ブログを書き続けて10年が過ぎ、11年目に入りました


毎年6月は本ブログの誕生月。
この時期には、この一年と今まで積み上げてきた年月の振り返りをすることが多くなります。

一回目の記事を投稿した2005年6月10日、当時僕は29歳、長女は生後6ヶ月の赤ちゃんでした。あれから書き続けて丸10年が経過し、11年目に入りました。長女の年齢とブログの年齢がほぼ同じなので覚えやすいですね。小学生でいうと5年生。娘もブログも大きくなったなあ、としみじみ実感します。


ブログを書く目的と、書き続けてよかったなと思うことは年月を経てもあまり変わりません。一年前に書いた記事を読むと、ブログを書く目的について上手にまとめていることに気づきました。幾つか文章を抜粋しながら、リライトしてみます。

書く内容は年齢によって変化しているようです。仕事の領域も行動する範囲も随分と広くなったと思いますが(一年に4回もアメリカと日本を往復するなんて10年前は考えられなかった)、変に「こなれた感」と「くたびれ感」があり、昔の勢いや、尖った気持ちや、若さゆえの「無敵感」などは最近全く衰えてしまいました。たまに昔のエントリーを読み返すこともありますが、アツ苦しい事を書いていたりするのを見ると、ああ、もっと頑張らないとな、もっと攻めていかないとなと思うことも多いです。

僕にとってブログを書くことは、一日一日を丁寧に塗りつぶすこと。

時間に流されたり、目先の事に追われて、ただ漫然と日々を過ごすということだけは避けたくて、一日一日を丁寧に塗りつぶすということだけはずっと意識しています。その他の目的は、備忘録であったり、反省であったり、ニュースのレビューであったり。

その日に何を感じ、何を考えたのか。それを記録として残すこと、そして書くことによって考えを整理すること。聞いたことや学んだことをアウトプットすることで、インプットした情報がメモリーされるので、書いたことは良く覚えています。そう考えると、少なくとも、書くことによる悪い影響はなかったかな。出来る限り毎日書くことを自分にコミットすると、常にインプットを意識することになります。インプットした情報を頭の中で整理して、書く。この作業が習慣化しているので、伝える、書くということに抵抗はありません。

「習慣化」というのは、自分の中で大きなキーワードです。特別なスキルも才能も持たない人間にとっては「コツコツと積み上げること」が唯一成長するための手段だと思いますし、そのためには習慣化することが必要です。でも実際「言うは易し、行うは難し」で、習慣化するのって結構大変だったりします。まず面倒くさい。仕事や学校ならまだしも、人から「やれ」とも言われていないことを、自分で勝手に決めて行うことに何の意味があるのか。しかも、ほぼ独り言。面倒くさいなー思うことも多々ありました。

そのハードルを乗り越えるためには「その事を好きになる」ことが一番早いですよね。好きになれば勝手にやる。これは仕事も同じで、やっていることを好きになると(ジョブズは「好きなことを仕事にしなさい」と言っていますが)、人間って勝手に動くものです。義務命令ではなく、能動的かつ積極的に動く。そういうものだと思って、今まで続いています。

自分が始めた当初は、ちょうどブログが流行り始めた頃で、みんながFC2やアメブロやライブドアブログなどで書き始めていた頃です。今はその中の何割の人が残っているのか分かりませんし、無料ブログ=アフィリエイトという要素が強いので、拙ブログのような何の利益も生まない(むしろドメインやサーバ代などで赤字)、本当の意味でのプライベートブログは段々と数が減ってきて、SNSのタイムラインに移行している訳ですが、これから益々「個の時代」が加速すると、特定の企業が提供するSNSプラットフォームではなく、独立したプライベートサイトやプライベートブログが、逆にどんどん増えてくるような気もしています。
 
そのように時代が変わったり、流行り廃れがあるかもしれませんが、いずれにしても、僕はここで、これからも何かを書いていくつもりです。

という訳で長くなってしまいましたが、11年目に入った「analog-web」。
これからも、ゆるくお付き合いくださいませ。

技術が進歩しても、人間そのものはそんなに変わらない


崎陽軒のシウマイ弁当はどうもシウマイの数が多くて、僕のような変化球を投げたがる人間にとってはむしろ唐揚げと炒飯が入った「炒飯弁当」が良い。

四日間の東京出張を終えて新幹線に乗って帰る時に思うことは、技術が進歩したとしても、人間そのものは大して変わらないだろうなということです。

例えば30年後の2045年にリニアが開通して、70歳になった僕が東京から帰る時にリニアを使ったとしても、やっぱり崎陽軒の弁当を食べながらビールやハイボールを飲むという構図は変わらないと思うのです。

世の中はますます便利になり、経済構造も変わっていくでしょう。でも、人間そのものや文化はそんなに変わらない。その証拠に、100年、200年前の絵画や音楽や文学を今でも普通に見聞きしている訳だし、もっと言うと、2000年前に起こったキリストの生涯を聖書を読んで学び、ブッダの教えを仏教として信心している訳です。衣食住も、そんなに大きく変わっていないと思うんですよね。

展示会では、色んな企業がこぞって新技術や新サービスを披露します。当然のことです。でも、実はそんなに変わっていないとも思います。

大切なのは、きっと「思い」です。

どうせなら何かを生み出そう


「仕事」という言葉を定義する時に、よく前提条件として「受」か「能」かのどちらかに分類されます。

通常、仕事の多くは物理的には「受」のものがほとんどです。リクエスト、リクワイアメント、レギュレーションがあらかじめ定められており、それには大抵「納期」というものがあり、それらが重なってくると否応なしに生産性を上げなければなりません。精神的には「追われる」「忙しい」という状態になります。とにかく処理能力を向上させ、効率的に品質を保ちながら生産しなければなりません。当たり前のことです。

しかし、それが果たして良いことなのかどうか、未来に繋がるかどうかという点については疑問符がつきます。仕事=処理=生産性ということであれば、そこにクリエイティビティ(創造性)が存在する余地は極めて小さくなるから。それが受動的か能動的かと分類されるのであれば、処理は「受」で、クリエイティブは「能」と言えるかもしれません。仕事に取り組む時、創造性を意識しながら行わなければ、それは単なる作業で終わってしまいます。

とはいえ、その中でもクリエイティビティを意識することはできる。どんな仕事でも「工夫とアイデアと創造性」を持つことはできますよね。ちょっとした工夫。プラスアルファの提案。一歩踏み込んだテクノロジー。僕も常にそういうことを意識しようとは思いつつ、なかなかそうはできないのが反省点です。常にクリエイティビティを意識しながら取り組めば、「羽のない風力発電機」も発明できちゃうんですよね。

未来の風力発電機には「羽がない」(Wired.jp)

どうせ一日に10時間以上仕事をするのであれば、その中から何かを生み出さなければもったいない。そう思っています。

美人薄命


敬愛するwhitney houstonが亡くなったのは、2012年2月11日。
美人薄命、天才短命というのはまさにその通りで、今夜もBARでビジネスモデルを思考している時に思うのは、天才は受け入れられないということ。仮に受け入れられたとしても、本人が苦労するだけ。僕も願わくば天才でありたいと思うのだけど、薄命ではどうか思う辺り、小物感を否めません。

その証拠に結露した白州のグラスがいいと思っているくらいなんですから。

Whitney Houston – Exhale

飛んで行きそうなものに紐を結びつけておくような感覚


昨夜地元で飲んでいる時に、何かがきっかけで誕生日の話になり、そういえば自分は「辰年、水瓶座、ペガサス」という属性の持ち主であることを思い出しました。

もちろん生年月日がその人の性格や人生に何かの影響を及ぼすというのは非科学的だとは思うし、そちらの世界には興味がないのですが、たまに社会で生きていくことに窮屈さを感じるような時に、ああ自分はもしかすると架空の生き物なのかもしれないと考えると、気が楽になる時があります。

とにかく自由が大好きで、束縛や制限が嫌いで、浮世離れしていることばかり考えているような性格ですから、社会や組織に適合するかしないかで言えば「しないタイプ」だと思います。しかしそうは言っても生きて行かなくてはなりませんので、どこかで折り合いを付けながらやっていくしかありませんね。

ちょっと目を離すとどこかに飛んで行ってしまいそうになる自分を御するのは案外大変なものです。だから今日のように週の半ばに休みがあると(たとえ家で仕事をしていたとしても)、かなり助かります。

今週あった楽しかった出来事を色々と回想しながらの休日は、娘の授業参観に、大掃除のゴミ捨てに、仕事に、コーヒーに、忙しくも充実した一日でした。

GW前の残り二日、仕事をちゃんと納めることができるか、明日からまたタイムアタックです。

帰巣本能と弾性


季節柄、タスク山積にも関わらず飲みの機会が多くて嬉しい悲鳴を上げている今日この頃です。

さて、飲みに行くといつも思うのですが(今夜もそうでしたが)、酒のメリットをあげるとすれば、それは「戻ってくる力」ということができると思います。上手に言えませんが、帰巣本能と同時に働く弾性とでも言いましょうか。

飲んでいる最中は緩む。緩んでいる内は身を任せるが帰巣している間、つまり帰途につく間には、その緩んだ「遊び」の部分を必死で戻そうとする弾性が働きます。この弾性が働いている時の思考が、まったく馬鹿にできないんです。

帰巣も弾性も、基本的にとてもプリミティブな働きですよね。ですから余分なものが一切ない、とても純粋な思考が働きます。普段は色んなしがらみや事情や都合が前に来て隠れがちな考えも、必要のないベールが一切排除される訳ですから、その瞬間に考えていることはとても純度が高く、根源的な考え方だったりします。これを大事に出来るかどうかですね。

酒を飲むメリットはこんなところにあるように思います。

少しの+αが嬉しかったりする


少しバックデートします。

先週の金曜日の夜、近所にある馴染みのBARで〆の一杯をと思いドアを開けるとお客さんが一人もいませんでした。それもそのはず。時間は閉店間際の午前2時前。

女性マスターのYさんに「一杯だけ大丈夫ですか?」と聞くと、ええ、もちろんと、カウンターに座らせていただきました。先週、角瓶の復刻版を飲まなかったことを少し後悔していたのでリベンジしたかったのです。

瓶の底に溜まる最後の一杯を、サービスしますね、とすべてグラスに注ぎ入れてくださいました。たまに瓶が空くタイミングに居合わせることがありますが、小さな幸せを感じます。

味は聞いていたほど雑さはなく、角の深い味わいを感じることができて美味しく飲むことができました。落ち着いた時間の中、静かに飲む復刻版の角。更けていく時間の過ごし方としては最高の時間でした。


月末の月曜日。今週もスタートしました。

朝の会議に始まり、ジェットコースターに乗った気分で時間に追われつつ仕事を進めていると夜に頭痛が。最近ほんと疲れやすい。山を歩いたり、走ったり、図書館に行ったりしている時は疲れないのに。

仕事が嫌い?

いや、そうではない、むしろ仕事は好き。ではなぜ・・・と自問自答していると、一つ分かったことがあります。

何かに追われるのが嫌い
縛られるのが嫌い
好きなことを能動的にしていたい

なーんだ、ただのワガママでした。

いやはや、生まれながらの自由人やなあ、という訳で、今日も一日お疲れ様でした。

「何もしない」ということをする


気力がない時に無理やり何かをすることは、泥の中をもがくようなもので、なけなしの気力と体力だけを無駄に浪費して空回りをするようなものです。

そういう時は、漕いでいる自転車のペダルから足を離すように惰性に身を任せてみるというのが正解なのだと思いますが、僕の場合は、何をそぎ落としても、アイロンと靴磨きと片付けだけはやってしまいます。ある意味「何もしない」というレベルにこれだけは入ってしまうのです。空を見つめてアイロンをしている姿もシュールなものです。

自分が頑張らなくても、世界は回る。

今日もどこかでものすごい技術が生まれたり、国家予算レベルの額のディールが成立したり、スーパーハイテンションな人々や組織が寝ずに動いていたりして、世界を回しています。スロバキアのAeroMobil社が空飛ぶ自動車を2017年に発売予定と発表したり、Boeing社が電磁バリアの特許を取ったりする訳です。

村上春樹さんも「人口全体の5パーセントが本当の本好きであれば、世の中はなんとかなっていくものです」と言っておられますが、まあ世界ってそういうものなんだろうと思います。

だから極東の一国の地方都市の片隅でボーっとアイロンを掛けている男がいたとしても、何でもないのですよね。時々、そういう考え方をしてしまいます。

そう、何をどうしたとしても、何でもないことなのですよね。

戻れる場所があるという幸せ


いくら忙しくても、戻れる場所があるという幸せ。
それは自分だけの時間です。根暗かもしれないけれど、そういうものだとも思います。

お気に入りのスタバで仕事から離れ、自分が知りたい、学びたいことだけを思う存分に行る時間と場所。一日に何杯飲むか分からないくらい飲んでるコーヒーだけれど、それでも美味しく感じられる場所と時間の過ごし方。それが週に一度のスパイスオブライフです。

こんな回りくどいことをしなければ精神衛生を保てないという器量の小ささに辟易しつつも、それすら受け入れ、また明日から実生産の作業に向かう準備が整うのであれば、それもまた、良しです。

良かった記憶は残し、悪い記憶をデリートすることの意味


人間って、本来は「失敗」によって学ぶ生き物です。嬉しかったこと、楽しかったことよりも、辛かったことや、失敗してひどく落ち込んだことの方が、記憶に鮮明に残るといいます。

そう考えると、今日の記事タイトルは逆に「悪かったことは残し、良かったことはデリートする」の方が正しいのかもしれませんが、僕はそこまでストイックに自分を追い込むことができないので(心身共に疲弊してしまう)、素直に良かったことだけを覚えておくようにしています。悪かったことや失敗は、どのみち自分の意思に関係なく人間の生理現象として、深く脳の記憶に刻まれるのですから。


TVで「京都マラソン」の番組をやっていました。

その中で、出場している人に「なんで走るんですか?」と問いかけることによって、走ることの意義、ランナー心理、マラソンの魅力を浮き彫りにしようという企画がありました。僕もランナーの端くれですので、芸能人から一般の人までマラソンの魅力に取り憑かれたランナーの言葉は心底理解できます。

その内のある一人のランナーは、走る理由について「脳がスッキリするから」と答えていました。そう、まさに日頃ランニングしている理由の一つがこれ、「脳のデフラグ」なんです。

海を見ながら走りつつ今週を振り返る。
良かったことと悪かったことの切り分けを行い、フォルダに整理します。悪かったこと、嫌だったことはゴミ箱フォルダに直行ですが、今後の反省のためにメモ帳に書き残して随時参照できるように保存します。出来るだけ良かったことだけを考えて気持ち良く走るようにしています。

今日は曇天でしたが、そんな感じで10Kmを楽しむことができました。