遠回りであることを、あえて肯定してみる


物事の本質を知るということは、たやすい事ではありません。

かつての偉大な哲学者や、かのポール・ゴーギャンがそうであったように、 本質=nature というのは、詰まるところ「自分は何のために存在していて、どこから来て、どこへ向かうのか」というような、人間の知能で考えても絶対に分からないような哲学的なところに行き着いてしまうからです。普段の生活において、毎朝起きる度に、そんな事を考えていると身が持ちませんよね。極論、「どうせ人はいつか死ぬんでしょ・・・」というネガティブな思考へ走ってしまう危険性も秘めています。この考え方はとても脆くて、ちょっと自分自身のコンディションが悪ければ一瞬で刹那的な方向へいざなうドラッグのようなものです。

さて、健全なコンディションの人間の場合、極論への近道に進まなくても自分自身の「curiosity」(好奇心)を満たすことを優先させる方法は色々とあります。例えば、大きな括りの中での本質を知りたくて、まず多方面に興味を分散させてから一つの点に集約していくような動きを取るというのも楽しいことです。仮に、直接的に自分自身の効用(例えば、仕事や、利益に直結するようなこと)に関係しなかったとしても、自身の枠の中で広げられる枝葉の中で分野を広げていくというのは、知的好奇心を満たす上ではとても楽しいことだと思っていますし、自分も極力、そうするようにしています。

(出典:wikipehia)※火星探査ローバーの「curiosity」。モビリティの中で最も好き。


良いか悪いかは別にして、このような考え方は基本的には「遠回り」ですね。人の命は有限だというのに、利益に直結しないことにどうしてあえて時間を使うのか。

意味ないやん。その時間もったいないやん。仕事する時は仕事して、ゆっくりする時はゆっくりしようや。そんなん、学生の時に終わらせておこうや。

色々な意見があると思います。でも、このような疑問にはハッキリと答えることができます。それはずばり、

「快感だから」。

あらかじめ断片的に保有していた情報(それはあくまで断片的なのでどことも繋がっていない隕石のようなもの)が、新しく入った情報が媒介となりどこかの惑星と繋がる。シナプスとシナプスが結合される感覚は、まさにパズルのピースがパチっとハマったような感覚を覚えます。だから、仮にそれが遠回りだという自覚はあったとしても(いや、実際あるんだけど)、それでも枝葉を広げて行く作業というのは止められないんだな。いつかどこかで破綻するかもしれないけれど。という訳で、僕はいつも出来るだけ自分の専門分野とは違う文献を読むようにしていますし、社内の人間には「出来るだけ社外の人間と飲みに行くように」と薦めています。世界は広い。だからこそ、自分の世界も広げなくてはならない。

さて、少し肩の力も抜けたので、ハイボールでもやりながら、友人たちのタイムラインでも眺めて楽しい気分にでもなりましょう。それでは、今日はこの辺で。

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