24時間の使い方による差は、どれほど意味を持つのだろう

人間には皆平等に24時間が与えられているといいますが、実際そうなのかなあと思うことがあります。例えば、息抜きに村上春樹さんの「遠い太鼓」などを読んでいると、そこで書かれていることが事実として、ギリシアの島々に住む人は、こんなに働かなくても生きていけるのか、イタリアという国はこんなにテキトーにやっていても、国として成り立っているのかと不思議に思います。

一方、昼夜休日関係なくひたすら仕事をしている人もいて、人として、この差はなんだろう? この24時間という時間の使い方に一体どんな差があるのだろうと考えさせられます。

IT社会になると仕事なんてなくなるのでは、移動や出張や出勤すらなくなって、みなリモートワークになるのではと思っていたのに、事実はむしろその逆で、人はもっと忙しくなり、神経質になり、全てがセンシティブで、一体何に振り回されているのだろうと思うくらいではないでしょうか。そして、社会はその結果、本当に豊かになっているのでしょうか。天文学的な数字の資産を持っている大富豪と、調子が良い国の爆買いばかりが注目されていますが、市井の民はどうなのでしょうか。幸せのレベルは人によって違いますが、「差」という点に目を向けてみると、「自分が食べたいものを自由に飲食している」人と、「健康オタクで摂生している」人の寿命には2,3年の差くらいしかありません。この努力の差って、一体なんなんでしょう。

シンプルなことを複雑にしているのは他でもない人間自身で、24時間の使い道をコントロールするのも自分です。

たまにこういう事を深く掘り下げて考えてみると、楽しいですよ。人それぞれに、しなければならないことが見えてくると思います。

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