昨日の昼過ぎ、珍しく弟から電話が鳴りました。
僕ら共通の友人である、
幼馴染Tが亡くなったという残念な知らせでした。
あまりに急な知らせで実感がわかないものの、
通夜や葬儀に参加できる日程が確保できるか分からないし、
なにより荼毘にふされる前に、なんとか彼の顔が見たいと思い、
昨夜、新神戸から新幹線に飛び乗り、
大分県に向かいました。
23時半に現地に到着し、
彼と対面しました。
既に、地元の友人二人と弟が先に到着していました。
彼が仕事の都合で九州に移転して以来、
ここ4年位はほとんど会っていなかったのですが、
体重90キロ、野球のキャッチャーをしていたドカベンのような
彼の体は、骨と皮だけのようになってしまっていて、
そのあまりに変わり果てた姿に言葉を失いました。
一か月で彼の体を一気に蝕んだ、
ガンという病に対する憎しみにも似た感情、
そして激痛に耐え、病と闘い抜いた彼に対する、
「お疲れ様、よくがんばったね」
というなんとも言えない感情が交錯し、混沌とした中、
ご両親や友人達と、彼の思い出話を語り合いました。
一人息子を亡くしたおっちゃんとおばちゃんは、
僕も小さい頃から世話になった方々ですが、
とても気丈に振る舞っておられました。
ただ、やはり、
胸中は推測して余りあるものだと思います。
想像するだけでとても辛くなります。
もう少し、彼と彼のご両親と一緒にいたかったのですが、
仕事に穴をあけることができないので、
弟の車に乗せてもらい、夜通し走り、今朝帰宅しました。
人の命は、はかないし、有限のもの。
だから残された者は、与えられた命に感謝し、
一日一日を無駄にすることなく、
悔いなく、精一杯生き抜かねばならない、
それが生きている者の使命なのだと。
辛く、悲しい出来事でしたが、
本当に色々なことを考えさせられました。
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お悔やみ申し上げます。またメールも送ってもらいありがとう!そういった心境を知らずにtomoさんは私にご返事をしてくれたんですね。つらいお気持ち察します。私も身近な家族や(家内の親友でもあり)一緒に遊び語り合った友人をなくしていますが、いつも大切な人(他界したペット2匹も)心の中にずっと生きてます。その人たちの命や魂を背負って私は明るく前を向いて生きていかなければならないと。いつもそう思ってます。命ある限りそのひとたちの分まで幸せになりたいから。
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肉親でも友人でも人の死を目前にすると
ほんまに人って儚い・・と言うと綺麗に聞こえますが、脆いものなのだと実感します。
最近思うのですが、残された者は死に行く者を偲び当人の死を残念だと涙します。
しかし過大かも知れない視野で考えると、本当は人生修行の卒業みたいな形で、当人にとれば喜ぶべき事なのかも知れません。
その答えは自分の番にならないと出ないし
この発想は不謹慎だと誤解されそうですが、私は死を目前にするとそう考えるようにして、きちんとした卒業証書が貰える番が来るように、魂磨きをしようと思います。
tomoさんどうかお疲れ出ませんように。
tomoさんに笑顔が戻りますように。
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とても丁寧にコメントを下さり、ありがとうございます。
「心の中で行き続ける」という表現は、本当にその通りだと思います。やはり、過去に亡くした大事な人達は、ふとしたきっかけで思い出すことがありますから。
自分は一日一日を悔いなく生きることが出来ているか、本当に命を大切にしているか、自問自答のきっかけになりますね・・・。
励まされました。ありがとうございます。
8月の来阪を楽しみにしています。
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丁寧にコメントを下さりありがとう。
本当に脆いと、僕も思います。
元気だった人が、つい最近食事を一緒にした人が、急に電池が切れたように動かなくなり、横たわっているという経験を、僕もしました。
kyoOkoちゃんが言うように、「死」は「人生修行の卒業」ですね。彼に関して言えば、末期の激痛が想像を絶するものだったらしく、おっちゃんも、早く楽になってよかったかもしれない、と言っていました。彼本人にとっては苦痛からの解放は喜ばしいことだったかもしれませんね。本当に「生き方」、自問自答させられます。。。
僕は元気です。
いつも励ましてくれてありがとう。