不安定を楽しむ

今年も楽しい一年でした。
物理空間と精神空間の間を行ったり来たりし、多くの新しい出会いもあり、また一つ成長できたような気がします。

人は試練の時に真価が問われる。

春の体調不良の時は、多くの方にご心配をおかけしました。人の温もり、励ましの力を本当に実感しましたし、今でも久しぶりに会った方からは「元気?」「最近どう?」という言葉を掛けていただきます。肉体的にも精神的にも決して強くない、いやむしろ病弱で低空飛行が通常という自分を受け入れつつ、それでも生かせていただいているのは、なにか社会の役に立つことをしなさい、と叱咤されているのではないかなと、山や森、神社にお参りに行くたびに思うわけです。感謝の心を忘れず、前へ。

独立して二年目、一人会社の一人社長とはこういうことかと色々学ばせていただいた一年でした。端的にいうと、会社員と違って時間拘束がないので、自分で時間のコントールはできるけれども、自分が動かないと何も進まないし、自分の代わりに仕事をしてくれる人もいない。とにかく自転車を漕ぎ続けるがごとく、自分が動き続けなければならない。そんな感じです。倒れたら終わり、という恐怖心とも常に隣り合わせです。その代わり働いたら働いた分だけ収入はある。この不安定さがなんとも面白いのです。どこにも何にも甘えることはできない。

ありがたいことに仕事が急角度で増え、来年の予定もびっしりと埋まっています。僕のような仕事は年間契約で動くことがほとんどですので、契約更新をしていただくとまた一年、顧問先、支援先の会社と伴走しながら成長を支える、そのようなイメージです。だからこそ、結果が求められる。誰もができる仕事をしていては、必要とされない。専門性、経験、他にない価値とはなにか、それをひたすら自問自答しながら、黙々と磨いてきた一年でした。

よく予測不能な時代、と言われますが、予測できた時代など人類の歴史の中であったのでしょうか。人はどの時代でも予測ができない不安定な世の中で生き、子孫を残し、今この瞬間まで何万年も続いてきたという歴史があります。その時、その一瞬をどう生きるか、その無数の選択の積み重ねが線となって今となり、そして次の時代に続いていくのでしょうね。良いことも悪いこともすべて含めて。

だからこそ、一つひとつの選択を信じて進む。光が指す方向へ歩いていると、本当に不思議なことに新しい人とのつながりができたり、思わぬ人に出会えたりするのです。志をともにする仲間は自然と引き寄せられていくのでしょう。

最後に個人的な今年のハイライトを。

トレイルレース:3月 六甲縦走キャノンボールラン

ゴルフ:約40ラウンド

新しく始めたこと:シニアモデルとしての活動

嬉しかったこと:某学校法人創立100周年記念ゴルフコンペという大きな大会で準優勝

仕事:一般社団法人白秋共同研究所の設立、理事に就任

仕事、ラン仲間、ゴルフ仲間、KNS、大学関係、足祭りボランティアグループ、グローバル人事塾、白秋共同研究所、神社仲間、美容業界・・・様々なコミュニティに属させていただいている自分ですが、多くの仲間たちと共に時間を過ごし、支えていただきました。

また来年も引き続きよろしくお願いいたします。
それでは少し早いですが、良いお年を。

忙しい時にミスをしないためのライフハック

年の瀬が近づいて来ました。皆さまいかがお過ごしでしょうか。

忙しいという言葉は使いたくありませんので「盛り上がっております」という言葉に置き換えたいと思いますが、まあ、年末らしく大変な盛り上がりをみせております。このような時、どうしても焦りの気持ちが出たり、ミスを発生しがち。ヒヤリハットを防ぐためにどうしたら良いのか。こういう時こそ、整理整頓ですね!

仕事場を常に整理しておき、必要なものだけを机に配置してスッキリさせる。PCのモニターに指紋がついていては気も乱れるので、こまめに拭き取る。郵便物は必要なものと不要なものに分け、その場で対応できるものは対応する。デスクは常にアルコールシートで拭いてきれいにしておく。こうすることで、焦りの気持ちを鎮め、落ち着かせ、仕事に集中できる環境を整えることができると思っています。

身なりも同じで、きっちりと手入れしておくことは、頭をクリアにする効果があると考えています。靴は磨き、シャツはアイロンをあててきれいに整えておく。清潔感=気と頭がクリアに=集中力という構図ができるんじゃないかな。靴磨きやアイロンかけは気分転換にもなりますしね。

そんなこんなで来年の予定も徐々に見えてきました。先月に引き続き、先日も大型の契約をいただき、1月から新規で大きな案件が二本追加で走ることになりました。既存のプロジェクトや顧客の仕事に加えて、一体何本走ってるの!?という感じになってきて、いよいよ祭りの様相です。でも、こうして多くの企業さんに関わらせていただくのは感謝しかありません。

ありがたいことに右手となってくれている複数の協力会社が、どこも信頼でき、ハイパフォーマンスのところばかりで脇を固めてくださっているので、本当に助けられています。

「頼りにしてます!」とのありがたい言葉をいただきましたので、気持ちを引き締めながら一歩一歩、着実に結果を出して行きたいと思います。

体力、気力、知力、財力

大谷選手の契約金額やプロ野球選手の契約更改、上場企業の冬のボーナスの平均額など、人の稼ぎに注目が集まる時期です。景気の良い話もあれば、その逆もありますが、スポーツの場合は結果を出しただけ報われるのが分かりやすくて良いですね。結果を出して大金を手にする。大いに結構じゃないですか。企業でも同じで、冬のボーナス数百万、という一流企業もありますけれど、それはそれだけ利益を出しているからであって、利益が出なければ0になるという点では、どこの会社も一緒、公平だと思います。

日本には、お金のことを口にするのは良くないという風潮がありますが、良くない(嫌がられる)のは、自慢するという行為であって、稼ぐことではないような気がしています。事実、稼がなければ生活はできないし、稼いで家族を養って、納税して、社会の役に立つことが国民としての義務ですからね。会社も同じで、売上を上げて利益を出し、従業員や取引先にお金を払い、しっかりと納税することが会社が存在している理由であって、それができないなら退場してねという至極シンプルな構図なのが良くも悪くも資本主義経済です。

ですが最近はどうも、コスト削減とか、節約とか、稼ぐ方ではなく、絞る方がフォーカスされている気がしています。もちろん血税を財源とする公共事業にムダ遣いは許されませんが(五輪、万博、リニアどうにかなりませんかね・・・)、会社や個人として「絞る、節約する」というより、いかに稼ぐか、ということにもうちょっと焦点を当てても良いのではないでしょうかね。公共事業投資による景気対策、経済効果への期待ではなく、会社、個人としてどれだけ、新しい時代にフィットした仕事を創り、拡大できるかという視点です。

とはいえ、稼ぐためにはモチベーションが必要です。

このモチベーションが難しくてですね、特に僕の場合は、あまり稼ぐことに興味がないのと、年齢とともに、体力と気力が目に見えて低下しているので(深刻)、自分で自分を叱咤しながら働く必要があります。どんな人にとっても、キャリアのゴールは「好きなことをして稼ぐ」を実現することだと思っていますが(やっている仕事を好きになる、とは意味が違います)、お金を稼ぐためには、時として気乗りしないことをする必要もあるし、ウマが合わない人と一緒に仕事をしなければならないこともあるし、そもそも「好きなこと」が現代のニーズに合わずにお金にならないことだってある。

だから、僕の場合は、一ヶ月の自分の時間の使い方を、お金稼ぎ10日、ボランティア10日、休み10日、という比率で分けています。ボランティアとは、本当に自分がしたい仕事のことです。すなわち、今すぐお金にならないことでも、やりたいこと、すべきことであれば、やる。

そのために10日のお金稼ぎで、そのボランティア10日分も稼ぐ、ということをやっています。なかなかチャレンジングだし、どうしてもお金稼ぎの比率が増えてきて、ボラを圧迫する傾向にありますけれど、そこをうまくバランスを取るようにしています。それは、気力(またはモチベーション)を維持するためのものです。遠回りですけど、そういう性分なので仕方がありません。そのうち「やりたいこと、やるべきこと」でも稼げるようになれば、比率は変わるかもしれませんね。

気力の低下をどう防ぐか、そして、どう稼ぐか。

体力、気力、知力、財力はリンクすると思っています。すべてをバランス良く維持するために、自分で自分を叱咤激励しながら、錆びた自転車を漕ぐかのように、必死で毎日を生きている師走です。

一回目の定年と二回目の定年

最近、腹巻きを愛用している自分です。
自宅では厚手の腹巻き、外出時は薄手のスポーツ腹巻きという風に使い分けているのですが、これがなかなか良い。冷えは万病の敵といいますからね、身体の温度を下げないようにしなければなりません。

さて、人生100年時代というと、折返し地点はやはり50歳になるのでしょうか。

僕は以前から、定年60歳(65歳)というのに違和感を感じています。平均寿命が75歳の時代ならそれでも良かったと思うのですが、今って人生100年時代なんでしょう?60歳、65歳はあまりに中途半端。先はまだまだ長い。そこで考えたのは、50歳定年説です。まだまだ元気なうちに一回目の定年を迎える方がいいのではないか。そういや、サントリーの新浪社長は、45歳定年って言ってましたね。それもありです。

人生100年のうち仮に働く期間を50年とすると、それを半分に割って25年×2回とする。新卒でも中途でも50歳で一回目の定年を迎える。50歳から第二のキャリアのスタートで75歳かそれ以上働く。50歳からは今まで勤めた会社から離れ、培ったキャリアを活かしてまったく別の業界で働いたり、起業したり、フリーランスになったり、次の25年を活き活きと活躍できるように、まったく違う、新しいことをする。自分が社長であったなら、自分が作った会社を若手に譲り、自分はまったく違うところで起業してもいい(会社を作る力がある人は、どこでもなんでもできるはず)

そうすると、しがみつきや、ぶらさがり、役職定年問題、無理やり必要のない役職やポストなどを用意する必要もなく、若手の邪魔もすることなく、それぞれの年代で楽しく働けるのではないだろうか。

今は人出不足なので定年引き上げで長く働けるようにした方が良いという人もいますが、これから先、労働力っていらなくなるはずなんです。AIや自動化が進むと労働者は必要ない。しかも人口も減少してマーケットもシュリンクしているので、サービス業もどんどん縮小しても良いのではないか(たとえば、コンビニやファミレスは夜21時までの営業にするとか)。大きな商業ビルやタワマンを建てる必要もなし、ハコモノ行政を脱却、地方の不採算道路はメンテの必要もなし、リニアも作らなくてよろしい。今ある新幹線をメンテして使おう。(話が脱線)

既存の産業での穴埋めの労働力としてシニアを見るのではなく、50歳以上はまったく新しいマーケットで勝負するか、新しい市場を創るという世の中がスタンダードになれば良いなと思います。そっちのがワクワクしますし、楽しいですよね。

とはいえ、今すぐにやれと言われても難しいでしょうから、定年50歳は10年後などからスタートするとして、これからの若者は、20代、30代のうちから、そういった先を見据えて、若いうちにしっかり会社で働き、出世し(僕は若者たちには、まず一つの会社で10年〜15年は働いて出世や昇進を経験するようにとアドバイスしています)、会社員として働いている間に、会社のリソースを使って社内・社外で人脈を作り、スキルを培い、専門性を高めて50歳以降の第二の人生に備える。そして同時進行で後進育成も行う。

様々なニュースを見ていると、今って、明らかに時代は変わりつつあり、旧態依然としたやり方では100%破綻するのが見えているのに、昭和・平成のやり方を中途半端に引きずっているように見えて仕方ありません。オリンピックや万博なんてその最たるものですし、政策や行政も同じです。民間ですらそうなんですから。

そういうことを、理事を務めている、一般社団法人 白秋共同研究所でも研究テーマとして扱って行きたいなあ。

変えるなら、ドラスティックに変えないと、何も始まりませんよね。
さあ、12月だ!

日々は塗り絵

15年前以上の話でしょうか、スペインに住む読者の方から「tmkさんのブログは、毎日を丁寧に塗りつぶしておられるようで、いいですね」というコメントをいただいたことがあります。

当時はほぼ毎日更新をしていた時期でしたから、その日に起こった出来事や仕事の振り返りを行い、自分なりに解釈分析をしていた時期でした。15年前というと32、3歳の頃でしょうか、とにかく仕事も忙しく、徹夜は当たり前、遊びも子育ても毎日怒涛のようにこなしていて、今振り返ると本当に良く生きていたな・・・と思います。

毎日を丁寧に塗りつぶす

このフレーズがずっと頭に残っていて、ことあるごとに思い出します。
いくら忙しくても、逆にいくら暇でも、その日をしっかりと隅々まで塗りつぶせていたかどうか。それはすなわち、なにもせず漫然と時間を過ごすのではなく、一瞬一瞬に意味を付与できているか、ということだと思っています。

上手く行く時もあれば上手く行かない時もある。目の前にタスクが山積していて何から手をつけて良いか分からない時もある。でも、そういう時こそ全体を見るのではなく、目の前にある小さなものに目を向けてそこから手をつける。小さなことからコツコツと。そして、力を入れる時と、抜く時のメリハリをつけること。ぼーっとする時間も取り、その時間に意味を付与する。そうすると、隙間やムラが出来ず、隅々まで丁寧に色を付けることができると思うのです。

ビジネスも同じかもしれませんね。
結果が出ない時にも意味をちゃんと付与してあげる。事業なんて一朝一夕に結果が出るものはない。最短距離でゴールに向かいたいという気持ちを押さえつつ、考えて実行し、うまく行かなければやり方を変えてまた実行する。ある場合、環境(付き合う人や、事業を行う場所)を変えてみる。動きながら、変わりながら、前に進めるかどうか。

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11月に入ったばかりだと思ったのに、もう中旬に差し掛かりました。

今年も残すところ、あとひと月と半分。すでに年末進行の様相を呈していますが、年明けから春まで大きなイベントが待ち受けていることもあり、仕込みと刈り取りのメリハリを付けながら日々を丁寧に過ごして行きたいと思います。

それでは、今日から一週間、元気に参りましょう。

季節を感じる

この三連休は季節外れの暑い日が続きました。
今年はエルニーニョ現象が続き、冬も暖冬になるそうですね。

「今冬は暖冬傾向、エルニーニョ現象の影響で9〜2月の気温は平年より高い予想」ウェザーニューズ、2023.09.06

日本はせっかく四季があるのですから、春夏秋冬のメリハリがきっちりしている方が嬉しいのですが、気候変動の影響でしょうか、境があいまいだったり、季節外れの何かがあったり、穫れるはずのものが穫れなかったりというのはなんだか気持ち悪いなと思う今日この頃です。

さて、10月は割と出掛けることが多く、それなりに秋を楽しむことができました。

金沢・近江町市場

金沢駅近くの居酒屋でボタンエビなど

富山・雄山神社

称名滝の紅葉

そして、秋といえば、ひやおろしに新そばですよね。

季節を感じることができるのは、それだけ平和な証拠だなと、昨今の戦争や紛争のニュースを見ていて思います。人間ってなぜ殺し合い、搾取したりするんでしょうね。環境は壊すわ、勝手に増えて地球上の資源を食い荒らすわ、同じ種族で殺し合うわ。地球にとっては一番迷惑な生き物でしょう。

富山の雄山神社で修験道の行者さんたちを見かけた時、人間ってもっと謙虚に生きるべきだと思いました。

いつの時代も人間同士で争いはあったでしょうし、これから先も未来永劫、争い事はなくならないと思いますが、日本人は昔から自然を敬い、自然を崇拝し、自然と調和して生きてきたのでしょう。その文化を大切にしていきたいですし、そうすることで、日本人らしく和の心で生きていくことが少しでも出来れば御の字です。そういう意味では、キリストやイスラムなどの一神教は八百万(やおよろず)の日本人にはどうも合わない。一神教って、それこそ争いしか生まないように出来ていますよね。(あ、それぞれの宗教を否定しているわけではありませんよ)

さて、11月に入りました。
今年も残すところあと2ヶ月。昨年と今年でどう変わったでしょうか。少しは進歩したでしょうか、それとも退化したでしょうか。進歩ありきとは思っていませんが、良い意味で成熟した考えを持ち、その考えをベースに生活をデザインできればとは思っています。

あと二ヶ月、今年の集大成です。

小さなことから少しづつやっていこう

10月、11月は一年のうちで一番好きな季節です。
どこに行っても何をしていても気持ちいい。空気もからりとしていて、涼しい風が吹いて、上にパーカーなど少し羽織るものがあるくらいがちょうど心地よいですね。

最近はカフェでコーヒーを飲んだり、蕎麦屋でひやおろしと新そばを楽しんだりしています。ゴルフ場も山も今がベストシーズン。季節の変わり目に体調を崩しやすいので警戒していたのですが、おかげさまで体調も良く、このままの状態がずっと続けば良いなと思っています。

さて、最近、世の中を少しでも良くしていこう、大きなことはできないけれど、小さなことからコツコツとできることをやって、自分と自分の周りの人間くらいは幸せにしよう、助け合いながらなんとかやっていこうという気概に満ちた人が増えている気がします。

自分の利益を満足させても幸せではない。最新の機器や贅沢なものに囲まれていても、それが何の役に立つのか。「誰かの、何かの役に立ちたい」という利他の精神や、ありがとうと誰かに言ってもらえることが、心身の満足と健康に繋がり、居場所を感じ、生きている実感に繋がるのでしょう。

でも、「役に立ちたい」はあくまで自発的な意思によるもので、自分が納得できないことであれば動きません。たとえば、同じ「役に立ちたい」でも、裏側に政治や、使途が不明なものや、実は違う目的がありそうなものは、人の関心を引くどころか非難の対象になることもあります。

たとえば、このニュース。

阪神&オリVパレードのクラファン、出資伸びず 1週間で3千万円、目標の6%どまり(神戸新聞NEXT)2025/10/25付

オリックスと阪神の優勝は嬉しいけれど、パレードの開催に際して実行委員会の裏に大阪府がいたり、まったく足りていない万博の資金の補填に使う疑惑があったり、盛り上げようとPRに利用したり、そもそも5億円集めて何に使うの?といった不透明な意図が見え隠れすると、総スカンをくらうということです。両チームの優勝、関西ダービーにあれだけ関西が熱狂しているのに、です。(まあ、これから増えるかもしれませんが・・・)

人々は本当に成熟していて、普通の市民ほど物事を冷静に捉え、迎合されず、本当に良しとするものであれば積極的に支援し動くという本質的なところに目が向いているのだなと思います。

本当に今と未来に必要なものは何なのか。数十年前の成功体験に縛られ、動き出したら動き出したでサンクコストのジレンマ(コンコルド効果)に教科書どおりに陥り、損失を湯水のように増やし、未来の子供たちに負の遺産を負わせるようなことばかりをずっと見ていると、政治や行政や大企業ほど、責任の所在地が不明確で押し付け合い、意思決定のスピードが遅れていくんだなあ、と思います。頭の良い人が集まっても、歴史から学ばず、同じことを繰り返してしまう。

小さなこと、身の回りのことから少しづつやっていこう、という市井の民の方がよほどピュアで賢いと思うので、僕はそちらを大切にしながら、自分でも出来ることを探して、小さなことから少しづつ活動をしていきたいと思います。

根を張り、花を咲かせるためには

朝と夜が涼しくなり、いたるところから金木犀の香りが漂ってきます。
我が家にも金木犀の木がたくさんあり、それぞれが花を咲かせ、香りを放ち、一年がめぐってまた秋が来たなと実感します。

金木犀のような植物のすごいところは、大して世話もしていないのに、そこに根を張り、毎年、花を咲かせること。主張も要求もしなければ見返りも求めない。それなのに、人を癒やし、動物や昆虫の糧となるんですよね。

広告やPRが効かなくなって久しいですが「本当に良いもの」は、金木犀のようなものだと思うのです。自分を誇示したり、自社の製品やサービスをよく見せようとしたり、必死でアピールしたりしなくても、良いものであれば自然と人が集まるし、売れるし、成長するし、社会に貢献する。一方、無理やりなものはすぐに見抜かれてしまいます。

良い意味で社会は成熟しているし、人はその裏側に有るものや本質に目を向けるようになっています。ハリボテで作られたものや、メッキが貼られた物はすぐにバレてしまい、本当に重要なこと、たとえば環境に優しいものや、人の温かさや、利他の精神や、愛や、思いやりや、社会の役に立ちそうなことが見えないと、相手にもされません。

高度経済成長期やオリンピックや万博などに代表されるように、未だに過去の成功体験や価値観から抜け出せず、今やっていることが上手く行かないことの原因が分からず、断末魔をあげながら、それでも過去の虚像にしがみつこうとして、周りに迷惑を掛けながらもがいているような光景も目にします。それは人も同じで、見ていて「そういうのはもうだめなんだよ」と思うこともあります。

分断が深刻な影響を及ぼしている現在、見えているものが本当に良いものなのかを見極める力が必要だし、自分は自分で自己研鑽が求められています。

金木犀のように、しっかりを根を張り、見返りを求めず、周りのために花を咲かせることができるか。日々、自己研鑽です。

抽象化の先にある「ポンコツでも大丈夫」

情報が溢れている現代において、正常な見方と精神を保つためにますます抽象化能力が求められていると感じています。抽象化とは「物事の共通部分を抽出して、把握すること。一般化。上位の概念に物事を昇華して考えること」です。

物事の本質を見極めるためには、抽象化が必要です。出来事を点で捉えているだけでは全体像が把握できないし、言葉を読んだり聞いているだけでは、その背景は見えない。大切なのは、全体像であり、本質であり、背景であり、心理です。WHATではなく、WHYの視点が大切です。

ウクライナ紛争に加え、イスラエルとハマスの衝突など、世界は相変わらず不穏なニュースで満ち溢れています。なぜこんなことが起こるのだろうと心が痛みますが、歴史を学ぶと分かるとおり、人類の歴史=戦争、天災、疫病の繰り返しです。ジャレド・タイアモンドや、ユヴァル・ノア・ハラリなどの歴史家の本を読むと更に理解が深まりますが、人間とは非常に特異な生き物で、愛し合うけど殺し合うし、進歩や技術革新、豊かで便利な社会と称して、強者が弱者を支配するシステムを構築しようとします。

いくら経済学が発展したといっても、世の中の格差を解決し、豊かで平和な世の中を実現することはできていません。つまり、人類の歴史とは「そういうもの」なんだと思います。昔より今の方が良いというわけでもありませんしね。現代の東京よりも江戸の方がはるかにSDGsな街だったことはよく知られています。まあ、進化と退化、増加と減少を繰り返しているわけで、今、また退化の方向に向かっていると感じています。要するに「思ったとおりにならない」のが人間と人間社会なのかもしれません。

「人間は考える葦である」で有名なパスカルは、「人生は壮大な暇つぶしである」という言葉も残しました。

本当にそうだな、と心底納得します。なぜだか分からないけれど生まれてきて、生まれてきたら、なぜだか分からないけれど80年〜90年くらい生きて死にます。では、その間をどう生きるか。抽象化して、人生を積極的な「暇つぶし」と考えることができれば、人と比べることもなく、自分の生きたいように生きて、それが何か人の役に立つことであれば尚良し、くらいの気持ちでいれるのではないか。

良し悪し、優劣をつけようとするのが人間の悪い癖で、物差しはなくていいし、あるとすれば、自分で自分を測るためのものであれば良い。抽象化の先には、「ポンコツですけど、死ぬまではがんばって生きたいと思います」くらいの決意が残り、それだけで十分なのではないのかなと思います。もちろん、何かを見捨てたり、諦めたりするのではなく、少しでも良い方向へ、期せずして同じ時代に生まれた身近な人を少しでも幸せにできれば、その小さな努力だけでも立派なことだと思うんですよね。

ポンコツが階段を一段一段登っていく図

魚のいない池に釣り糸を垂れていないか

現役女性大生、女子高生(もちろん娘たちのことです)と一緒に住んでいると、同じスマートフォンでも使い方がまったく違うなと思うことがあります。

そもそも利用しているサービスが違う。
インスタは同じかもしれないけれど、彼女たちは得体の知れない(少なくとも自分には馴染みがない)サービスを利用しているし、インスタの投稿もストーリーズのみ。FBなんて登録したこともなければ見たこともない。

僕の個人的な肌感覚では、30代前半くらいまでの層はFBに登録してはいても見ていないんじゃないかなと思っています(年代別登録率では30代が一番ですが)。一応、上司や先輩に言われて、あるいはビジネスで必要だという理由で登録はしているというレベル。自分からの発信は、Twitterか、すぐに消えるインスタストーリーズ、またはTikTokで、フォローしているのは自分が関心のあるアカウントのみ。つまり、僕たちが日々FBやその他SNSでシェアしている情報は、30代前半までのビジネスガチ勢以外の一般的な若手(若手というのか?)にはほとんど届いていないんじゃないかなと思うのです。

SNSでの発信は、自分を含む中高年が、同じ属性、同じ年代の中で、絵日記をぐるぐると回している感じなので、10代、20代、30代との世代間ギャップは生まれるし、これからの時代を背負っている、いや、すでに引っ張っている若者世代には、我々の日々の発信はほとんど何の影響も及ぼしていないということを考えると、バーチャル、リアル問わず、どこに行っても変わり映えのしない景色が広がっているな、同じ人としか出会わないな、と感じることに納得できるのではないでしょうか。

こういうことを考える時、自分たちが発信したい情報を、誰にどのように届けるか、その見極めがとても大切だということが分かります。魚のいない池に釣り糸をたれても何も引っかからないのと同じで、狙う獲物はどこにいるのか、どのようにすればコンタクトできるのか、これを考えなければならない。そして、それは単純にSNSでシェアすれば良いというものではない。見ているのは「いつものひとたち」だから、広がりがない。最初は広がっても徐々に縮小し、10年経てばほとんどなくなります。

またコミュニティに関しても、同じ属性・年代がいつもの場所に集まっているだけなので、新しいムーブメントは生まれず、結局、旧態依然としたビジネススキームを回しているだけで、イノベーションは生まれません。

では、どのようにすれば良いか。
それはやはり有機的な活動を行うリアルな団体間との連携であったり、企業、大学、地域のコミュニティなどの場との接続、異質な者同士が共感し合う、魅力的かつニーズのある理念、コンセプト、サービスの設計なわけです。「こういうのを求めていた!」というものを見つけ、なおかつ前述のような有機的なリアルな団体や、影響力の強い企業とのパイプがあると、一気に広がる可能性があります。

先日、第一回の服部足祭りが開催されました。
長年続く有名なお祭りならともかく「第一回」です。第一回にも関わらず、50社を超える企業の協賛、90名以上のボランティア、二日間で1万人以上の参拝者が集まりました。これはまさに、上記の条件をある程度満たしたものではないかと思います。

もちろん、これから長く続けていくために、進化し続け、改善を続けて行かなければなりませんが、モノと情報が溢れている世の中でも「良いもの」には自然と人が集まるということなんだろうと思います。

というわけで、なにかしら広がりがほしい時、ビジネスを拡大したい時、停滞しているように感じる時は、安全圏から出て、異質の空間に飛び出しましょう。