人は寝込んだ時に何を考えるか(少し長め)


今週の半ばから体調不良、週の半分をほぼ寝込んだまま過ごしています(現在進行形)。ブログの更新も随分飛ばしてしまいました。中四日も空くのは中々ないことで、余程ヘバッているのだろうと察していただければ幸いです。

「耐性」には個人差があるかどうかは知りませんが、僕の場合、自慢じゃないけど「熱に対する耐性」が全くない。耐熱性0。何もできない、立っていることも座っていることもできない。ただひたすら薬を飲み、寝るだけ。それでも、やっぱり仕事の事が気になります。PCを開いて、メールをチェックしようとするも、ハンマーでどつかれたかのような朦朧とした意識と、持病の左肩甲骨の激痛(これがめちゃくちゃ厄介)で、座っていることもできなくなり、ぶっ倒れる。マラソンで培った「根性」もクソの役にも立たない。一応意識はしっかりしているので、ああ、これやらなきゃ、あれやらなきゃ、と焦りの気持ちで一杯になり、益々しんどくなってしまうという悪循環です。ああ、冬なんて来なきゃいいのにね。

というのも、毎年この時期になると、風邪やらノロウイルスやらインフルエンザやらが大流行し、こちらがいくら気を付けていても、罹患する時は罹患してしまいます。うちの会社でも絶賛大流行中。インフルなんて予防注射受けていようがいまいが、抗体がどんどん変化していくから余り意味がないというし、もう一体どうしたらいいのやら。すごく極端かもしれないけれど「元気か、死ぬ」つまり、「Active or Die」くらいの方がよっぽどいい。もうダラダラとしんどいのが身体的にも精神衛生的にも一番つらいのです。

愚痴が長くなってしまいました。
そのような訳で、ただでさえ隙間のないスケジュールが一週間近くも押してしまい、来週はリスケの嵐になりそうな予感です。色んなところに土下座しなきゃ(しないけど)。返信が遅れている関係各所ご迷惑を掛けております。ごめんなさい。


話は変わりますが、先日、1月19日にエントリーした「自分の直感を信じるということ、そして、それに従順であるということ」という記事に対して各方面から色々と反響をいただきました。

「幸福」をどの尺度で計るかは非常に主観的になってしまうため一旦置き、少なくとも自分が自分の人生の大部分を何に費やしたいか、という点と「幸福感」は密接に関係するように思います。しかし現実に目を向けてみると、悲しいかな、資本主義経済の下では「金」がなければ最低限の生活すら営むことはできませんよね。そこで圧倒的大多数の人は、まず「生活するために働くこと」になります。そして、一日の半分以上を仕事に費やす。最近は学生企業家も増えていますが、多くの人は何もチャレンジしないまま、まず「雇われる側」に回ることになる。そして、そのまま組織の一員として、働いていくことになります。

問題はここから。
その仕事を本当にしたいと思っているのか、夢中になれるのか、ワクワクするのか。それが、人生の目的なのか。それをするために生まれてきたのか。惰性ではないか、勇気はあるのか、確信を持っているのか、夢中になれることに没頭し、仮に失敗しても成功しても常にワクワクした人生を過ごしたいのか。

このような自問自答を、特に、組織や会社に依存せずに、とりあえず自分で食っていけるようなスキルや人脈を身に付けた人は、自分という軸を中心にして、常に繰り返しているような気がします。否応なしに突きつけられるというか。「直感に従順に従う」ということは、「自分がワクワクすること」を素直に追い求め続けることだと思いますよね。

かくいう僕は、会社の役員という立場であえてこういうことを書いている訳ですが、自分の仕事について、いつも「客観的」であるようにしています。それがワクワクすることなのか、面白いことなのか、人の役に立つのか。その気持ちが少しでも薄れて来たら、今の立場も潔く捨てるつもりです。あっさりと。一人で仕事をしているならまだしも、チーム(組織)ですからね、自分が悩みながら仕事していたら、必死でやっている周りの人間に失礼になってしまうでしょう。いずれにしても、後悔しない生き方を「2014年のテーマ」としています。直感に従順に、面白く生きたいですよね。

それもしても、早く体調を回復させなければ!

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