悪かったことの切り分けを行い、フォルダに整理します。悪かったこと、嫌だったことはゴミ箱フォルダに直行ですが、今後の反省のためにメモ帳に書き残して随時参照できるように保存します。出来るだけ良かったことだけを考えて気持ち良く走るようにしています。

今日は曇天でしたが、そんな感じで10Kmを楽しむことができました。

「焦り」は人を動かす


今年のテーマである「常にONで常にOFF」が、早々に機能しなくなってしまっているようです。

いつもそういう訳ではないのですが、心身共に重たく、まるで錆びついた数十年前の車のエンジンを無理やり回転させて走っているような、そんな時があります。

仕事でお会いする方々の中には、それはまあ、素晴らしく成功されている方も少なくなく、自分があのレベルに到達するには今何をしなければならないのか、何をどうすればあのようになれるのかをよく考えます。そして、そういう方々に共通するのは、とにかくパワフルであるということ!僕よりずっと年上なのに、人生を、遊びも仕事も全て精力的に楽しんでおられるんですよね。40歳手前の僕が「重たい」などと言っていると、そりゃ成功しませんわ(笑)

人は生まれながらに平等に「一日24時間」が与えられている訳ですから、単純に考えると、その「時間の使い方」によって差が生まれるのだと思います。しかし無情にも今の年齢を考えると、既に大きな差がついてしまっている事は事実で、この先、無限に時間が残されている訳でもなく、意外に元気で働ける時間は短く、残り時間を考えると今がんばらなければ!と奮い立たされます。

そう「焦り」。

焦りは人を動かしますね。これから無気力症候群に陥りかけた時は「焦る」。そうすることで、お金も掛けずに身体が動くようになりそうです。

目標とタスクとモチベーションについて


今年の初レース「武庫川新春ロードレース大会」(ハーフマラソン)を明日に控え、今日は好天の中、筋肉を解すべくゆっくり軽めのジョギングを7km。

走っている最中に、この連休の予定を色々と頭の中で思い巡らします。連休と言っても、単に会社に行かないだけで、普通に仕事はするし、別の会社の方も見なきゃいけないし、勉強もしなきゃいけない。いつからこんなにたくさんのタスクを抱えるようになったのだろうか、と、走りながら考えていました。

例えば、10年前は今より体力はあったはずだし、時間もあっただろう。でも明らかに今の方が抱えているものが多い。これは成長と言うのか、自己実現に近づいている証拠と言えるのか。それとも、年相応に増えていく類のものなのか。その辺の切り分けや分析が未だ出来ていない自分がいます。

明日死ぬかのように生きろ。永劫永らえるかのように学べ。
“Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever.”

今が一番若いんだから、何かを始めるのに遅すぎるということはない。

などなど、いわゆる年齢をものともしないで常に前向きにチャレンジしていくという、人生を通じての壮大なテーマとなるような思いと、「ある程度ここまでは行きたいよね」という非常に現実的で目先の目標を見ている自分、そして、今、まさに現実の自分。それぞれの乖離と自己満足、納得の閾値。到達するまでにまだ距離があるから、本能的に上昇と成長を志向するのが人間なのでしょうね。

例えば、一番分かりやすい例として「経済力」を一つの指標として考えてみます。

公平なのか不公平なのか、世の中には人一倍真面目に、一生懸命に、長時間に仕事をしても生活が豊かにならない人もいますし、一方で、富を効率的にどんどん増やしていく人たちもいます。(2014/12/28の記事:「経済格差が埋まらない原因について、恐らく今もっとも説得力がある理論」)

あくまで「経済力」を、その人の目指すべきゴールとした場合(やりがい、自己満足、夢、責任などは別物とする)、正しいゴールは「経済力があって金持ちである」ということであるので、それを目指していてもそうならないのは「何かが間違っている」ということができます。

何が間違っているのか、どうすれば良いのか、軌道修正は可能なのか。そのようなトライ・アンド・エラーを繰り返すのは当然ですが、それをいつまで続けるのか、という点が問題になります。期限を設けなければ、人は疲れてしまいます。疲れてしまうと、諦めてしまい、自分を無理やり納得させるような自己啓発や自己暗示で誤魔化したり、環境のせいにしたりするようになります。こうなると、ゴールからは遠ざかるばかりです。

上のケースは「経済力」を例にしましたが、生きていると色んなことがあります。時に様々な視点が入り乱れて疲れることもあったり、タスクの多さに目眩を感じたりすることがありますが、まあ、年々しなければならないことが増えていて(しかもそれが実になるようなことばかりで)、かつ、自分で選択して楽しく取り組むことが出来ているというのは、とても幸せなことなのだろうとの結論に至りました。まあ、僕の場合は目先の目標にすら到達出来ていないので、とにかく期限を決めて取り組むのみです。

それにしても、走りながら考えていることって、文章化しにくいですね(笑

ぎっちぎちでも良い。今が一番若いのだから。


師走です。

月が変わっただけでこの忙しなさ。一日で何度も頭を切り替えなくてはなりません。そのようなフェーズに入ると、物事を出来るだけシンプルに考えたり(要するに省エネ運行ですね)、無理したら良くないから程々にしておこう等、思考が守りに入ることがあります。しかしそんな折に思い出すのは母親のこの言葉(バリバリに元気で健在ですが)。

「今が一番若いんやから」

これね、短い言葉だけど恐ろしく真理ですよ。だって確かに「今」「この瞬間」が、生きている中で一番若いのです。人間は過去に戻ることはできませんから、本当にそうですよね。良く「もう若くはないんやから」という言葉も聞きますけれど、いやいや、あなた。今その瞬間が、あなたが生きている中で一番若いんですよ、ということです。そう考えると、一分一秒無駄には出来ないなと思いますよね。

ゆったり?無理せず?自分らしく?

なにそれ。どうせそのうちポックリ死ぬんだから、
ヌルいことは言わずに走れるうちは走っとけ!

って言われているような気がします。


疲れた時に元気が出る画像は幾つかありますが、その中でもトップ3に入るのが「インドの列の並び方」です(画像はらばQから転載)。何の疑問もなく、横入りを防ぐためだけにギチギチに並ぶインドの人たち。人口が多いとこうなるのだなあ。環境ってすごい。

更にパワーアップした版。
運動会の種目のようだ。

ギチギチでもいい。
とにかく、流されつつ進もう。

ウサギとカメの二択であれば、カメを選択すべき理由について


今日は新幹線の中で更新。

当社は毎年社員旅行があります。

旅行積立は毎月3,000円。基本的に旅費は会社と従業員で半額づつを負担。旅行先によっては過剰積立が発生し満了月で超過分のキャッシュバックがあります。毎月積立か一括払いかは個人の選択に委ねられているのですが、僕は毎月積立を選択しているので、今回は15,000円のキャッシュバックがありました。これがね、小さい話ですが嬉しいのですよ。現地でのゴルフ代に充当できるし。


ウサギとカメの話があります。

僕は毎月コツコツと定額を貯蓄する方を選択したからこそ、小さな喜びを手にすることが出来た。これを一括払いにしていると、「はい、3万円徴収でーす」と総務から声が掛かった時に「重たいなー」となる訳ですね。キャッシュバックという臨時ボーナスもゲットできない。大きなことをするには体力がいるけれども、小さなことを積み重ねることは誰でもできます。

これは仕事でも同じだと思います。

スティーブ・ジョブズがスタンフォード大学の卒業式で残した言葉のとおり「好きなことを仕事」にして成功できれば最高の人生だけれども、一体どれだけの人がそうすることが出来るでしょうか。ほとんどの人は今出来ることをコツコツと続けながら、その仕事を好きになるか、その中で得意分野を見つけて伸ばしていくかしかありません。

ICHIROYAさんのブログに「好きだから上手くやれる」のではなく「上手くやれるから好きになる」というエントリーがあり、大変共感しました。

ICHIROYAさんは、「「好きなこと(パッション)」を探すのではなく、さまざまなことをとにかくやってみて、「上手にできそうなこと」を探すことが、与えられた人生をもっとも楽しく生きるコツになるのではないかと思う。」と書いています。逆に言うと、探さなければ見つからない。何かが急に降りてくるようなものでもありません。


よく成功者の言葉として「自分の人生に後悔はない」「諦めずにやることが成功の秘訣」というのがあるけれど、斜に構えた見方をすると「それは、あなたが(結果として)成功者だから」です。成功を何とするかはそれぞれ異なりますが、「成功」というのはごく個人的な体験でしかない。だから、すでに成功している人の言葉は、個人として色々試した結果、成功したのであって、万人に共通する手法ではない。

例えば、毎年、プロ野球選手が何百人とクビになりますよね。プロ契約出来ただけで「好きなことを仕事に出来た」無数の野球人のヒエラルキーの頂点です。しかしそんな素質を持った彼らでさえ、毎年、色んな理由でクビになるというのは、彼らが「諦めた」からなのでしょうか。いや、そうではないはずです。限界までがんばったけれども、それ以上に野球を上手になることが出来なかっただけです。成功するまで諦めないというのは難しいことですね。

宝くじに当たって億万長者になるか、東証の鐘を華々しく鳴らすことができる起業家になれるかで言うと、確率はほぼ同じです。有名な社長や起業家、投資家として億万長者になる人間は、本当にごく一部です。宝くじとの違いは、本人の努力(運やタイミングも含む)次第でどうにでもなるという点でしょう。

では、圧倒的大多数の凡人は何が出来るでしょうか。

それぞれのゴールイメージによって異なりますが、今できることをコツコツと積み上げることしかないのですね。先にも述べたとおり、誰にでも出来る唯一のことは、努力と継続です。うまく行けば、その中でポンと飛び出ることができるかもしれない。それを手中にする人はラッキーな人。極論ですけれど、そいういことのような気がします。とにかく、今出来ることをコツコツと続けよう。

今回の積立の件はとても小さいことだけれど、色々と学ばされることがありました。

賛否両論あるけれど、それでも「がんばる」という気持ちを応援したい


仕事から帰宅してすぐに見始めた今夜の男子フィギュア。

羽生選手と中国のエンカン選手が6分間練習中に激突したアクシデントをリアルタイムで見た。両者共、絶対に棄権すべきだろうという状況を乗り越えて最後まで滑り終えた。僕は今夜の大会を見ながら涙した。

この件については、賛否両論あると思う。

一つは、かなりの衝撃で頭部を打撲しているし、自分では歩けないほど足も痛めている状態で、今後の事を考えプロのアスリートとして絶対安静を優先すべきだし、コーチも周りも滑らさないで棄権させるべきだという意見。そして、もう一つは、羽生選手の体を心配しつつ祈りながら、彼の意思を尊重するという意見。

僕は後者の意見に与する。
もちろん激突した直後と治療を終えて真っ青な顔で練習を滑り出し始めた時、「長いシーズンが始まったばかり、流血もしてるし脳震とうも怖い。足も大変なことになっているのではないのか?ここは絶対に無理せず、棄権してほしい」と思った。

でも。
周りが何と言おうと羽生選手は絶対に滑る決意だったのだと思う。コーチは絶対に棄権を進めたはず。周りの大人も絶対にそう言ったはずだ。

でも、最後は羽生選手の意思に任せた。緊張感で痛みを感じないというのも分かるけれど、自分のコンディションは自分が一番良く知っているし、大げさに言うと生死についてもそうだろうし、何よりも、それが彼自身の生き様であり美学であり、絶対に譲れないポリシーなんだろう。それでもし競技人生が終わったとしても、後悔はしないという絶対的な気持ちでもって一試合、一試合を戦っている。彼のように強靭な精神と不屈の気持ちとストイックさを持つアスリートは、常にこれが最後の試合だと思って挑んでいるのだろう。


スポーツが素晴らしいなと思うのは、今夜の羽生選手やエンカン選手のようなプロアスリートでなくても、名も無き一般市民でも必死にゴールや勝利を目指すことにあると思う。みんな、己と戦い続けているのだ。

僕も市民ランナーとしてマラソン大会に何度も出場しているけれど、もうこれ以上無理、足が動かない、歩いても痛む、痙攣が止まらないなどの状態を毎度経験している。それでも、必死で半泣きになりながらゴールを目指す。実際、名も無き市民ランナー達も、足を引きずりながらゴールし、倒れこむ人たちを何人も見てきた。ゴールした後に泣いている人もいる。みな、それぞれの事情とポリシーと美学の中だけで生きている。誰かに走れと言われている訳でもない。死ぬくらいやれと言われている訳でもない。でも、みな、明日がなくてもいいから、やるのだ。

賛否両論あると思うけれど、僕は、やはり、そういう人間でい続けたいと思っているし、そういう人達を応援したいと思っている。

今日のキーワード(どうでもいい話)


器用と貧乏は、紙一重

欲張りと貧乏も、紙一重

マルチタスクほど深堀りできないものはない。
つまり、何をどうしても浅くて薄いのだ。

人間に与えられた時間は24時間。
何かをしようとすると、何かが犠牲になるというトレードオフ。

深堀りしようとする人は、アンビバレンスに身を投じようとする性質があり、
そういう人は大抵がアル中だ。


海と空が繋がりそうな曇天。

空がどんどん地表との距離を縮めると、大気の天井は低くなり、空気も薄くなり、地上で生きる生物は屈むことを余儀なくされ、四つん這いになり、腹ばいになり、最終的には海に帰って生活するようになる。それが、実は人類にとっては良いことなのかもしれない。空が高いから、殺し合ったり、権力を誇示し合ったり、宇宙に出ようとしたりするのだよ。

テクノロジーオリエンテッドな仕事をしているけど、目の前で起きている事象を評価する時と、選択を迫られた時は、僕は常にアナログ目線で行きます。つまり、生と死、生存に必要かどうか、です。