日常使っている何気ない言葉の意味について

毎日忙しい日々ですが、できるだけ集中力を高めたい時、締め切りに追われてお尻に火がついた時、「よっしゃ、気合いや!」という言葉が勝手に出てきます。毎日「気合い」という単語を何度つぶやくことか。それほどまで「気合い」は日々の生活と共にあります。

でも良く考えてみると「気合い」の意味について良く知らなかった自分がいました。さらに悪いことに「気合いじゃ〜」と言ったところで、やる気がでない時は何も起きないことも日常茶飯事です。そこで今一度「気合い」の意味について調べてみることにしました。

Weblioを見てみると以下のように定義されています。

き-あい 【気合(い)】
読み方:きあい

1,精神を集中させて事に当たるときの気持ちの勢い。またそのときの掛け声「_がこもる」「_をかける」

2,呼吸。いき。「_をはかる」「_が合う」

Weblio辞書 

 
なるほど、気持ちの勢いか。あるいは呼吸。非常に抽象的なのでちゃんと理解できたかというと良く分かりませんが、言葉には力がありますので、それを口に出すことで精神が集中され、事に掛かる時に勢いが生まれるのかもしれませんね。

あなどることなかれ。騙されたと思って、これからも使い続けよう。

同じように「癒やされる」という言葉も日常的に使用しています。この「癒やされる」も実はあまり意味を知らずに使っていました。ということで同じweblioで調べてみると、

癒やされる
読み方:いやされる

それとの関わりを通じて、辛い思いなどが和らぎ、穏やかな気分になること。ストレスが軽減されること。

Weblio辞書

 
そういえば、仕事で煮詰まった時、ホームセンターのペットコーナーに行くことがあります。僕は動物全般、特に猫が好きなので、猫コーナーでじーっとにゃんこ達を眺めていると自然と目尻が下がり、笑顔になっています。

同じことが自然の中でも起きます。森の中を散歩する、空を見上げる、砂浜から海を眺めるといった行為を通じて、自然と肩の力が抜け、こわばっていた表情が緩むのです。

「癒やされる」という言葉について深く考えた時、それは「これでいいんだ、大丈夫」という気持ちなることと同意義なのかもしれません。日常に追われているとどうしても近視眼的になりがち。人との関わりも多いので、余計に視点が狭まってしまいます。でも、自分が生きている世界なんてちっぽけなもの。

自然の中に身を置いたり、猫を見たりしていると、「これでいいんだ」と思うし、自己肯定感が高まります。忙しい時ほど、苦しい時ほど、自分が生きている多様な世界に目を向ける。人間から離れる。

見る対象を変えることは大切ですね。日々、勉強の繰り返しです。

旬のものをいただく喜び

関西の夏の味覚といえば、鱧(はも)。

今年二回目の鱧を「落とし」でいただきました。鱧の落としとは、湯引きのこと。天ぷらも美味しいけど、僕はやっぱり落としを梅肉でいただくのが一番好きです。

旬のものをしっかりいただくことで、季節を感じることができる。日本は四季がある国ですので、願わくばこのまま気候変動の影響を受けず、輸入に頼らずに旬のものがその季節にしっかりとれる国であり続けて欲しいと思うものですが、なかなかそうもいかないかもしれませんね。

旬のものを食べるということは、身体の健康にも良いらしいですね。最近はスーパーで旬の夏野菜をたくさん買い込んで、常備菜を作ることを日課にしています。

さて、美味しい鱧とお酒を楽しみながらの話題は「抽象化」について。

抽象化とは複数の事象を並べて汎化することですが、この抽象化スピードが早い人ほど、仕事ができる。課題に対して勘所をすぐに掴むことができる人は一緒に話していてすぐに分かります。

木を見て森を見ずにならず、常に高い視点で物事を見ていきたいものです。

トレランとグリーンワークで、暑さに身体を慣らしていく

少しバックデートしますが、先週末の土曜日は六甲山トレラン、日曜日は猛暑の中でゴルフの月例競技と、暑さの中で二日連続身体を動かすということになりました。両日とも曇り空で直射日光はなかったものの、湿度が高く蒸し暑い。これで直射日光が出たらと想像すると・・・恐ろしいです。

六甲山トレランは、ウメランの皆さんと一緒に宝塚駅から六甲山縦走路を登り、山頂経由でケーブル山上駅まで17kmの馴染みのルートでしたが、慣れた道でもこの時期はなかなか堪えますね!

宝塚駅でスタート前に集合写真

これでも(ほぼ)毎朝 5km〜10km坂道ジョグをして、暑さ順化してるつもりですが、まだまだ体力づくりが足りていないようです。

大量発汗すると、身体がいくらでも水分を欲します。水なんてどれだけ飲んでもすぐに汗で出ていくし。体内の水分が一旦全部入れ替わっているのではないかと思うほどです。

そして、やはり最後はこれが美味しい!!最高の瞬間!!
いつも本当に良くしていただく、テンラン・カフェさん。

干からびた身体には、クラフトビールも食事も全部染み渡ります。もちろん、ビールを飲む前にはしっかり水で水分補給をします。

人間、ご褒美があるとがんばれる生き物!実に単純!笑

土曜日にかなり体力を使ってしまったので、翌日のクラブ月例競技はどうなるかなと思っていましたが、なんとか18ホール回り切ることができました。

直射日光はなかったものの、気温が高いとやはり体力を消耗します。氷嚢、冷感スプレー、凍ったペットボトルなど、ありとあらゆる手段で身体を冷やしながらですが、前半は好スコアだったものの、後半はバテてきて大叩き。笑 まあ、こんなものでしょう。

こんな季節ですが、お盆休みまでは最低週一、多い時は週二でラウンドが入っているので、熱中症には注意しながら万全の準備で回りたいと思います。

仲間の中には、3連チャンとか平気で回る人たちもいるので、ほんとすごいなあと思います。でも過信は要注意ですね!

【時の移ろい】庭の門を撤去しました

自宅の庭には古風な門があるのですが、これが徐々に傾いてきまして。今年も猛暑の影響で台風が大型化するという見通しもあり、倒壊する前に撤去することに決めました。

この門と石垣は、大正から昭和初期にかけて、この辺り一帯が苦楽園ラジウム温泉という温泉地であったことの名残です。当時は大変賑わっており、著名人もたくさん来訪したということですが、昭和13年の阪神大水害で打撃を受けたこと、水脈が変わって温泉が枯れた(と聞いています)ことによって、その後は衰退し、住宅街として生まれ変わって今に至ります。

参考:
苦楽園の歴史(神戸っ子アーカイブ)
苦楽園の温泉の起源と終焉(西宮市)

僕が子供の頃の実家はこのように、ザ・旅館という日本家屋でした。

自分も生まれ育ったこの木造建屋は阪神大震災で一部損壊し、建て替えることになるのですが、門や庭はそのまま残っています。

先日、門の前で梅の実を収穫していると、一人の男性が地図を片手に近づいてこられ「ここは、旧○○旅館の跡地ですか?」と尋ねられました。ちょうど叔母も一緒に作業していたので、叔母が子供の頃に聞いた話などをその男性にされると、とても満足され、門や庭の写真を撮っていかれました。どうやら趣味で郷土史を研究しておられるようで、その方には興味深いものだったのでしょう。

僕の曽祖父が、戦後、この土地と建物を気に入り、大阪から移住してきたのですが、この門は当然戦前からあったものと推測され、さすがに特の流れには勝てず、老朽化してしまいました。いつもお世話になっている業者さんにお願いし、一抹の寂しさを抱えながら、その作業を見守りました。

作業半日で完了。
あっという間に門は撤去され、広い間口が残されました。さあ、ここを今度はどうしよう。

ついでに庭木の剪定もお願いしました。

曽祖父から引き継いでいるこの土地ですが、時代も変わり、今となってはご先祖のように裕福ではないので(笑)、庭のメンテナンスや固定資産税に毎年、膨大なコストが掛かるものをどう維持していくかが自分の中での大きなテーマです。

今現在、お金持ちの皆さん。
大きな土地を買い、豪邸を建てるのは大いに結構ですが、子や孫にどう相続させていくか、ぜひ、維持費なども考えて残していっていただけたらと思います。(どんなアドバイス笑)

趣味の話について

いやあ、忙しいし、暑いですね!
皆さま、いかがお過ごしでしょうか。

先日、これといった趣味がないとおっしゃる方から、どうやって趣味を見つけたら良いのかと相談されたのですが、僕は真逆で「趣味しかない」という人間でして、どれか一つ減らしたら?と言われても反論できないくらい多ジャンルの趣味を持っています。もちろん、それぞれに時間を掛けていますので、スケジュールの調整も大変です。

ゴルフやマラソン、トレランといった体を動かすものから、森林浴、ガーデニング、料理、読書、郷土史研究に至るまで幅広く取り揃えています。そして、大抵の場合、それぞれの趣味のカテゴリごとにコミュニティがあり、実に多くの方と交流させていただいています。今日はそんな中から、年間約40ラウンドをこなすゴルフについて書いてみたいと思います。

祖父がゴルフ練習場を経営していたということもあり、幼い頃からゴルフは身近にあるものでした。学生の時に球拾いの手伝いをしながら、古いクラブを持たせてもらって打ち始めたのが最初です。練習場といっても今のように250yもあるような大規模な練習場ではなく、街なかにある打席数30くらい、40yくらいの小さな打ちっぱなし場でしたから、常連さん同士も仲良く、お茶飲みに集まるような、社交場のような練習場でした。場所柄、今でいうエグゼクティブな方々(芦屋の旦那衆ですね)が多く、よくかわいがってもらいました。みなさん教えるのが好きなので、あれこれ教えてもらってスイングがバラバラになることも多々ありましたが。笑

本格的にゴルフを始めたのは、30代の前半からだと思います。それまでは、たまにラウンドするくらいで正直ゴルフに興味を持てなかったのですが、友達に誘われたことがきっかけで再開し、会社メンバーで回ったり、取引先のコンペに出たりして月イチゴルファーとして、年間10ラウンドくらいはしていました。

ところがここ数年、メインとなる所属クラブが決まり、さらにお誘いを受けて入会したクラブも別に一つ増え、合計二つのゴルフクラブのメンバーとして活動し始めた一昨年あたりから、月例競技に出たり、クラブの親睦コンペに出たりして一気にラウンド回数が増え、ほぼ週イチでラウンドするという状態になっています。さらに、3月に独立して一人コンサルタントとして活動し始めたことにより、平日も融通が効くようになり、いわゆる「へーゴル」(平日ゴルフ)も増えました。

ゴルフ場の会員権と聞くと、バブル時代のイメージからとても高額なイメージがありますが、今はそんなことはなく、そこそこのクラブでも手の届きやすい範囲となっています。所属クラブでコンペに出始めると、おのずと同じクラブのメンバー同士で仲良くなることも多く、一気に人脈が増えて、それはそれでとても楽しいのがクラブライフの良いところです。

僕の場合は、老若男女問わず、色んな方と交流させていただいており、中には自分の父親よりも年上の方と回ることもあれば、20代のメンバーと回ることもあり、仕事の話やプライベートの話を聞いたりしてとても刺激を受けています。またそれぞれのクラブによっても文化があり、カジュアルなゴルフ場もあれば、みんなでクラブを大事に、良くして行こうという雰囲気のゴルフ場もあり、それぞれのカラーを楽しめるのも面白いですね。

ゴルフは、スポーツとして面白い、自然の中で身体を動かして癒やされる(ただし、スコアは気にしないことw)というのももちろんありますが、僕自身は同じゴルファー同士の関わりの中で気遣いやマナーを学び、人となりを知りながら、ゴル友さんが増えていくことに楽しみを感じています。スコアは二の次です。笑

共通の趣味を持つ仲間が増えていくのは、マラソンなどの他の趣味でも同じかもしれませんね。

コロナ以降、ゴルフを始める若い人も増えてきたのが嬉しいです。特に関西は都心からゴルフ場が近いこと、数が多いのが魅力です。車を持っていなくても、カーシェアリングもありますしね。プレーフィーも昔ほどは高くないので、今はハードルも随分下がったと思います。

ゴルフに興味のある方、これから始めようという方、色々とアドバイスが出来ると思うので、お気軽にお声がけくださいね。

グリーン・エクササイズとパフォーマンス向上の関係性について

自分と向き合い、心を平静に保つため、朝のグリーン・エクササイズを日課にしています。グリーン・エクササイズとは自然の中で体を動かすことを指すそうですが、僕の場合は毎朝、近所の植物園から繋がるトレイルを5km〜10kmほど歩いています。

その中で心掛けていることは二つ。
一つ目は、すれ違う人とは必ず挨拶をすること。

朝って良いですよね、こちらから「おはようございます!」と声を掛けると、必ず「おはようございます」と返していただけます。朝から声を出して挨拶するのって気持ちの良いものです。

二つ目は、森の中を歩き、深呼吸をすること。

特に池や川の前で、吐く方を意識しながら深呼吸をすると、気持ちが落ち着き、悩みやストレスがすべて吐き出され、浄化されていくように感じます。人は水場にいくことで癒やされるという研究結果が出ているそうですが、作家の村上春樹さんも、著書「ラオスにいったい何があるというのですか」の中でこう書いています。(ちなみに僕はこの一文が大好きです)

「僕は思うのだけれど、たくさんの水を日常的に目にするというのは、人間にとってあるいは大事な意味を持つ行為なのではないだろうか。まあ「人間にとって」というのはいささかオーヴァーかもしれないが、でも少なくとも僕にとってはかなり大事なことであるような気がする。僕はしばらくのあいだ水を見ないでいると、自分が何かをちょっとずつ失い続けているような気持ちになってくる。」

山の手に引っ越してから、以前のように川や海沿いをジョギングする機会は減りましたが、森の中で鳥のさえずりを聞きながらマインドフルネスのようなことをすることは、自分自身をまた違う次元にアップデートさせていくために必要だと考えています。会社勤めをしていた時と違い、時間を自由に使うことができるようになったので、朝の時間をたっぷり、ゆっくり、グリーン・エクササイズに充てることができています。

人は周りの環境(職場や、付き合う人など)の影響を大きく受けやすい生き物ですので、環境はその人を成長させる、あるいは退化させる重要なファクターにはなり得ますが、それよりも自分自身と向き合い、物の見方を良い方向に調整し続けること、考え方をポジティブな方向に向けることで、明らかにその人のパフォーマンスは変わります。そのためには、しっかり自然の中で時間を取り、自分と向き合うことが大切です。

その結果、最近、自分でも「強くなったなあ」と思うことが多くなりました。少々のことでは動じない。気持ちに余裕が出てきて、いつもニコニコできるようになりました。ビジネススキルに関しては、以前よりも鋭い判断ができるようになり、概念の構造化スピードも速くなったように思います。

そうなると不思議なもので、仕事もプライベートもますます順調になり、仕事の依頼や面談の依頼、食事のお誘い、ゴルフのお誘い(笑)が、新しい関係の方々から毎日のように来るようになりました。笑う門には福来る、ということでしょうかね。

何事も自分次第でどうにでもなる。
グリーン・エクササイズはそのことを教えてくれています。

こちら、平日のホームコースのゴルフ場です

若者世代から学ぶことは多い

今週は東京出張ウィークでした。

コロナ以降、オンラインミーティングが日常の中ですっかり主役になったため、出張中であったとしても、ホテルの部屋であれ、移動中であれ、合間合間に自然とオンラインミーティングを行っています。

最近、はじめましての方からミーティングオファーをいただくことが多く、この出張期間中にも24歳でPR会社を起業した若者からミーティングの申し出がありました。僕は時間が許すなら、できるだけ依頼はお受けするようにしているのですが、その理由としては、様々な企業さんとお仕事をしているとはいえ、一人会社ですのでやはり情報や考え方が偏ってしまうことも多く、バランスを保つためにも色んなジャンルの話が聞きたいという思いがあるからです。

さて期待通り、彼らのPR手法というのはTik Tokの活用や、プライベート・ビジコン・イベントの主催など、自分たちのレガシーな業界ではまず考えられないようなものばかり。でも今の時代はこれが当たり前なんですよね。他にも色々とありましたが、昭和(平成?)の頭でいくら頭を捻っても出てこないようなアプローチの仕方と、その効果に、とても刺激を受けました。

自分が社会に出てからもう二十数年が経過しています。新卒22歳と定年65歳のちょうど中間くらい(やや定年寄りですが・・・)の年齢に位置づけている自分として、昭和の高度経済成長期やバブルを駆け抜けてきた世代の話も分かるし、デジタルネイティブ世代の話も分かる、いい意味で良いとこ取り世代だとは思ってはいるものの、どこかで拘りが強くなって来ている自分もいるし、良い意味でも悪い意味でも、今の時代に絶望と諦めを深く感じているところもあるので、年齢関係なく、様々なジャンルの人の話を聞いて学ぶということの重要性を今さらながら実感しています。気づきもたくさんありますしね。

「我以外皆我師」という言葉にあるとおり、自分以外はみんな先生。
そう考えると本当に新鮮だし、その中でも特に、若者から学ぶことはとても多いですよね。

こちらは東京でお気入りの蕎麦屋さんです

手間暇かかるものに惹かれる理由

今日のランチは蕎麦の名店へ。

古民家を丁寧に改装したお店は人気店らしく、幹線道路から外れた狭い路地奥にあるにも関わらず併設された駐車場もいっぱいで、店の外には並んでいる人もいました。

天ざる蕎麦をオーダー。蕎麦も天ぷらも手作り風の素朴な味で、とても美味しかったです。お野菜は地元のものを使っているのかな。

だし巻きも、濃い卵の味に上品なだしがマッチして、良い意味で素朴なんだけど、こちらも美味しかった。

考えてみると、古民家の手打ち蕎麦なんて、手間暇かかるものの典型といえるかもしれません。毎朝そば粉を引き、打ち、鰹節と昆布でだしを取り、野菜を下ごしらえして調理し提供する。古民家もメンテナンスが必要です。

この合理性の一切ない「めんどくさいもの」に最近、特に惹かれるようになりました。

何かをするのにいちいち時間が掛かるというのは、昔の暮らしでは当たり前。蚕を屋根裏で飼い、糸を紡ぎ、服を作る。野菜にしても、種をまいてから口に入るまで多くの労力と時間が掛かる。身近にスーパーマーケットやコンビニがあるから、いつでもどこでも好きな時に好きなものが手に入ることに慣れてしまっているので、「いちいち時間が掛かる」という当たり前のことを忘れてしまいがちになります。

毎日、自分で庭木を手入れしたり、花を植えて育てたり、野菜を育てていたりすると、何事も簡単かつすぐに手に入るってことはないんだなと感じます。そもそも、人間の暮らしは面倒くさいものなんだよな。でも、面倒くさいことを一生懸命することによる充足感や幸福感というものは、コンビニやスマホからは得られないと思うんですよね。

簡単に手に入るもののおかげで生活は便利になったけれど、便利さと比例して幸福感や心の豊かさも増幅したかというと、僕はそうではないと思うんです。合理的でなく、遠回りと思えることに時間を使う、面倒くさいことを一生懸命やる、これらは現在の生活ではむしろ「贅沢」な領域に入るのですが、少なくとも幸福感や人間らしさを保つ、という意味では絶対に必要なもの。

だから僕は毎朝、自然の中を散歩するのかもしれません。木々は育ち、路肩の花は誰に見られることもなく、花を咲かせているのです。人間だけが、その上でバタバタしているように思えるんだよなあ。



口角を上げて笑顔でいることって想像以上の良い効果がありますよね

普段、小難しいことばかり考えていることが多く、知らずしらずの内に険しい顔つきになっているなあと、ふと気づきました。

確かに生きていると良いことばかり起こる訳でもなく、たまにガッカリすることもあるのですけどね、世の中全然捨てたもんじゃなく、毎日の生活の中で笑顔になるようなことがたくさんあります。

例えば、仕事部屋からは緑がたくさん見えるし、毎朝、近所の植物園までジョギングして、マイナスイオンたっぷりの新鮮な空気の中で深呼吸する。これって本当に今自分が手にしている生活の中の素晴らしい一面です。それに、眉間にシワを寄せて考えている小難しいことだって、結局は社会を良くすることであったり、対象となる会社を成長させることだったり、人を笑顔にすることだったり、ビジネスであろうが、ボランティアであろうが関係なく、楽しいことばかりです。そう考えるとPCに向かっている時も、MTGの時も自然に笑顔になれることに気づきました。テンションが低い時は、無理やりにでも口角を上げると自然に笑顔になるんです。

で、なんでこういうことをわざわざ書いているかというと、元々、自分がかなりのネガティブ思考でして。しかもタチの悪いことに、ロジカルなネガティブ思考なんです。どういうことかというと、ダメだと思うことは、ダメな理由をロジカルに考えて、ダメなエビデンスを参考文献と共にレポートにまとめて提出してしまうくらいのロジカル・ネガティブシンキングな持ち主なのです。

でもね、過去の経験から理解しているのですけれど、これって何もプラスのものを生み出さないのですよ。何も良いものを生み出さないのであれば、最初っから陽転思考でニコニコしながら、どうにかなるさーって考えてる方がよっぽど良い。怒りや失意からは何も生まれないのと同じですよね。最初っからニコニコしてるといいよね。

それとね、自分のことばかり考えていると笑顔になれないです。人って、自分のためではなく、他人のために動く時に幸福を感じるのだと思います。

というわけで、最近は、ねじり鉢巻を頭にまき、一升瓶抱えて「かまへん、かまへん、ガッハッハッハー!!!」というオッサンを頭の中でイメージしながら、常に笑ってる自分でいるようにしています。

極端か。笑

最後に、近所の北山植物園のバラをおすそ分け。百花繚乱、咲き乱れていますよ。平日の早朝の植物園は人もほとんどいなくて、貸し切り状態。ゲートが開いている時はいろんな植物や花を見ながら歩いています。

口角を上げる練習。


「それそのものにどんな意味があるのか」を考え、あるべき姿を常に想像しながら歩んでいきたい。ブログ開設18周年のご挨拶

雨が上がって、青空が広がる。
毎朝、庭の水やりを日課にしていると、天気の変化に敏感になります。朝起きて今日は晴れてるかな、曇っているかなと空を見上げ、庭の土の乾き具合を見る。近所の植物園までジョギングをして、森の中で肺いっぱいに新鮮な空気を吸い込んで、ゆっくり時間を掛けて息をはく。サウナはあまり得意ではありませんが、この森林浴も一つの「ととのう」ということなのでしょうか。

6月は、このブログをスタートした月になります。

2005年の6月にブログを書き始めて丸17年が経過し、18年目に入ります。当時はスマートフォンもなく、その間、コミュニケーションの手段やインターネットで使用される技術もどんどん変化して行きましたが、自分はこのようにネット世界の辺境で、ひっそりと、こつこつと、テキストを打ち続けることによって「思考をととのえる」ことを習慣にしてきました。書き始めた頃は30歳になる手前で、もちろん書いていることも今とは違うし、仕事に対する思いもテクノロジーに対する考え方も今とは異なっていたように思います。17年という月日は人を変化させます。願わくば「成熟」という方の変化が良いのですけれど。

最近、自分が関わっているプロジェクトや製品について、なんでもかんでも新しい技術やトレンドを導入することを最優先にすることはやめ、とにかく「理念と哲学」にこだわるようになってきました。

参画しているメタバース・プロジェクトでは、目に見える社会の課題をどのように解決できるか、それによって人が幸せに生きていくためにはどうすれば良いかを考えています。具体的には、地域ごとの自立分散型経済と互助共助社会の実現です。インターネットが出現してから30年、2019年ノーベル経済学賞のバナジーとデュフロがいうように「先進国に関する限り、インターネットの出現によって新たな成長が始まったという証拠はいっさい存在しない」という事実と、少なくとも30年間経済成長のない(=物質的に豊かになっていない)この国において、じゃあ、自分たちはどのような未来を作っていけるのか、そこはグローバルとは真反対のレイヤーを構築していくことではないかと考えるのです。

企業を成長させることや売上を上げることはとても大切です。でもね、最近、世の中の潮流が少しづつ変化しているように感じませんか?

「グーグルがこんなことをやっている」とか「イーロン・マスクがこんなことをやっている」とか「シリコンバレーではどうのこうの」(自分もSVで仕事をしていたのでこの地の魅力は良く知っているのですが)というキーワードに飛びつく人がものすごい勢いで減っているような気がするのです。むしろ、彼らがやっていることはより良い社会の実現というよりは富と情報の一極集中であるよね、と。富も体力も時間も搾取されることに疲弊してきた自分たちは、分断を作る世の中ではなく、お互い助け合いながら貨幣経済に依存しない社会で生活する方が幸せなのではないだろうか。

小よりも大、遅よりも速、狭よりも広、停滞よりも成長、が良しとされ、自分もビジネス一辺倒で今まで走り続けてきましたが、そろそろ舵を切り替えるタイミングに差し掛かっています。成長第一の旧態依然とした考え方には年々不感症になってくると同時に、周りにそのようなギラギラした人も自然といなくなり、淘汰され、周りには価値観を共有できる本質志向の人たちだけのコミュニティが残り、心地良さの中にも課題意識があるという不思議な感覚です。

テクノロジードリブンで新しいものを次々に構築していくことは否定しませんが、ソフトにしてもハードウエアにしても、あるいは会社経営にしても「それそのものにどんな意味があるのか」を徹底的に考え、あるべき姿を常に想像しながら意思決定をしていきたいと思っています。

さて、毎年、ブログの周年を迎えるに際し「僕はここでなにかしらをずっと書いています」と決意表明をしているのですが、今までなんとかその言葉どおりに続けてくることができました。そして、これからも僕はここでなにかを書き続けるでしょう。

いつも独り言に付き合ってくださる皆さまへ感謝の気持ちをこめて。
18年目もどうぞよろしくお願いいたします。